果ての浜(前)

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目が覚めた時、ハイクは一瞬自分がどこにいるのか分からなかった。数度、瞬きをする。ぼやけた視線が、葡萄酒が半分ほど入ったマグでようやく止まり、焦点を結ぶ。
俯きがちだった体を起こし軽く頭を振ると、こめかみの奥が鈍く痛んだ。鼓膜の裏にはまだ、轟く鐘の音がこびりついている。そこからやってくる痛みだった。
奇妙な夢だった。なぜあんな夢を見たのだろう。ボルボロッサから鐘の話を聞いたせいだろうか。その話から、丘の協会や時計塔の鐘の音を思い出してしまったせいだろうか。夢というより、濃厚な記憶の塊を無理矢理頭に叩き込まれたようだった。太陽の暖かさ、風に混じった草のにおい、甘酸っぱいリンゴの舌触り、文字盤が割れる音、そして、掠れた風のような声。どれもが現実となんら変わらない実体を持ち、鮮烈で、芳醇な深みがあった。
『探しに行かねばならぬ』
『我らは罪を犯した』
『我らは約束を違えた』
「なあ」
大鷲を呼ぶ。大鷲もまた眠っていたようだ。相棒はのそりと重たそうに頭を持ち上げると、「奇妙な夢を見ていたな、ハイク」と、まだ半分夢の中に居るような声で呟いた。
「分かるのか」
「もちろん。おまえが見ているならば、すべからく」
後ろで拍手と指笛が鳴って、ワルツが終わったことが分かった。かなりのあいだ眠っていた気がしたが、一曲分の時間も経っていなかったらしい。すぐに次の曲が始まる。王都の出身なら誰でも知っている民謡だ。やけにしみじみと、大鷲の声が響く。
「懐かしいな。古い夢だったじゃあないか。あれがおまえの丘なのだな。あれが、おまえの空の源たる、いやはての。そうか、そうか」
「どうした?」
「いや。……なんと美しい場所だと、そう思っただけだ。最後に見えた浜といい、きっとなにかの予兆だよ」
「予兆ねえ。だが、だとしたら、あの声は明らかに凶兆だな」
懐かしさに溢れた夢だったことは否定しない。しかしあの風の声の言葉だけは、なぜか嫌な引っかかりをハイクの中に残していた。アリアの一件の直前に感じたものと同種の、不快な予感だ。
「声?」
「ああ。時計塔で聞こえてきた声だよ。おまえも聞いてただろ」
「……わたしには、なにも聞こえなかったが」
「そんなわけないだろ。あんなにはっきり『探しに行かねば』とかなんとか言ってたじゃないか」
だが、今夜はまだ、それで終わりではなかった。大鷲が口を開くより先に、次なる波乱の源は、控えめにドアを開けて店の中に入りこんできた。
扉が閉まる音と共に、一筋の冷えた外気が店に流れこんでくる。ハイクは背後で、店全体に戸惑いと静寂の波紋が広がっていくのを感じた。楽器の音すら止まってしまう。振り向き、ハイクはすぐに事態を飲みこんだ。
埃っぽいパブには明らかに不釣り合いな、白銀に輝く鎧と剣、爽やかな青いマント。客全員が顔なじみと言っても過言ではない店に、突然そんな格好の見知らぬ騎士が入ってきたら、誰だって似たような反応をしてしまうに違いない。
ただしハイクの場合、その騎士に対して、見知らぬ、という言葉を使うことはできなかった。なんで騎士がここに来るんだ。おまえ、なんか悪いことしたんじゃねえのか。さざめくようなやりとりが小声で交わされるなか、当の騎士は、ハイクと目が合うとほっとしたような表情を浮かべ、背筋をまっすぐ伸ばしてハイクの座るカウンターまで歩いてきた。
おいおい。思わず呟きそうになるのをこらえる。
フィデリオは周りの様子にきょろきょろと目をやり、困ったように笑った。その両目は鮮やかな青色だ。
「やっぱり浮いてる?」
ハイクは自分が今、ここ最近で一番の呆れた顔をしている自覚があった。
「来るんなら、その鎧は脱いでからにしとけ」
「うーん、でも、夜の巡回が長引いてしまったし、詰め所に戻るよりも近かったから」
そう言って、旧友は明るい茶髪を二、三度掻いた。あまり懲りている様子ではないが、フィデリオの言葉に、言葉以上の意味は含まれていない。率直で飾らない言葉を使う男だ。そしてそれが、不思議なことに、何を言っても聞き手に嫌みを与えない。近かったから先に来た。本当にそれだけらしい。
ただし、長引いてしまった職務の後でも来なければならないほど、急ぎの用事ではある、と。
「まあ、おまえからすれば、鎧を着てる時のほうが都合がいいのかもしれないけどな。仕事の話だろ」
「察してくれて助かるよ」
とにかく、これだけ注意を引いてしまっては落ち着いて話もできない。ハイクは重い腰を上げ、財布を取り出した。酔いはすっかり冷めている。愛しい巣穴に戻るのはまだ先になりそうだ。
「とりあえず、場所を変えるぞ」
「ああ、うん。ごめん」
ドニは流石の落ち着きだった。代金を払っている最中も、「あいつ、おまえのダチか」と小声で聞かれ、ハイクがそうだと頷くと、ドニは胡桃と同じくらい小さな目をにっと細めた。
「中々の優男じゃねえか。将来有望そうだし、どうだ、こんどうちの娘と会ってみないか」
「へえ。俺はあんたに娘がいたなんて、聞いたこともなかったけど」
「誰が言うかよ。おまえ、軽そうだからな」
ハイクはだまって釣り銭をドニの手からかすめ、店を出た。フィデリオがすぐ後ろで、お邪魔しました、と言って扉を閉めている。根っから律儀な性格なのだ。ハイクは自分が銀に輝く鎧を着て、同じ台詞を言っている場面を想像した。爽やかに笑って、お邪魔しました、失礼します。
大根芝居もいいところだ。蕁麻疹が出そうだった。
「胡散臭くて無理だな」
「何がだい?」
「第一印象で信用を与えられるかどうかに、服装は関係ないかもなって話」
「確かに、そうかもしれないね。どんな格好をしていようときみが信頼できる人だというのは変わらないから」
こういうことを正面から言ってのける。昔は返答に困ったものだが、今となっては慣れたものだ。ハイクはにやりと笑って、ひらひらと左手を振った。
「はいはい、ありがたい限りでございますよ。それで、これからどうする」
「きみに任せるよ。僕もどこかいい店を知っていればよかったんだけれど」
「分かった。じゃあ行くか。飯、まだなんだろ」
頷き、ハイクは足を賑わいの方向へと向けた。来た道をそのまま引き返し、未だに夜更けを寄せ付けない明るい通りへと戻る。客が多い店ならどこでもよかったが、ハイクは建ち並ぶ店の中でも最も広く、席の数が多い大衆食堂を選んだ。こちらのほうが、悪目立ちする心配をせずに済む。
大麦亭の数倍はきらびやかで掃除の行き届いた店内の角机に席をとり、ハイクはラム酒を、フィデリオは同じ酒と、鳥のもも肉の素揚げ、塩キャベツのスープを注文した。空腹だったのだろう。フィデリオは気持ちのよい速さでぺろりと二つの大皿を空にした。行儀がいいので、フィデリオは基本的に喋りながら物を食べない。よく気の回る給仕が皿を片付けるのを待ってから、ハイクはゆるやかに話を向けた。
「そういや、どうして俺が大麦亭にいるって分かったんだ」
「アリアさんに聞いたんだ。巡回の途中で立ち寄ったから。そうしたら、夜はよくあそこに行っているみたい、と。それで、今回の話なんだけれど、実はきみに頼みたいことがあって」
「緊急で、だろ」
「ああ、かなり。騎士団に“果て越え”という計画があるのを知っているかい」
確か、そんな名の作戦が動き始めたと、三日前の新聞に小さな記事が載っていた。かわたれの時代にすべての水が涸れ果てたとされるかつての海、今は “白き海”と呼ばれている、その遙かな塩の大地を越え、先にあるとされる、まだ見ぬ新大陸を目指す。そういう内容ではなかっただろうか。響きはいいが現実的とは言い難い。そのようなやや批判的な一文で締めくくられていた記憶がある。
「それじゃあ、本当に騎士団は新天地を目指すってか。あるかないかもあやふやな場所に行くために、誰も越えたことのない白き海を越えて?」
「新天地は」
次にフィデリオの口から出た言葉に、ハイクはラム酒に伸ばしかけていた手を止めた。
「現実に存在している。少なくとも、國はそう仮定しているようだ。そして、その可能性を試さなければならないほど、今の國は切迫している。……僕らの小隊は、本隊に先がける形で、北の海に調査に出ることになった。といっても、ただの偵察役だから、実際に塩の大地に乗り込んだりはしないけれどね。簡単な気候の調査や、黄昏の進行状況の確認や、魔獣がいるならその観察が主な任務だ」
「北の海の調査か。それで、どうしてそこで俺なんだ」
「海岸沿いに、旧跡群があるだろう。今回の調査ではそこを目指すことになるんだ。状態のいい社が残っているから、簡易拠点としても使えるだろうと」
「なるほどな。それで、その作戦を命じられたおまえは、前に俺がその遺跡に行ったことがあるって言ってたのを思い出したってわけか」
「案内役を頼めないかな。もちろん、正式に報酬は準備するよ。後払いになってしまうけれど」
「いつからだ」
「出立の時期は僕に任されているけれど、できるなら、すぐにでも」
「急ぐ理由は」
「僕らの小隊が出るあいだ、城下町の警護が薄くなってしまう。あと一月もすれば月蝕狼の繁殖期だ。凶暴化した彼らがもしも群れで町を襲ったら、少人数では太刀打ちできない」
「他から人を回してもらえないのか」
「残念だけど、どこも手が足りなくてね」
ハイクが次々に質問を飛ばすあいだも、フィデリオは背を伸ばし、まっすぐにハイクを見ている。その青い瞳に、ハイクは大昔の童話を思い出した。とある町に立つ王子の像が、困窮した民のため、友人の燕と共に、自らの体に貼られていた金箔や、最後には瞳の蒼玉まで分け与えてしまう物語だ。結局、像はみすぼらしい姿のまま取り残され、燕は越冬できずに凍死する。
どうしてそんな話を思い浮かべてしまったのかは明白だった。ハイクは椅子に背を預け、向かいに座る銀の王子に尋ねた。
もしも自分がかの燕だったとして、この蒼玉をどうしてくれよう。
「一応聞いておくが、正ギルドのハンターには頼めなかったのか。騎士団と正ギルトは協力体制を敷いてるんだろ」
「手続きを踏んでいる時間が惜しい。それに僕は、ほかのどんなトレジャーハンターよりも、きみを信じているから」
これだ。ハイクは思わずフィデリオから目を逸らした。こっ恥ずかしくて見ていられない。
「おまえさあ」
「どうしたんだい?」
フィデリオ本人に害意がないのは分かっている。しかし、心の底から思っているというのが分かるからこそ厄介なのだ。全幅の信頼ほどたちが悪いものもない。ひとたび頷いてしまえば最後、こちらは必ず全霊で応えなければならず、途中で逃げだすことは許されない。そしてさらに悪いことに、ハイクは今、まったく不快さを感じていないのである。
どうかしている。ハイクはほとほと呆れていた。フィデリオにではなく、自分にだ。
諦め、笑い、腹を括る。こんなに人がいいというのに、ドニはまったく見る目がない。
「分かった。依頼を受けよう」
「よかった」
ふわりと緩む目元。真っ青な瞳が柔らかい楕円につぶれた。生まれた時から、天性の求心力というものを持っている人間がいる。フィデリオはまさしくそれだった。
「依頼は受けるが、金はいらない。代わりに条件がある。騎士団には俺の名は出さないでくれ」
「どうして?」
「正ギルドの顔を立ててやれ。ハンターの中でも飛び抜けて優秀な皆さんを差し置いて、俺なんかが引き抜かれたとあっちゃあ、むこうも形なしだろ。王都が歩きづらくなるのはごめんだ。だから、おまえの小隊は、ハンターの手を借りずに、単独で今回の任務をこなす。いいな」
それに、騎士団の小隊長が無名のハンターに頭を下げるなど、本来ならあってはならないことだ。これ以上自分を下げるな。ハイクが言葉にしなかった部分まで、フィデリオは正確に汲み取ったらしい。鈍感と見せかけて、その実かなり人をよく見ている。フィデリオは素直に礼を言った。
「ありがとう」
「アリアの一件の借りがあるからな」
ハイクは自分とフィデリオのグラスに酒を足しながら、小さく肩をすくめた。
「店の再建、団が補助してくれたんだろ。その時のもろもろと、事件のあとの定期巡回。騎士団に借りが残りっぱなしってのもおっかないからな。今回のでちゃらにしといてくれ」
「そこまで言うなら、僕も報告書には書かないでおくよ。けれど、うん、やっぱりきみは信頼できる人だ」
「どこがだよ」
ハイクはむっつりとほろ苦いラム酒を飲みこんだ。ここまで苦かっただろうか。フィデリオは相好を崩し、嬉しそうな顔で言った。
「彼女の件を自分の借りと感じる、そういうところだよ」
癪だ。非常に。大鷲が隻眼をにんまりと細めながら、「本当に予知夢だったな」と面白そうに肩を揺らした。久々の海に喜んでいるようだ。
一人脳天気な銃を、ハイクは人差し指で強めに弾いた。

     *

そのまま食堂で細部の打ち合わせを済ませ、出発は三日後となった。
当日の早朝は小雨が降っていた。集合場所に指定された、王都と城下町とを地上で繋ぐ煉瓦の大橋へと向かうと、フィデリオ率いる小隊はすでに銀の鎧に身を包み、ハイクの到着を待っていた。
「ああ、ハイク、おはよう。紹介するよ。僕の隊の隊員だ。左からジーナ、ジオン、セリム。それからみんな、彼が案内人のハイク・ルドラだ。トレジャーハンターをしている、僕の友人だよ」
「よろしくな」
ざっと全員を眺める。ジーナとジオンはまだ少女と少年と呼べる年頃で、二人とも揃いの樺色の髪と瞳を持っていた。セリムはどっしりとした体格で、肌が黒曜石のように黒く、この中では最も歳上だろう。編み込まれた黒髪、暗い緑の瞳が、じっとハイクを見定めている。新米然としたジーナとジオンに対して、セリムは歴戦の深い気を漂わせていた。フィデリオがにこやかにハイクを振り向く。
「ジーナとジオンは姉弟だよ。今期に入隊したばかりだけれど、剣の腕は確かだ。セリムは弓兵で、前の部隊からの付き合いなんだ」
「ジーナ・ネルソンです。よろしくお願いします」
ジーナは素直で真面目そうな印象の、はきはきとした少女だった。後ろで一つに結った髪がすっきりと首筋で揺れている。ジーナを見て、慌ててジオンもぺこりと頭を下げる。上がった顔にははっきりと「隊長にこんな友達がいるなんて意外」と書いてあった。セリムが無表情のまま、コントラバスのような低い声で「セリム・ドライフォル。よろしく頼む」と続く。ハイクは橋の周辺を見回し、フィデリオに尋ねた。
「これで全員か? 小隊ってのはもう少し大人数だと思ってたが」
「ほかにも臨時雇用の民兵はいるよ。ただ、彼らは実戦の経験がないから、今回は城下町に残ってもらったんだ」
人員不足の根は深そうだ。「苦労してんな」と正直な感想を述べるとフィデリオは一瞬苦笑しかけたが、すぐにはっとして顔を引き締め、声を張った。
「僕らは五人だから、途中までは団の小型飛行船が使える。いくつかの補給地点を経由して、海岸に最も近い村で降りる。そこからは徒歩だ。ハイクには、村から旧跡までの案内を頼むよ」
「はいよ」
「よし。それじゃあ、出発しよう」

    *

王都より北に大きな街はない。百人規模の小さな村が二つ三つ点在するだけだ。そのうち最も北に位置する村で、ハイク達は飛行船を下りた。遺跡まで一息に飛んでいきたいところだが、道の終盤、横一線にそそり立っている渓谷が吹かす風が、空の道を塞いでいる。

村を出たハイクは北西に進路をとった。このあたりは高温の乾燥帯で、一般的には、年を通して穏やかな気候が続くとされているが、実際は渓谷の周辺のみ、風は強まり、空はひどく荒れやすくなる。雨が降れば植物のない地面は脆く崩れ、そういった時に少しでも高低差のある場所にいれば、小隊は為すすべもなく滝のような土石流に丸呑みにされてしまうだろう。ハイクが選んだのは、そういった土砂崩れが起こる確率が最も低い、なだらかな台地を横断する経路だった。以前に一度通った道だが、輪をかけて植物の数が減っているようだ。
痩せた真っ赤な地平が延々と目の前に広がり、べつに面白くもないが、特段うんざりするほどでもない。渓谷へと続く平坦な道を、自分達の位置を見失わないように、地図と太陽とを見比べながら、淡々と同じ速さで進んでいく。時折立ち止まってはわずかな水で喉を湿らせ、また歩く。同じことを数日間繰り返し、ようやく渓谷の輪郭が見えてくる頃には、少しずつ小隊の中にも余裕が生まれ、任務以外の会話をする回数も増えていた。
「知ってるか。ここ、昔は一面の森だったらしいぜ」
フィデリオと肩を並べ、ごく短い隊列の先頭を歩きながら、ハイクは背後を振り返った。ジオンが驚いて目を丸くする。
「そうなんですか」
「かわたれの地図によると、そうなってるな。海の水と同じように枯れていったんだろ」
「海かあ。大昔の海って、でっかい水たまりだったんですよね。からからの塩の大地なんかじゃなくて。ちょっと見てみたかったな」
隣のフィデリオがもぞりと肩を揺らしたのが分かった。気づかなかったことにして、ハイクは話を続ける。
「今は今で、圧巻の景色だけどな。ジオンもジーナも見たことないんだろ。セリムはどうなんだ」
「遠目に一度きりだ。ただ、それでも、気圧された」
「そんなにすごいんですか」
「ああ、楽しみにしとけ。あの渓谷を越えて半日ほど行けば、じきに見えてくるさ」
渓谷に入る前に、昼食を取ることになった。昼食といっても、ただその場に座って干し肉と氷砂糖を舐めるだけだ。遺跡に到着して拠点を設置すれば、もう少しましなものにありつけるだろう。
ハイクは枯れた丸太の残骸に腰を下ろした。乾燥して中空になった木は、巨大な生き物の化石に似ている。
ほかの面々も、各々どこかしらの好きな場所に落ち着いて体を休めていた。ゆっくりと干し肉を噛む。吸った空気は熱く、砂っぽい。海が近づいている証拠だ。鉄錆に似た色の赤い土と、ぼやけた灰色の空、その中間にサンドイッチの具のように挟まって横にまっすぐ伸びている、褐色の渓谷。海ほどではないが、それを彷彿とさせるくらい、茫漠と現実離れした光景だった。
どろりとねばついた曇が、頭の上を舐めるように掠めていく。地形が平らな分、天蓋が近くまで下りてきたように感じる。水のにおいはするが、雨は降らないだろう。干し肉の最後の一切れを飲み込み、ぼうっと頭を空にしていると、一人立ち上がって先の様子を眺めていたセリムが、おもむろに振り向いた。遠方の狩人の血を引いているのだというセリムは、おそろしく視力がいい。
「隊長」
セリムは感情の浮かばない目と声で、淡々と報告した。
「渓谷の入り口付近に、魔獣が溜まっているようです」
フィデリオは一瞬の間を置き、分かった、と短く答え、立ち上がった。青のマントが乾いた風になびく。
隊の空気が変わった。

     *

セリムの報告どおり、敵は荒野の終端に群れをなしていた。そそり立つ岩壁に切り込みのように走る渓谷の入り口、その手前で、黒々とした塊がうごめいている。猪の魔獣の群れですと簡潔にセリムが述べた。この人数だ、戦闘は避けたかったが、あの位置ではまず回避はできないだろう。
「見境なく人を襲いますが、体が大きいぶん動きは遅く、単調です」
辞書を諳んじるように、セリムが淡々と付け加えた。フィデリオが小さく唸る。
「隠れてやり過ごせないかな」
「鼻が利きます。今、風は、こちらから谷に向かって吹いています。おそらくすでに我々に勘づいているでしょう」
「ハイク、きみの麻痺弾は」
「効きはするだろうが、相手の数が多すぎるな」
フィデリオはごく短い思考のあと、すぐに、走って突破しよう、と結論を出した。ジーナがすいと手を挙げる。
「群れの親はどうしましょう」
「避ける」
「分かりました」
短い言葉で話がつつがなく回っていく。いい隊の証だ。最後に全員を一瞥し、長の顔でフィデリオは言った。
「殺しても構わない。だけど、止まるな」

     *

フィデリオの合図と同時に全員が地面を蹴った。こちらに気付いた猪達が、一斉に牙をむいて突進してくる。が、確かに足が遅い。一点突破で、全力で走れば抜けられる。
まず構えたのは弓のセリムだ。セリムは隆々とした上半身の筋肉を余りなく使い、弓を大きく引き絞った。三秒、溜め、一息に放つ。ひゅ、と軽い音が鳴る。音に似合わぬ勢いで弾丸のように空気を引き裂いた太い矢は、そのまま吸い込まれるようにして、魔獣の毛深い額に深々と突き刺さった。
研ぎ澄まされた一撃。見事なものだ。
ハイクは、矢を受けて絶命し、水晶に変化しながら倒れていく体の横を駆け抜けた。銃を構える。まずは目を潰したい。意識を集中させると、空中に一筋の弾の軌道が見えた。
迷わず引き金を引く。見えた通りの軌道をなぞって、弾丸は敵の左目を撃ち抜いた。
続けざまにもう一度撃つ。銃声が響いて、もう片方の目を鉛玉が貫いた。痛みに狂った敵が咆哮を上げる。何度も足を踏み鳴らし、土埃がもうもうと上がる。ハイクと入れ替わるように、剣士の姉弟が前に出た。先に斬りかかったのは姉の方だ。速度を乗せた鋭い剣が黒々とした胴を裂き、続いて弟が、隣にいたもう一体を切り伏せた。
「よくやった。ジーナ、ジオン!」
再び前に繰り出しながら、ハイクは勢いよく二人を鼓舞した。目線はすでに次の敵へと向いている。撃つ、斬る、繰り返しながら先へ進む。ここ数日の間にいくつか練っておいた陣形の一つだ。
ハイクが太い牙を軽々とかわすと、すぐ左脇から振り下ろされたフィデリオの剣が、猪の身体を両断した。
「もういい、行こう、みんな走って!」
地鳴りに負けじとフィデリオが叫ぶ。
すでに道は斬り開かれていた。群れの終わりはすぐそこだ。
先頭にフィデリオ、更にジーナとジオンを続けて行かせ、ハイクも後ろに付いて駆け出した、その時だった。
「……来た」
いつの間にか隣を並走していたセリムが、静かに呟いた。はっとしてセリムに目をやると、男の緑の両目は、正面のとある一点を見据えていた。
目線を辿る。嫌でも気付く。
立ち込める土煙とひしめく魔獣達の間から、他の猪とは比べ物にならない巨大な一対の黄色い目が、爛々とこちらを捉えて光っていた。
誰もがその覇気を肌で感じた。周囲の猪が道を空ける。堂々と現れた個体に、隊の全員が息をのんだ。大きさは他の倍はあるだろう。まるで不動の岩石が山から転がり落ちてきて、そのまま道を塞いでしまったかのようだった。体毛は見るからに硬く、剣を突き立てたらそのまま弾かれてしまいそうだ。さして動きは速くないのに、逃げられない、と直感する。
静寂。直後に響いた咆哮は、背骨をじくじくと痺れさせる、獲物を的確に殺す為の雄叫びだった。最早これは音ではない。もう一対の牙だ。声に体を貫かれ、怯えたジーナとジオンが怯む。
二人の走る速度が落ちた。背後には、猪達が迫っている。
ハイクは叫んだ。死なせるものか。
「止まるんじゃねえ!」
びくりと肩を震わせた二人を抜き、フィデリオすら追い越して、ハイクは先頭に飛び出した。即座にその意図を察したセリムが、前足は俺がやると叫んで、無駄のない動作で矢をつがえる。任せたと声だけ後ろに放り投げ、ハイクは両足のばねにすべての神経を集中させた。こういうのは、矢も、弾丸も、人間も同じだ。ぎりぎりの所まで溜め込んでから、一息に放つ。余分なものはいらない。力はそうやって使うものだ。短く息を吐き、限界まで体を軽くする。ぐんっと思い切り蹴り出すと、急激に体の速度が上がった。ほとんど倒れ込むように態勢を低くして、まだ足りない、もっと速く。赤い荒野が吹き飛び、目の前に群れの親の巨体が迫ってくる。ちりちりと前髪が地面を掠める。
戦うべき相手ではないことは分かっている。だが、動きを止めねば生き残れない。
巨大な猪に肉迫する。
がちり、と音がしそうな強さで、互いの視線がぶつかり合った。
次の瞬間、ハイクは全身の力を抜いた。空気の流れに合わせ、下から突き上がってくる二本の牙をかわす。相手の顎が大きく上がったところを見計らい、そのまま身体をひねり、つま先から猪の足の間に滑り込む。
速度を殺さず、地べたと魔獣の胴とのわずかな隙間を一気に滑り切った。身体が柔らかくてよかったと場違いなことを考えながら振り返ったハイクの両目は、自身の銃口から猪の左右の後脚の腱に向けて真っ直ぐに伸びた二本の線を、しっかりと捉えていた。
ハイクが弾を撃ち込むのと、セリムの矢が左の前足を貫いたのは、ほとんど同時だった。
フィデリオが素早く剣を下げた。切っ先と地面とのわずかな隙間に、瞬時に水の塊が湧き立つ。借り物の力だ。フィデリオがそのまま剣を思い切り振り上げると、土煙の代わりに生じた水の衝撃波が、相手の側頭に叩き込まれた。
ついに体制を崩した群れの親は、大きな唸り声を上げながら、どうどうと地面に倒れこむ。
「今だ、抜けろ!」
フィデリオの指示が、一際大きく赤土を打った。

     *

渓谷まで逃げ込むと、猪はもう追いかけては来なかった。鋭い谷風は魔獣の侵入すら拒んでいるらしい。猪の足音が途絶え、強風が狭い谷間を抜ける音だけが聞こえるようになって初めて、ハイク達は走るのをやめた。真っ先にへたり込んだのはジーナとジオンだ。
「二人とも、よく戦ったね」
姉弟を労って、フィデリオが水を差し出した。飲用水は貴重な資源だが、さすがにあの強行突破は堪えたらしく、二人は大人しく革袋を受け取った。
一度怯えはしたが、あの場ですぐに持ち直した。大した度胸だと思う。反対に息一つ乱した様子もないセリムは、後で俺の分の干し肉も分けてやろう、と言って、順番に二人の背を優しく叩いた。薄々察していたが、この姉弟を最も甘やかしているのは、この男で間違いない。セリムは顔を上げ、フィデリオを見上げた。乾いた木枯らしのような声が、今はひゅうひゅうと心地いい。
「あの親はおそらくすぐに回復しますが、彼らは習性として、同じ場所に長く留まりません。一定の周期で移動します。復路で遭遇する心配はないでしょう」
そうか、とフィデリオは頷いた。
「余裕があったら、もう少しあの辺りを調べてみよう。魔獣の群れが居るなんて報告はなかった。また生態が変わっているんだ」
現実にそうなのだろう。人や獣だけでなく、魔獣にすら、そうして転々と住み家を変える者が増えていた。
「ところで、話は変わるのだけれどね」
会議はおしまいとばかりに、フィデリオはいくらかくだけた調子でハイクの方を向いた。
「なんだよ」
「ハイク、きみ、さっき笑っていただろう」
「はあ?」
急に何を言い出すのかと思えば、本当に何を言っているのだ、この男は。ハイクに構わずフィデリオは続けた。
「最後に飛び出していった、あの時だよ。きみは普段からよく笑うけれど、あんな風に笑っているのは初めて見た」
「あっ、俺も、俺も見ました」
なぜか妙に興奮した様子で、ジオンがいきなり立ち上がった。握りしめた革袋から水がこぼれそうになっている。勿体ないでしょ、とジーナが叱るが、あまり効いていないようだ。
「恰好よかったなあ。俺もあんな風に戦えるようになりてえっす」
素の口調が出かかっている。そのまま拳を振り回しかねない勢いだ。だが、そう熱く力説されても、戦闘時の自分の表情など気にする人間がいるだろうか。
「笑っているのに、鋭いんだ。走っているのに、低く飛んでいるみたいだった。あの時のきみは、なんだか鷲のようだったよ」
「おい、待て。知ってるだろ、おまえは」
「言い得て妙だろう?」
青い目がハイクの銃を一瞥する。フィデリオは、ハイクの中の大鷲のことを知っている唯一の人物だ。そのあたりの事情も含め、腐っても腐らない縁なのかもしれない。

そこから先の行軍は順調だった。風に雲は流され、再び晴れ間が見えるようになった空を谷底から眺めながら、渓谷の終点を目指す。一本道の先、溢れる真白い光の中に進み出ると、両脇の断崖は突然途切れ、そうして目の前に広がったのは、緩やかな弓なりの曲線を描く砂浜と、その先に延々と続く、一面の平坦な塩の大地だった。風は夏場のように熱く吹き抜け、少し汗ばむほどで、その熱と景色は、ハイクに夢で見た懐かしい浜での出来事を思い出させた。
「すごい」
呟いたのはやはりジオンだった。隣のジーナも、言葉を忘れて海に見入っている。「行っておいで」とフィデリオが後ろから声をかけると、二人は怖々と、しかし興奮を抑えきれない様子で砂地の坂を下りていった。強行軍による疲労も好奇心にはあっさり負けてしまったらしい。ハイク達も、あとに続いて浜に下りていく。積もったばかりの粉雪のような砂浜を踏みしめ、そのまましばらくのあいだ、誰もがだまったままそこに並んで、白い海を眺めていた。
伝説だけなら数多の物が残されているが、実際に本物の海を見た者は、すでに國には生きていない。だが、この國をぐるりと取り囲んでいる海、その様相に憧れを見た者は、今でも無数にいるに違いないだろう。それだけの力、抗いがたい魅力が、ただ白いだけのこの大地には古くから息づいている。
ジーナが、ほう、と息を吐いた。
「ここが、全部水だったんでしょう。透明で、青くて、生き物が住めるくらいに深い水があったなんて」
想像できないよね、とジオンが同意し、隣のセリムが、本の中だけの出来事になってしまったんだな、と静かに頷く。どこか残念そうな三人に向かって、ハイクは明るい口調で言った。
「ところが、そういう訳でもないんだよな。見ることはできないけど、聞くことはできる。そうだよな、隊長」
「ああ。僕も資料で読んだだけだから、楽しみだな。それじゃあ、もう少しだけ歩こうか」
え、と顔を上げた三人を連れ、浜を東の方角に辿っていくと、すぐに砂岩の遺跡群が目についた。この遺跡群に特に決まった名はないが、その中にある最も大きな建物は、海鳴りの社、と呼ばれている。名前はひどく単純だが、その社の特異な形状は見る者を驚かせ、そして同時に混乱させることだろう。
「あれが海鳴りの社だ」
ハイクは目的地の遺跡を指さすと、呆気に取られた隊員の顔を順番に眺めた。ハイクの指の先には、真っ白で大きな半球の建物が、瓦礫の中に一つだけ、ぽっかりと異様に佇んでいる。セリムが怪訝な顔をして呟いた。
「社なのか。あれが」
「そう思うよな。とりあえず、中に入るぞ」
ハイクは先頭に立ち、窓一つないのっぺりとした壁を右回りに進んだ。直径がハイクの歩幅でおおよそ三十歩ほどだ。入り口は一カ所しかない。扉の形に抜いただけと言っても過言ではないその穴をくぐって室内に入ると、不思議と中はひやりと涼しく、外の光をわずかに透過しているのか、壁や天井が薄い青に染まって、砂粒が時折きらきらと光っていた。中央に丸い台座がある以外、中は空洞だ。拠点を置くには申し分ないだろう。
「あの台座はなんでしょう」
ジーナが首を捻る。「慌てるなって」とハイクは台座に歩み寄った。台座の中央には、透明な尖った水晶が埋め込まれている。
「蓄音機ってあるだろ。この水晶は、それだ。でもってこいつは、太陽の光で動く」
ハイクは天井を見上げた。ドームの天辺に丸い穴が空いている。光を入れるための天窓だ。午後を過ぎた時間帯なので、そこから落ちてくる光は、台座の左側にずれこんでいる。
多少荒い手だが、構わないだろう。
「セリム、手伝ってくれ。台座を動かすぞ」
「分かった」
「よし、いくぞ。せえの」
かけ声と共に、ずず、と台座を押し、丸く落ちる光柱の中に進めた。光に当たり、水晶がよりいっそう透明になる。空気に溶けるかと思うほどだった。その中央に、古代語の方陣が浮かび上がる。方陣はすぐに消え、水晶から、次第に奇妙な音が流れだした。
強い風が稲穂を揺らす時の音に似た、ざわざわとした音が、単調な速さで繰り返される。音は丸い壁に跳ね返り、ちょうどよい残響を響かせ、社の中を満たしていく。水晶の中に先ほどとは別の紋が浮かび、太陽光を溜め込んだその表面が、壁一面に水明かりを投射した。
「古い言葉で、雷を、天空の神の声、神鳴、と呼ぶ地方がある」
ハイクはゆらめく水明かりを見上げ、話した。
「同じようにこの地方では、海鳴りはワダツミの声だと言われてる。ワダツミは、海神、と書く」
ゆえにここは社なのだ。海神の声を聞くための、神聖な場所。ジーナが感嘆の声を上げた。
「綺麗な音……かわたれの技術には、こんなものもあるんですね。でも、この音、一体なんの音なんでしょう。ジオン、知ってる?」
「わかんない。セリムさんは?」
ジオンに問われ、セリムは静かに首を振った。だがまさにその時、フィデリオの青が悪戯っぽく光ったのを、ハイクは見逃さなかった。フィデリオの口元が、じわじわと弧を描きだす。親友の悪い癖が出てしまった。興奮すると、小隊長の威厳がふっ飛ぶのだ。
「潮騒っていうんだ」
どこか楽しげにフィデリオは言った。三人が知らない世界を知っているのが嬉しい、そういう顔をしている。ジオンがきょとんとして繰り返した。
「潮騒?」
「海水が、風を受けて、いくつもの波になって、浜に打ち寄せる音だよ」
その説明でもぴんと来なかったのだろう。三人は不思議そうに顔を見合わせた。再びジオンが問う。
「でも、隊長はどうしてこれが潮騒だって分かったんですか」
フィデリオがハイクに目配せをした。「言ってもいい?」という確認だ。こうなったら止まらない。好きにしてくれ。ハイクはわずかに肩をすくめ、ご自由に、と言った。
「分かるんだ。知ってるんだ、僕らは。そうだろう、ハイク」
「へいへい、そうですとも。懐かしい話だよな」
部下からの疑問の視線が集まる中、古い友は、旅の中で一番の爽やかな笑みを浮かべて、誇らしげに胸をはった。
「実は僕達、本物の青い海に行ったことがあるんだ」
ハイクの隣にはもう、砂まみれの鎧を着た、ただの無邪気な青年が立っているだけだった。





(果ての浜(前))

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