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人を変えることはできない、しかし「ピン」とくる機会を作るのはできること

政策は「外国の方を受け入れ共生していく」ことを掲げ
多文化共生を打ち出す

そのことばには「いいもの」という価値観が与えられ
「一人一人みんなちがっていいんだから」

さらりと、スローガンのように、
あたかも、昔からありましたよ的な「多文化共生」

しかし、実生活の中で
ー本当に「多様性」「多文化」っていいものなの??って思うことが
ときにある。

自分と異なる意見の人に出会うときに生じるネガティブな思考
マウンティングなんかも、
どこかで「いい」「わるい」「私の方が正しい」「あなたのはちょっと。。」
という、個人の価値観で判断していることがあるのかな?という瞬間瞬間を
相手の表現から感じとってしまうことがある。

結構、フラットに接すること自体、簡単なことではない今までだったのかもしれない。

先日、「私は経験してきているんですよ」と経験を全面に出し、それを「よし」とする語り?と思う場面があった。その経験は否定しないものの、やはりそれは世の中の仕組みとして語るには無理があるとひっそりおもった。

だから、多文化共生は、「いい」「わるい」でなく
本当に、1人の人間として、脅かされることなく、安心して暮らせるか、、という視点だとぼんやり思うのだが
そのためには、私たち一人ひとりが意識を変えていく必要がある。

この意識を変えていく、ことは論文等でもよく見かけるが
他人の意識を変えるのは、相当至難である。
人に教え込む、そして理解した、そして変わる、などという単純なプロセスではない。

意識を変えること、そしてそれが行動になるために
意識して→忘れる→失敗→また意識し直し→時々成功・忘れて失敗→・・こんなエンドレスに何度も経験し、習慣化されるのだと考える。

仕事で外国人生徒等の事業に携わり、研究を進める中、
最近一冊の本にであった。

恒吉僚子先生の章が、的確な言葉でささる。

これは是非、お読みになった方が、自分で先生の言葉を味わってもらいたい。

外国人を受け入れるマジョリティのなかには「ピン」とこない人が多いのだ。
共に暮らすこと、多様性について

でも、人を変えられるのかというと、先の通り
変えられない

けれど、変えるきっかけ作りはできること
自分自身を見つめることができる機会を提供し、もやもや。。。としてもらうこと

そういうのが市民性教育なんではないか

私が行うワークショップはそういう位置づけだったのだと
博論を書いているときには「表現しきれなかった」ことを
表現してくださった本にであった

そして仕事を通してある先生から「30年前から同じことが言われていて何も変わってないことも問題」とのご指摘が。

驚愕である。

そう思うと、数年前に政策転換したからって、一人一人への浸透は当然まだまだ

本当にこれから

できることを、しよう。


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