2020.11.04

排泄の場所を覚えてほしく、犬のサークルを買った。きゅんきゅん鳴くので切なすぎる。犬と人間と一緒に暮らすということはこんなふうな暮らしていき方でいいのかよく分からない。犬にとってこれでよかったのか、これからも彼が楽しく幸せに過ごせるのかぜんぜんよくわからない。楽しく幸せに、がいいのかどうかということも。野性でもって生きていく生き方とはぜんぜん違う生き方。

犬との関係は主従の関係につきるという。散歩の仕方にしても何にしても、つねにどちらが主かというところを抑えないといけないそう。きゅんきゅん鳴くのが切ないからといって隣に一緒に居すぎるのもよくないという。

自分はよく噛まれる。子どもが犬を飼い、わたしはそのまわりにいる人。そのつもりで飼うのだということを伝えて、納得しあって一緒にいることになった。一緒にいることになったら自分が自らどんどん相手の召使いのように関わっていってしまうところがある、と思う。それでなめられて噛まれるみたいなのもあるのかもしれない。その関わり方が自分にとって楽なんだろうな。と思う。

行くと言っていた皮膚科に直前になって行かず、写真を撮って先生に見せて診断してもらった。自分にとって自分が間接的にdisorderと付き合う位置にいるというのは、生活のひとつひとつにつまづきの種があることで遅れをとることや間に合わないところに体力的なしんどさがあること、ときにそのひとつひとつと博打のように関わるしかないときがあること、その博打のドキドキに生きている感じを受け取ってしまい、歪んだ依存状態にはまってしまいそうな足のとられ方をすること、資源や知恵がないとそうなるということ。それらを安易に情と絡めてしまいそうになること。そして、それ自体はほんとはどうでもよく、何かもっといろいろな方法があって、もっとうまくできるはずなんだけどといつもとてもよく思う。

ただ、経験値が上がって土台がぐにゃぐにゃながらできてきて、柔軟性のある受け入れ先や便利グッズや知恵、工夫と出会う環境を求めることができるようになってきた。彼の内にいてときどき彼自身を襲ってくるものに、彼自身に名前をつけてもらった。

また、土台ができてきたのは周囲の状態が「良く」なってきたからで、今まで自分がこの環境下でわりと相手と対等な条件にいるように感じていたのは、その周囲の側がハンデを負っていたからかとも気付く。周囲が良くなって土台があるのだから、条件的に女はこれくらいの仕事をしてあとはこれに力を注いでもらえれば。そういう空気は常にあり、幸運なことにそこから距離をおくことができていた。

キャベツひと玉とジップロックがあったから作り置きをした。作り置きなどしたのは100年ぶりくらい。ものの置き場所があることになって、そういうことをすっとできるようになった。いきなりの休校の命令はほんとうにひどかったけれど、そういうことがあって友達が遊びにくるようになった期間があったこと、100年ぶりくらいにストウブで何か煮たい気分になったのも嬉しかった、あれからまたたまに使うようになった。

河野裕子歌集『あなた』(岩波書店)。この本は彼女の全部の歌集から歌が入っていてとてもお得なんだと思う。その人の生活や信念が見えてしまうような気がしてなんとなく苦手だったけれど、そんなのそんなに簡単に見えるものではない。なんと感性豊かな、水のようにナチュラルに必然に流れる歌、読むうちにものをみる目を潤してくれる歌ばかりなんだ、すごいすごいと思いながらぱららと読んでいた。ゆるくやわらかく、自由に着物をまとうような手つき。

人の死がわが身にしみじみ入り来てとてもやさしい ええええと頷く

(永田和宏・永田淳・永田紅/編 河野裕子歌集『あなた』(岩波書店)(『葦舟』より))


相手にとって重要な親密なことを伝えるタイミングだと思い、伝える。自ずとバランスをとるようにわたしは相手の遠くに立ってそのことを教える。

休日はこの通りはとくに静かになる。聴いたら何もかもどうでもよくなる音楽を聴きながらスーパーへ行った。

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