李良枝『由煕(ユヒ)/ナビ・タリョン』

これも声の話だった。  

あるときは聞きそびれてしまい、あるときは声になる前の声を聞きとってしまい自分のものにしてしまう。いつも、誰もがそう。声を聴くのに失敗しつづけ、ねじれてどうにもならないほど絡まりつづけてきた声の記憶にもがく身ぶりの話だった。

彼女がもがいて空を掻く文字は、外側にあった文字だった。外側にいるから聴き取れるという構図が、状況が、この世界にはたくさんある。外側にいるもの、自分にはどこにも居場所がないと知っているもの、汲みつくせないほど深い孤独を抱えているもの。そんな存在がある。誰かが空を掻く手に肌を剥がされ、その孤独は声のような文字になる。

ずっと、うまく誰のものでもなくなれないでいたものが、文字の声になるときがある。そのことは、ここに書かれていた、別の彼女がおもった「ことばの杖」に通じるだろうか。

文字が、息をしていた。
声を放ち、私を見返しているようだった。
ただ見ているだけで、由煕の声が聞こえ、音が頭の中に積み上げられていくような、音の厚みが血の中に滲んでいくような、そんな心地にさせられていた。
由煕はこれらの日本語を書くことで、日本語の文字の中に、自分を、自分の中に人に見せたくない部分を、何の気がねも後ろめたさもなく晒していたのだと思えてならなかった。

引用した上の文章は、別の本でこの本について引用されていた箇所。下の文章はある短歌のなかに使われていた「さらす」という言葉を思って引用した箇所。

李良枝の小説を読んだのははじめてだった。ものすごく懐かしい感情が流れ出てくる。わたしは80年生まれで、そうだった、こういう空気感だったと思う。正面から見てはいけないものを見たくて、聞きたくて、隠れて読んでいたのは、こういう空気感だった。

大人が苦しむのを見たいと思う、そういうことをこどもに思わせるような、大人とこどもの関わりがあるということを感じていたのか、大人がこどもに見られることで自分たちの苦しみを苦しんで自分たちの幼い声が出せた、そういう時代を感じていたのか。
「時代」とざっくり区切ることで分かりやすくなる気がするような、区切ることができてしまう時間のなかにいたのか。

外側にいること、いなくなることで聴き取れるものがあるということ、境界を意識することで思えることがあるということをさいきんよく思わされる。また、もうそういう方法でしか聴き取れないのではということを。高度で間違いやすいけれど。


李良枝『由煕(ユヒ)/ナビ・タリョン』(講談社文芸文庫)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?