見出し画像

旅とわたし

中学生の頃
「国際協力」「国際化」という言葉が教育の現場で盛んだった。
英語の授業では英語圏の人が先生と一緒に授業を展開し
その一瞬は教科書上の英語ではない、温度感がのったリズムある英語のキャッチボールが魅力的だった。
が、英語の授業が嫌いで、苦手だった私は、矛盾した自分の立ち位置に葛藤していた。
海外には興味がある。
けど、英語の授業は大嫌いだった。

その思いを引きずったまま
大人になり、社会人として仕事を始めた。

まずは3年は頑張ろうと決めていた。
その時に、どうしたいか考えて動けるように
与えられた仕事を我武者羅にこなし
吸収するスタイルで仕事をしていた。
社会人2年が過ぎた頃には自分の仕事により深く学び得たく
探究心をもって規模の大きな現場に行くことに夢を持っていた。
もっと専門性に特化した仕事をするために必要なことであり
また今以上のステージの世界に身を置いてみたかったからだ。

履歴書を書き、進みたい次なる新天地に思いを寄せていたが、
そんな時に社会人になる直前の学生最後の年に癌で他界した友人の命日がきた。
彼が亡くなった時、参列に行った私たちに両親が言った。

「息子にしてあげられない分、
我々の楽しみはあなたたちの今後の人生です。
ぜひまた会いにきては、お話きかせてくださいね。」

その言葉を聞いた時に2人分生きるつもりで出来ることをすると心に決めたのを覚えている。
友人の命日に自分に説いた。

もっと我武者羅に人生使える選択肢はないかな?って。

数年であれ自信を持って技術と経験を培ったキャリアで転職を考えていた。
そのキャリアは風化することなく
転職の時期をずらしても質は一緒だと思ったら
どうせ仕事から離れるなら一番嫌いな苦手なことをしよう。
自分のスキル「ゼロ」ポイントなことって何かな?って探した。

それが英語だった。

海外には関心・興味があるのは変わらなかった。
これからの未来に英語が必要になってくるのもわかっている。
…にも関わらず、英語アレルギーと思うほど大嫌いだ。
このゼロ以上にマイナスからのスタートになる「英語」を克服するために留学を決めた。
上司に転職を辞めて、留学にすると打ち明けた。
それなら仕事を辞めずに、当時世間で流行っていた「駅前留学」を勧められた。
英語が嫌いな人が行くと思えなかった。
たとえ上司にチケットをもらったとしても
私にとってはただの紙切れでしかない。
資金と資源の無駄であるのはみえていた。

英語圏に身を置けば、生きて行くためには必然的にコミュニケーション力が必要となる。
書かれていることがわからなくては
行きたい方向も
欲しいものも
してはいけないこともわからない。
イコール、それは生死に関わることにもなりかねない…と、
そう思えば嫌でも身についていくと思って決めた。

そんな思いで行った留学。
1年間分の学費を払い自分の時間を費やして過ごした時間は
1円も1分も無駄にしたくなかった。
自分の気持ち以上に
バックにも詰め切れない思いもしなかった宝ものをたくさん心に刻んで帰ってきた。

久しぶりに帰ってきた日本だけど、あっという間に慣れ
美味しいご飯と便利な環境にのほほんと過ごしていたが
自分が思っていた以上の速さで英語が離れて行くのを感じた。
留学先では月に1回の英語スキルテストを受けてはクラスをあげて着実に積み上げていっていたのに
帰国したら、ジェットコースターのように英語が離れていった。
身につける時間よりも圧倒的に忘れるスピードが早い。ゾッとした。
英語のスキルを失われていくことが脅威で
1日が過ぎるたびに習得した英語が失われていくと思うと
時間が過ぎるのが怖かった。
いつもその時に思い出していた言葉がある。
留学した先で出会ったヨーロッパの友人が帰国する時
悲しくて、泣いて別れを惜しんだ私がいた。
そんな私に彼女は大きくハグしながら言ったの。

We learnt English, so that’s why I met you.
 〜私たちには英語があるじゃない!だから出会ったのよ〜

彼女の言葉に嘘はない。ホントだ!って
ピタって涙が止まった。
英語があるから世界中にいる友人と繋がっていると今でも思う。

だから、帰国してからも海外に出るチャンスと方法を模索していた。
そして、自分でルールを決めた。

日本に居た分だけ、海外に出る。

もし半年日本に居たら、半年以上は海外に出る。
英語の感覚を取り戻すためにも
海外に出るなら最低3ヶ月以上はいること。

こうして、私の旅ルールが決められた。
あんなに英語が嫌いだったのに。。。
英語が失われること以上に
海外で出会った友人たちが失われていくほうが嫌だった。

こうして決めた旅ルール。
バックパッカーで複数国を周遊する事もしたり
ワーキングホリデーを使って出たりもした。
時には異国に住むの友人を訪ねに行き、お手伝いしながら滞在したりもした。
海外に出るたびに引っ越しをしていたため
帰国した時も旅ルールが出来た。

したい仕事があるところ、住みたい場所で仕事を探して帰国する。

帰国の時期が決まってきた頃には
日本での滞在先と仕事を探し始め
早い時では帰国して引っ越しも込みで3日後に仕事ということもあった。
日本でもワーキングホリデーな感覚だった。
いつしか国内と国外の線引きがなくなり
日本の地元ではない場所で住むことが
海外にいる時と似た感覚になるのが心地が良かった。

そんな生活を約10年した。
20代と30代では旅のスタイルや感じ取ること
考えるベクトルが変わってきたのを客観的に考察し面白がっている自分がいる。
でも、海外に出始めた時から変わらず思うことは
日本人であること、日本という国の素朴で豊かな育みに感謝している。
歴史があり、固有の伝統・文化が残る国。
日々の中の人々の営みにさりげなく
でも当たり前のように身につけている
四季折々の風土にあった暮らしや知恵。
その人種と
先人の知恵とDNAに感謝している。

そして、今私は京都での暮らしを拠点としている。
それも海外に出て知った日本への
自分なりの居心地の良さと愛着があってこそ。
また違った視野をもって自分の足元をみては
海外にある日本を見上げている。

やっと最近になって中学生の時に言葉に出していた
「国際協力」「国際化」という自分なりの在りようをちゃんと捉えた気がする。
まだあの時は辞書が教えてくれた意味でしか理解をしていたなかったな。
でも、英語が大嫌いなりにも海外に興味がなければ
きっと転職の時に留学は考えなかっただろうと
不思議な巡りにいつ思い出してもドキドキさせらる。

偶然のような選択は
後から思えば必然で
些細なきっかけと思っていたら
重大な理由だったり
きっと今後もそんなことの繰り返し。

人生っていうのはホント、旅のようなもの。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?