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泥かぶら

今日のおすすめの一冊は、渡辺和子氏の『美しい人に』(PHP研究所)です。その中から「待つことの大切さ」という題でブログを書きました。

本書の中に「泥かぶら」という心に響く一節がありました。

真山美保さんの作品に「泥かぶら」という一人の顔のみにくい子どもの話がある。 みにくいが故に村の人々から嘲(あざけ)られ、子どもたちから石を投げられたり唾をかけられたりした。 それを口惜(くや)しがっておこる少女の心はますます荒(すさ)み、顔はみにくくなる一方だった。 

ところがある日のこと、その村に一人の旅の老人が通りかかり、竹の棒をふりまわして怒り狂う泥かぶらに向かって、次の三つのことを守れば村一番の美人になれると教え、自分はまた旅をつづけていくのであった。 その三つのこととは、 

いつもにっこりと笑うこと 
自分のみにくさを恥じないこと 
人の身になって思うこと
 

であった。 少女の心は激しく動揺するが、美しくなりたい一心でその日から血のにじむような努力がはじめられる。 決心は何度も中断され、あきらめようとするが、また気をとり直してはじめる泥かぶらの顔からはいつしか憎しみが去り、その心はおだやかになってゆく。 

明るく気持ちのよい少女は村の人気者となり、子守にお使いにと重宝がられる者となったのであった。 そんなある日、同年輩の娘が人買いに買われてゆくのを知った泥かぶらは、喜んで身代わりとなり連れられてゆく。 

道々たのし気に村の様子を話し、自分がかわいがった村の赤子たちについて語る少女の心はいつか狂暴な人買いの心を動かし始めたのであった。 彼は前非を悔い、置手紙を残して立ち去ってゆく。 

その手紙には、「ありがとう。ほとけのように美しい子よ」 と書かれてあった。 

そしてその時泥かぶらは、かつて旅の老人が約束した言葉を理解したのだった。 人の顔の美しさというものは目鼻立ちの良さよりもやはり自分が努力してつくってゆく美しさであり、生きている美しさだと思う。 

整った顔とか、形のよい顔というのは生まれながらのものかも知れないが、美しい顔というのは、生活の中に生まれ、彫りきざまれて出来たものである。 男女の別なく顔はその人の心の生き方のあらわれでしかない。 

年をとっていよ増す美しさ、また素顔の美しさというものを、もっとたいせつにしてゆきたいものである。 

とかく期待したほほえみや、あいさつ、やさしい言葉が得られないと不愉快になり、自分からも相手に「してやるものか」という気持ちになりやすい。 しかしほんとうによく考えてみると、できない相手こそ、それを私から必要としている人なのだということ、ここに思いやりがあり、相手の出方に左右されない主体的な生き方がある。

渡辺氏は本書の中で「人の身になって思うこと」についてこう書いてある。

 『ある日、弟子たちがキリストに向かって、 「先生の説いておられる愛とはどういうことですか」 と尋ねたところ、キリストは、 「自分にしてほしいと思うことを他人にすることだ」 と答えた。 理解されたいと願う人は、理解する人になること、慰められてうれしかったら、他人にもやさしい言葉をかけること、愛された喜びを他人に分けることが愛である』 

自分からは何も出さず、「ちょうだい、ちょうだい」とまわりに何かを要求ばかりする人は多い。 自分のことを認めてくれない、誰もやさしい言葉をかけてくれない、誰も誘ってくれない、という「くれない族」だ。 

「自分にしてほしいと思うことを他人にすること」

常に、ほほえみと、やさしい言葉を人に与え、人の身になって考えること、を大切にする人でありたい。

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