2020.10.03

それは主を失い、疲れ果てて孤独の時間の円環のなかを死ねずにいる髪の毛のかたまりのように見えた。理不尽に割り当てられたひとりの人間とずっと運命をともにし、ものいわずその人間と社会の境界にさらされ、埃やあぶら、温度を取り込み自らにまとわりつけ、重たく複雑に絡まり過ぎて自分がどこまでなのか命がどこまでなのか分からなくなった、髪の毛の塊。

ここにこんな大きなサイズの髪の毛が置かれてある意味が分からなくて頭のなかがフリーズする。暗闇のなかで眺め、手元の地図と自分の位置を確認しなおす。髪の毛の塊だとわたしが思い込んだのは、椅子に張られていた布だったと知る。

ただ、持って帰った地図は引っ越しの準備のため箱詰めしてしまい、記憶もあやふやなので、ほんとうに「椅子に張られていた布」だったかどうかあやしい。

大量に印刷された、レディメイドの、たまたまわたしが手に取った、わたしに与えられた、1枚の手元の地図をたよりに、非常に分かりにくい配置でごとっと置かれたモノたちと一回一回出遭い、これは何かということを確認しながらその暗い部屋を歩いた。

鏡、それも、汚され曇らされた鏡、裏側、それも剥き出しの裏側、部品、捨てられそうになっていたもの、人の暴力や愚かさ、弱さ、複雑さ、無知さといった歴史のなかでものを言わずにそこにたしかにあったもの、記憶、記録、文字が背負う言葉、つよいアイコン性をもつもの同士のレイヤーをずらされた組み合わせ…そのひとつひとつに作者が何らかのかたちで常に介在していること、手を加えていること。

「ヤン・ヴォー ーォヴ・ンヤ」と記され、口にするときは「ヤン・ヴォー」展。作家からのメッセージはとても明確に記されていたし、音声ガイドでも聞いた。

自分がその場で出会ったものたちについては、難しすぎて記憶を持ち帰り調べたり反芻したり創作しないとぜんぜん分からない。

ただ、〈わたしの見ていない風景ばかりを、わたしとは別の見方で見てきた(でも、所詮「見る」というわたし側の言葉で代替えすることで近づこうとするしかできない存在の仕方で存在をしてきた)もの〉の(作家によって設えられた)間に身を置き、迷い、見られ、さらす経験をしたのだと思う。

それと、そのときの生々しい情報にどんどんあたれなくなっていく複雑で実に多面的な史実と、複雑で多面的な今のこの場所との境界を感じ取った。

その経験を記憶した身体、の、痕跡としてのわたしが歩く、見る、つづいて、地下2階へ上る。エスカレーターに運ばれて。

同時に開催されていた〈越境する線描〉展は、セレクトされていた作家たちもコンセプトも自分の大好きなものだった。

自分はものごとが立体的になると途端に混乱と不安にのまれるほうだと思う。線ならばどこまでも行ける、そして完成に辿り着けずどこにも行き着けない。ずっと迷っていられる。ティム・インゴルドの本を興奮して読んだことを覚えている。

何にも定まらずに線を伸ばし、逸れ、裏切り、流れにまかせることはすごく気持ちのいいことで、陶酔してしまう。この線はたしかに自分が引いてきたもので、のこっている痕跡に自分が存在してきたことを感じて安堵する、支えられながら線を好きに伸ばす。

どんどん自分でも知らなかった線が現れ、空も飛べるような気持ちになる。この運動体が自分じゃなくなっても構わない。それはずっと続いて来たことだから、自分じゃなくなっても自分だから。

今回思ったことは、自分の線がどこまでも引かれ、その線にどこまでも自分は責任がある、ということだった。

古い記憶、知らない記憶。その〈記憶〉自体のために記憶を残す労働、仕事をする人がいるのだと思うし、人にはそういう性質、働きがあるのだと思う。


ヤン・ヴォー ーォヴ・ンヤ(10月11日(日)まで)

コレクション1:越境する線描(10月11日(日)まで)

国立国際美術館


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