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努力は続けなければ意味がない

今日のおすすめの一冊は、内藤誼人氏の『継続はだれも裏切らない』(PHP)です。その中から「人に抜きんでる努力」という題でブログを書きました。

本書の中に「努力は続けなければ意味がない」という心に響く一節がありました。

どんな分野でもそうだと思うが、プロの世界では現役でいるかぎり、努力は欠かせない。 たとえば、ピアニストがもう十分に弾けるからと、ちょっとでも訓練を怠ると、たちまち「ただの人」になってしまう。 

ボディビルダーも、目標の身体を作ったら、今度はそれを維持するために、同じくらいの努力を必要とする。 成功したからといって、「はい、オシマイ」というわけにはいかないのだ。 

ドイツにあるマックス・プランク研究所のラルフ・クランプ博士が、アマチュアのピアニストと、ウエスト・ベルリン音楽アカデミーに所属するプロのピアニストの両方に、 「あなたはどれくらいピアノの練習をしているんですか?」と尋ねてみたことがある。 

その結果、プロが平均して週に三十三時間もピアノを練習しているのに、アマのほうは週に三、四時間であったという。 プロのピアニストのほうが、いやプロだからこそ、アマに比べて約一〇倍も頑張っていたのである。 

かりに目に見える成果をあげられたとしても、「やった!やった!目標を達成したぞ!」 と喜ぶばかりで、そこで努力をストップしてはいけない。 努力というものは、継続するからこそ意味があるのであって、

それをやめたとたんに「下り坂」になるということを肝に銘じてほしい。 たいていの両親は、子どもに向かって、 「大学に入学するまで頑張りなさい。そうしたら、思いっきり遊んでいいから」 などという励ましをする。 

まったくナンセンスである。 その言葉を真に受けた子どもは、せっかく大学に合格したというのに遊び呆けてしまって、何の知識も身につけることはない。 だから十分なおバカさんに戻って大学を卒業し、「使えない人材」と後ろ指をさされる社会人になるのである。 

私も、例にもれず、大学に入学したときには、「さぁ、思いっきり遊ぶぞ」と思っていた。 けれども、母親から、「お前は、遊ぶな。アルバイトもするな。たっぷり仕送りしてやるから、余計なことに時間を使わず、死ぬほど勉強してこい!」と言われてしまった。 

何をバカな......と当時は思ったが、今から考えれば、母親にそうやってクギをさしてもらったことは、私にとって非常に幸運なことであった。 私は、学生時代にアルバイトをしたことがない。 ちょこちょこと遊んではいたが、平日には朝から晩まで、むさぼるように古典的な思想書や心理学の論文を読みふけっていた記憶がある。 

カウンセリングの専門学校にも通っていたし、翻訳の通信講座も受けていた。 そのときに得た下地があるために、私は、作家生活をつづけていられるのだと思う。 作家になってからも、いやむしろ今のほうが、本を書くための資料を読んでいるだろう。 

努力は、ずっとつづけなければ意味がないと思っているからだ。 「体重を五キロ、減らすんだ」と意気込んでダイエットをスタートしたとしよう。 ところが、かりに成功したとしても、ご褒美だからと称してケーキを食べつづけていたら、リバウンドして元の木阿弥になるに決まっている。 そんな簡単な推論が、私たちはどうもできないようである。

 オリンピックは参加するだけで意義があるらしいが、努力というものはやっただけでは 意味がない。 それをいつまでもつづけることにこそ、意味があるのだ。

いまどき、「努力することにこそ意味がある」と言ったら、多くの人から古臭いとかカッコ悪い、と言われてしまうのがオチだ。 

なぜなら、「効率よく最短で成果を得る」とか「努力しないで痩(や)せる方法」とか、「努力しないで成功する」等々の生き方の方が主流となっているからだ。 「効率よく、短期間で、結果を出す」、という要領の良さや、損得で考える人は多い。 

まずは、努力に価値を見出すことが必要」と内藤氏はいう。 そして、「努力は決してムダにならない」と。 才能がある人や、天才ならいざ知らず、凡人は努力するしかないのはわかりきった話だ。

 しかも、圧倒的に努力することしか、一頭地抜きんでることはできない。 それを、稲盛和夫氏は「誰にも負けない努力をすること」だという。 それは取りも直さず、「継続すること」に他ならない。 

誰にもできる平凡なことを、誰にもできないくらい徹底して続けること」(鍵山秀三郎) すると、「平凡な中から生まれる、非凡を知ることができる」という。 努力をやめたらただの人になってしまう。「努力は続けなければ意味がない」という言葉を胸に深く刻みたい。

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