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遊行者のごとく生きる

今日のおすすめの一冊は、藤尾秀昭氏の『小さな修養論4』(致知出版)です。その中から「必ず用あり」という題でブログを書きました。

本書の中に「遊行者のごとく生きる」という心に響く文章がありました。

先年、百寿を全うされた伊興田覺(いよたさとる)氏は、七歳から最晩年まで九 十三年にわたり、毎日『論語』を一章ずつ素読することを日課にされていた。氏にとって『論語』に登場する人たちは旧知の友のように感じられていたのではないか。

その伊與田氏がある時、『論語』 雍也第六篇の中にある一節について、こんな話をされた。 

之を知る者は之を 好む者に如かず 
之を好む者は 之を楽しむ者に如かず
 

知る者は好んでやる者には及ばない。好んでやる者は楽しんでやる者に及ばない。 古来、多くの人が愛誦した一節だが、氏はこの上にもう一つの 境地があるという。それが「遊」である。

知には無知、好きには嫌い、楽しみには苦しみというように、知好楽には相対する世界がある。しかし、遊には相対するものがない絶対の境地である。ここに至ることが尊いというのである。天命を知ったあとの孔子の境地は、この遊に近いものがあると思う、とも話されていた。 

『礼記』の一篇「学記」には、学問には蔵学(ぞうがく)、修学(しゅうがく)、息学(そくがく)、遊学(ゆうがく) の四つの段階があると記されている。 

専(もっぱ)ら本を読み、知識を蔵にしまい込むように学ぶ。蔵学である。 次に集めた知識を整理し、自分のものにする。修学である。この段階を経ると、呼吸するのと同じように学問が自然になる。息学である。そしてさらに学問が体に溶け込み、自分と学問が一体になる。遊学である。

◆無能唱元師の(人蕩術奥儀/致知出版社)の中にこんな文章があった。

人生においては、「余裕」こそ、最も大切であります。では、余裕を得るには、どのようにしたらよいか、というと、それには、人生を楽しもう、と決心することです。

また、自分の人生を一つのゲームである、と思うことです。言い替えれば、あまり真剣に「何が正しいことか?」などということを追求するのをやめて、「明るく、楽しく暮らす」ように考えることです。

「遊行者(ゆぎょうしゃ)」と仏教ではいいます。この世の旅路を、淡々と楽しみながら生きて行こうと心がけることです。人間界にあってなお、空を行く雲のごとくこだわりのない人があったなら、その人はまさに「最高の魅力のある人」と私は呼びたいのです。

遊行者のごとく生きる人、でありたい。

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