常空の丘(前)

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一晩。たったの一晩で、國の内情が一変した。
各地を襲う厄災、天災、魔獣の群れ、國土を飲み込む有象無象かつ千差万別、多種多様の現象を、分類するに分類できず、名付けるに名付けられず、そうしているうちにただ曖昧な総称として“黄昏”と呼ばれるに至った正体不明の存在が、現実に対処可能な物体として定義され、白日の下にその輪郭が晒された意味の大きさを理解できない者が、果たして國にどれほど居るだろう。それだけでなく、黄昏を引き起こす原因となっているのが、希望の象徴として名高いあの世界樹かもしれない、と言うではないか。國が投じたその一石が起こしたさざ波は、あっと言う間に巨大な津波となって、人々を変革の大渦の中へと押し流していった。

歴史の歯車が大きな軋みを上げて動き出したその瞬間、ハイクは王都の溜まり場の酒場で、掲示板前の席に陣取り、張り出された依頼書にぼんやりと目を通しながら、葡萄酒を舐めていた。夜と呼ぶにはかなり早く、窓の外には未だほんのりと明るい紫色の曇天が覗いていたが、元より昼夜問わず酔っ払いが転がっているような場所だ、ハイクの杯を気に掛ける者など居るはずもない。たむろしている同業者達の輪に混じり、時折彼らが飛ばす冗談に笑ったりしながら、手頃な仕事を探していた時、後方で扉が開く音が聞こえた。
今思えばそれこそが、変革の始まりを告げる音だった。
何気なく振り返ってみると、そこには兜を被った物々しい恰好の騎士が一人、堂々たる仁王立ちで立っている。
予期せぬ来訪者に、ハイクを含めたハンター達は、飲みかけていた酒のことすら忘れてまじまじとその騎士を見つめた。それほどに珍しいことだ。お互い口には出さないが、気ままなハンターと生真面目な騎士とで馬が合うはずもないことは、誰がどう見ても明らかな事実だった。一説によれば、昔、とあるハンターギルドの長と騎士団の隊長とが水と油を酒で混ぜようとしたことがあったらしいが、そもそもアルコールが可燃性であることを失念していたのは良くなかった。結果勃発した酒で酒を洗う混沌としか言いようのない勝者なき決闘の果て、醜態を晒した恥ずかしさという一点においてのみ奇跡の団結を見せた先人達の手によって、現在の書面のみによる手続きの基盤が作られたらしいとまで言われている始末だ。
どこまでが真実か、今となっては闇の中だが、彼らの関係性を説明するのにはうってつけの話であるのは本当だ。急に静まり返った店内をさして気にした様子もなく、大柄なその騎士はすたすたと店内に踏み込んでくる。一瞬、フィデリオが懲りずにまた来たのかと思ったが、騎士が着ているのは一般兵の鎧だった。その騎士を除けば、周りの驚きなどどこ吹く風なのはハイクの中の竜だけで、竜はのっそりと長い首を持ち上げて、気だるそうに呟いた。
「あいつとは、ずいぶん前に旅をしたな」
「誰か分かるのか?」
「うん、あの魂の色は覚えている。海の小僧の弓矢だ」
「……セリム?」
しんとした店内に、思いの外声が通ってしまった。騎士は振り向き、座っているハイクに気付くと、兜の奥の目を丸くした。
「ルドラ? すまない、気付かなかった。よく俺だと分かったな」
騎士はそう言いながら、兜を外した。どこか神秘的な雰囲気の漂う、褐色の顔が現れる。
ハイクは立ち上がって、物問いたげな周りの視線を受けながら、セリムの元まで歩いて行った。
「どうしたんだ。まだ仕事中だろ」
「それが」
セリムは左手に持っていた、一枚の書簡を持ち上げて見せた。
「國王様から、勅命が出された。なので、手すきの団員総出で、こうして知らせて回っている所だ」
「王様から? でも、いつもは通達を一枚、広場や語る塔に張り出すだけじゃないか」
「それだけ緊急ということだ。みな、どうか冷静に聞いて欲しい。正ギルド……官民共同黄昏対策ギルド “九陽協会”から、昨晩報告が上がってきた。黄昏が起こる原因を解明した、と」
そうしてセリムの口から語られたのが、世界樹が巨大な一体の魔獣であり、すべての災いの核となる存在であるという報告と、付近の住民の避難を促す旨の知らせである。初めに九陽協会の名を出したセリムは正解だった。 “九陽協会”、いわゆる正ギルドは、國から唯一、正式な公的支援を受けて運営されている、対黄昏組織の総本山たる組織の名称である。そんな正ギルドの本拠地でもある王都に集ったトレジャーハンターともなれば、正ギルドと繋がりを持つ者は多い。ハイクとてそのうちの一人だ。その正ギルドからの情報ともなれば、その信憑性を疑う者は、この酒場にはまず居ない。セリムは、現在國が総力を挙げて樹への対策を練っているという旨と、ハンターにも今後協力を仰ぐことがあるかもしれないので、その時は力を貸して欲しいということを言い置いて、足早に酒場を立ち去っていった。
カルミアが予見したのは、きっとこのことだったに違いない。しかし誰もが皆、ある意味うっすらと先を知っていたハイクのように、状況をすぐさま理解できるという訳にはいかなかった。世界樹は希望の代名詞だ。熱心な崇拝者すら存在する、黄昏に抗う者、生ある者の象徴でもある。騎士や正ギルド員は、混乱する人々を宥めるべく、すでに大陸全土を奔走しているようだった。
その日を境に、王都には次々と変化が現れた。各地に散っていた騎士の本隊が王城に集まり始め、赤煉瓦を踏み鳴らす鎧の足音が、昼夜問わずに通りを震わせた。王がついに混濁したのではないかと疑いの眼差しを向けていた人々すら、まるで今から戦地にでも赴こうとしているかのような騎士達の表情を一目見てしまえば、事の重大さを信じざるを得なかった。世界樹を討伐する策が固まったらしい、という話が出始めたのは、セリムに会ってから数日後のことだ。驚くべき速さだった。ハイクはといえば、それら一連の騒動を、ただの民衆のうちの一人として、竜と共に静かに見守っていた。そうすることしかできない、とも言える。「結局、わたしたちもまた、観客の一人に過ぎなかったのかもしれないな」とは、隊列を組んで城門から出ていく騎士達を見送っていた折に、竜がぽつねんと発した言葉だ。
ただ、例えそうであるとしても。
例え世界が、結局自分達の手が及ばない所でゆっくりと帆先を変えてゆこうとしているのだとしても、今までに自分や他のハンター達が命がけで培ってきた物が、どこかであの騎士達の役に立っていればいい、と、願わずにはいられない。大勢の見物人に紛れて騎士達の背を見届けながら、ハイクはゆっくりと、頭の後ろで手を組み、笑った。
「なあんて思ったって、結局、こんなもんだよな。世の中の大概が、俺達の外側で、勝手に進んで行っちまうんだ」
諦めたような言葉とは裏腹に、ハイクの声は明るかった。騎士達の凛々しい後ろ姿が遠ざかり、城門の向こうへと消えていく。丸太で組まれた巨大な木戸が土煙を上げながらゆっくりと閉まり、閉門の轟音に、竜の声が朗々と被さる。
「けれど、無関係でもいられないというのだから、難儀なものだよ」
「全くだ。さて、それじゃあ俺達も、支度を始めておくか」
「今後に向けて?」
「そう、今後に向けて」
ハイクはくるりと踵を返し、鼻歌混じりに、蟻の巣への道を引き返し始めた。

     *

五日後、それは静かな夜更けだった。人々はすでに寝静まり、非常時ということも相まって、通りの店や酒場は、一件の例外もなく早仕舞いとなっていた。街の灯りも早々に落とされ、あたかも王都の街全体が、深い眠りの水底でゆったりと深呼吸をしているかのようだ。
ハイクは蟻の巣の自室で、何をするでもなく、ベッドの上に寝転んで、地下に染みこんでくる沈黙を味わっていた。心地のよいまどろみに舟を漕ぎかけていた時、ふいに竜が、尖った鼻先をすんすんと鳴らしてハイクを呼んだ。
後に歴史書の中に再三登場することになるであろう変革の夜明けは、こうしてひっそりと幕を開ける。
「ハイク、なあ、ハイクよ」
「どうした?」
竜は、きょろきょろと周囲を見回した。
「声が聞こえる」
魔獣だろうか。ハイクは素早く体を起こし、ナイフの柄を掴んだ。耳を澄ますが、何も聞こえない。しかし、落ち着かない様子の竜を見るに、空耳ではない。
「魔獣ではない。こんな声は聞いたことがない。ハイク、外だ。地上に出てみよう」
しきりに言われ、上着を引っかけて部屋を出る。地下道を抜け、階段を上がって地上に顔を出すと、冷えた空気がじんわりと体を包みこんだ。藍色の空を見上げてみる。木立を揺らす風もなく、虫の声すら聞こえない。「やっぱり気のせいじゃないのか」と尋ねてみるが、竜は全く聞く耳を持たず、それどころか「あっちだ」と言って、優美な曲線を描く尾の先で城門を示すような仕草をする。
顔を向けたその時、街を囲う擁壁の向こうが、ほのかに赤く光った。
山火事だろうか? 遥か遠方で、炎が燃えているような色だ。立ち止まり、無意識に息を殺して、じ、と目を凝らす。更けてゆく夜の中、しばらくそうしているうちに、ハイクは気付いた。はっと息を呑む。あれは炎の光ではない。あれは、あの紅蓮の色は。
「紅水晶……?」
ひときわ強く空が赤色に染まり、反比例して、城門の輪郭が黒々と浮き上がった。そうしてついに、ハイクの耳にも、聞こえてきた。否、聞こえてきたのではなく、感じたのだ。正確にはそれは音という現象ではなかった。
ただ、声だ、というのは、不思議と分かった。声帯を震わせることなく発せられた、無音の叫び。命が震える音。切なく、深く、魂から魂へ、空気を介さず、直接木霊する。
それはごく小さな、何者かの声だった。言葉を知らない赤子のように無垢であり、同時に、言葉を忘れるほどに衰弱した老人が発した、際の一声のような響きを伴ってもいる。聞いたことがある声だ、と思う。初めて聞いた声だ、とも。人のすすり泣きのようでもあり、魔獣の遠吠えのようでもある。何者かの声であって何者の声でもない、形容するなら、それはそういう種類の音だった。言葉なき悲しみを伴ってハイクの内に広がり、ただただ波紋を刻んでいく。ハイクは自分の中にある鋼玉の魂が、声に同調し、静かに脈打つのを感じた。声の主が感じているのであろう、剣で身を切られる痛みが、水が染み渡るように、ハイクの魂にも伝播していく。両断された梢から流れ出た赤い水晶がハイクの魂にも流れ込み、焼けるような熱さを伴って、じくじくと広がる。セイファスが飛行船の中で言っていたことを、実体験として初めて自覚できた気がした。
これは、死にゆく世界樹の声だ。
城門を出ていったあの騎士達によって、今まさに、世界樹の命が刈り取られようとしているのだ。
一足跳びに悟って、ハイクは無言で目を伏せた。どれだけ痛みが分かろうとも、樹を助けることはできない。ハイクはただ、聞くだけだ。世の中の大概が、自分達の外側で、そうして勝手に進んで行く。

声なき叫びを聞いているうちに、雲の底が白み始め、切れ切れのすき間から、幾筋ものか細い光が射しこみ始めていた。
紅水晶の輝きは未だに薄暗い空を焦がしている。世界樹と人々との死闘は続いていたが、しかしハイクにも竜にも、そして当の世界樹自身にさえも、戦いの行方はすでに明らかなようだった。死に抗おうとする生物としての本能とは別に、あの樹は己の死を、広がるその枝葉のすべてでもって受け入れようとしているのだ。目に見えずともそれが分かる力を自覚して、それでいて尚もハイクが顔を上げていられたのは、傍らに寄り添う竜の存在があったことが大きい。あの樹も、自分達と同じだ。死を受け入れ、あの紺碧の世界に飛翔しようとしている。「じきに終わるな」と、竜が呟いた。「ああ」と頷き、唇を引き結ぶ。何を見逃すこともないように。
世界樹が発した最期の吐息は、マキナや、浜の皆が発したそれに、とてもよく似ていた。優しく、軽やかで、慈愛に満ちていた。ふつりと声が途切れる。甘やかな余韻が広がる。赤い光が弾け、太陽よりも苛烈な光となって、國の大地を照らし出す。眩しかったが、ハイクは目を閉じなかった。ほんの一瞬の生のきらめき。天を穿ち、地を蝕み、この世のすべてを食らいつくさんとした大樹が見せた、奇跡のような命の輝き、その樹が完全な紅水晶となって砕け散り、真っ赤な意志の欠片が風に乗って散らばり、人々の元へと降り注いでいくさまを、目に見えずとも、確かにハイクは見つめていた。
なんと、悲しい景色だろう。
それは、なんと悲しく、脆く、そして。

美しい樹だったのだろう。

雲が晴れ、朝日が滲む。やわらかく体を温め、傷が癒されていくようだった。ああ、終わったのだな。理解して、朝日を受け止める。明るい日差しに包まれて、夜空を照らしていた紅水晶の光は、とろけるように消え去った。
住宅街の方で騒めきが起き始めている。どうやら世界樹の声は、人々にも届き始めているらしい。ふと、何かに気付いたらしい竜が、銀色の目を瞬かせた。
「魔獣たちは、ここまでか」
ほとんど同時に、城壁の外から魔獣の遠吠えが響いた。その一声を皮切りに、次々と咆哮が響く。空を飛んでいた鳥型の魔獣が、金の砂となって消えていくのをハイクは見た。慰めるように、ハイクは竜に視線を落とす。
「彼らは、黄昏の中でしか生きられない。仕方ないさ」
「そうだな」
「寂しいか?」
「ああ、少し。彼らの中には、わたしたちと同じ血が混じっているのも居るだろう」
魔獣達の声は重なり合い、一定の間隔で繰り返され、ともすれば、歌のようにも聞こえた。感情を失った魔獣でも、別れを惜しむことがあるのだろうか。時計塔で出会ったあの犬はどうなっただろう。荒野で戦った猪は。ギタの村を襲った鴉は。
「ハイク、おまえも寂しいか」
「まあ、少しな。憎さ余って、ってやつ?」
「そうだろうな」
水滴が一粒、ハイクの頬を伝った。涙ではない。久方ぶりの雨が降り始めていた。冷えた夜を溶かすように、朝日に光る雨が王都に降り注ぎ、家々の赤い屋根を、並ぶ緑の木々を湿らせていく。
竜が顔を上げて、言った。
「こっちも、雨だ」
空から溢れた、涙にも似た透明な雨が、さらさらと國を濡らしていた。

     *

翌日の明け方、一つの夢を見た。これまでの物とは違い、なんの根拠もない、しかし不思議な、ただの夢だった。光降るまばゆい砂浜で、真っ白な白衣を着た、若い姿の主が、顔全体で笑って、こちらに向かって手を振っている。たったそれだけだった。夢から覚めた時、ハイクの頬には一筋の涙の痕跡が残っていた。竜が流した涙だった。
「追憶の中で」
ハイクはぽつりと呟いた。
「自分が死んだあとに行くのは地の底だって、あいつ、そう言ってたよな」
「うん」
「違うといいな」
「うん」
いつかは誰もが行く場所。魂の還る場所。それがあの浜だ。ハイク達の生みの親であるあの男の魂もまた、地獄の業火に焼かれることなく、いつか誰もが還るべき、空と海が始まる場所へ、生命の始まりの場所へと行くことができたのだと、そう信じたい。

     *

世界樹の消滅から数日が経った。その間、雨は途切れず降り続き、土地を潤し、乾きに苦しむ人々はほんの束の間の休息を得て、次を生きるための糧を蓄えた。降雨のわりに、普段の曇天よりも空は明るく、雨となって下に落ちてくるぶん、雲が薄くなってきているのは明らかだ。
世界樹の討伐が成功した、という事実は、國が知らせを行き渡らせるまでもなく國民全員が知ることとなった。樹の声を聞いた、と、誰もが口を揃えて主張するが、書物に残ったそれを後世の人々がどのように受け取るかは定かではないと、ハイクは思っている。魔獣が消滅したことで物資の流通が活発になり、街道を行き交う荷馬車の数もここ数日でぐんと増えていた。この速さであれば、ものの一月で、各地の飢えと疫病は半減するだろう。どんな変化であれ、人々は適応し、馴染んでいく。そのふてぶてしい柔らかさこそが人の子の強さだと、そうした荷馬車の一つに揺られていた折に竜が呟いて、しゃらしゃらと鱗を鳴らしていた。

安い荷馬車を乗り継いで、ハイクは工房都市スクイラルへと足を運んでいた。陸路を選んだのは、魔獣が居なくなったことで人々の足が軽くなり、空路が軒並み満席となったためである。
大まかな街区の様式は王都と同じだが、一歩足を踏み入れてみれば、スクイラルが職人の街であることは一目瞭然だった。道の石畳には油が染みつき、ソリや荷車等で巨大な部品類を引きずることもあるために、そこかしこに荒っぽい傷が目立って、王都とはまた別の風格すら漂わせている。民家を改造したと思しき工房がぎゅうぎゅうと工具箱のように並び建ち、その煙突から上がる煙の数々のために空気はあまり清浄とは言えないが、住民達にとってはかえってそちらのほうが好ましいようだった。スクラップ品の露天が並ぶ市場を進み、がちゃがちゃとやかましい賑わいに埋もれつつ十字路を右に曲がっていくと、小さな広場に行き当たる。
広場の中央には一本の古木があった。常緑のふとましい木の下から聞こえてきたヴァイオリンの音に、ハイクはようやく足を止めた。弾き手は違えど同じ楽器だ、一節聞けば、すぐに分かる。
技巧で客を黙らせるというよりは、どちらかといえば一緒になって騒ぎたくなる、親しみやすい音楽だ。思わずにやりと笑みが零れる。溜まり場のような身内ばかりの観衆という訳にはいかないが、青年の演奏に引き寄せられ、買い物客がちらほらと足を止め始めていた。その中心で、くるくると動く橙色の髪、生き生きと躍動するヴァイオリン。後ろからマキナの音が重なって聞こえてくるようだ。
流星のごとくに工房都市に現れたと噂の、橙髪緑目のヴァイオリン弾き。
彼の左足は、膝から下が木製だった。

衰えはしたが、その身軽さは健在のようだ。レオは、笛吹き時代に会得した、酒場の狭いテーブルのすき間を駆け回りながら楽器を演奏し続けるという、本職が見れば卒倒するであろう特技を十分に生かして、踊るように、あるいは跳ね回るように、次々と曲を披露していく。演奏が終わると、観客は然程多くはなかったが、それでもレオは一人一人から大きな拍手を貰い、開いたケースにはそこそこの貨幣が投げ込まれた。拙いながらも人を惹きつける、力のある演奏だ。がんばれよと客の一人に肩を叩かれ、照れたように笑っているレオに、ハイクはゆったりとした足取りで近づいていった。
「よお、レオ。稼ぎは上々か?」
「……ルドラ!」
演奏の疲れもどこへやら、レオは「久しぶりだなあ!」と言って軽快に立ち上がった。ハイクもまた笑みを返し、その左足、と言って、レオの義足を指差す。
「ずいぶん格好良くなったじゃないか。義足のヴァイオリン弾きってのも、中々洒落てる」
レオは、にしし、と笑って、誇らしげに胸を張った。
「そうだろ? 前より快適なくらいだよ。楽器の方もまだ修行中だけど、いつか絶対、マキナのおやじみたいな演奏で皆をあっと言わせてやるんだ。それから」
レオは楽器を仕舞うと、懐から一枚の便箋を取り出した。若干皴が寄っているが、事前にハイクが送っておいたものに間違いない。
「これ、読んだよ、ありがとう。ハンターの皆も、元気そうで良かった。おまえは変わりなかったか?」
「色々あるにはあったけど、そこまで変わらなかったかな。で、どうだ、すぐ行けそうか」
「おうよ!」
そこからはレオと二人、再び荷馬車にがたごとと揺られ、西を目指してひた走った。
やはり、飛行船よりずっと遅い。普段の倍以上、時間を掛けている。だが、目もくれずに飛び越えていた場所を改めて眺めてみると、風のにおい、野草が咲かせた黄色い花の鮮やかさ、小川の流れ、そのせせらぎに木の葉が映る様子、野生の馬のいななき、焦って見落としていたものがこんなにも沢山あったのかと、ハイクは自分自身の目を疑うばかりだった。馬車の車輪が長雨によって生じたぬかるみに引っかかり、全員で泥まみれになりながら車を押し出すことにすら、小さな発見と興奮が満ちていた。汗だくの頬を拭って、レオや乗組員達と手を叩き合い、そうしてふと、その汚れた手を見下ろし、気付く。
見落としていたのではないのかもしれない。
ただ、自分には関係のないものとして、諦め、何も感じないようにしてきただけではないのか。
その日の糧、黄昏、大鷲、背中の痕、ルドラの負う過去と、未来の宿命。そういったものを加味し、必要なものを選んできた結果、こうしてすべてに決着がついた今、この手に何も残らなかった、それだけではないのか。そう思うのと同時に、胸の奥に小さな渇望が芽生える。太陽のように、ひょっこりと顔を出す。自覚はしていたが、ずいぶん前から見ないふりをしていた物だった。見ないふりをしているうちに、見えることすら忘れていた物だった。そして、思い出してしまえば、その光源は鮮やかな熱と光でもってハイクの内側を焦がし、二度と切り捨てられそうにないほどに、深々とハイクの空を照らしていく。
それなりに國を歩き、世間に揉まれ、さまざまな物に接してきたつもりだったが、それでも今のままでは、足りない。まだまだ全然、どこにも足りない。
そうか。俺は。
俺、は。
ばしん、背中を叩かれ、ハイクははっと振り返った。何ぼけっとしてんだよ。全力で笑うレオが居る。
振り絞るように生きている顔だ。
また、胸が熱くなった。

熱の正体は、その名を、憧れ、という。

     *

ハイクとレオは、やっとの思いで王墓までたどり着くと、マキナ達の墓に花を供えた。四つの石碑に綺麗な水をかけてやり、酒を一杯ずつ置くと、自分達のカップにも琥珀色の液体を注いで、昔話を肴に、ゆっくりと飲み干していく。
「よし。そんじゃあ、始めるか」
あぐらをかいたままレオはカップを置くと、景気よくヴァイオリンを取り出し、構えた。反転、真剣な表情と共に艶やかな音色が溢れ出し、ハイクは内心舌を巻く。この短い間に、相当弾き込んだのだろう。ハイクは腹から深く息を吸い込むと、その上にゆっくりと歌声を乗せていった。
“アルバーダ! 上等だぜ坊主!”
豪快なマキナの笑い声が聞こえた気がする。ちらりとレオを見遣ると、その両目に薄く水の膜が張っていたので、ハイクは歌いながら目を逸らし、曲が終わるまでの間、正面だけを見つめていた。

その晩、宿屋のベッドの中で、ハイクはまたしても奇妙な夢を見た。
男が居た。顔も名も知らない男だ。彼には妻と、まだ幼い娘が居る。どこか寂れた神殿のような場所で、彼は蝶を追いかける少女と母親を見守っている。ふらりと、蝶が神殿の外へ出ていく。娘がそれを追って駆け出し、妻が慌てて後を追う。男が少し遅れて付いて行こうとした、その刹那。
光が弾ける。赤かった気もするし、黒かった気もする。
光が弾ける。男は外に出た。光が弾ける。目の前の地面に見知らぬ穴が空いている。光が弾ける。光が。光が弾けている。焼ける臭気。黒い穴だ。黒い誰かがそこに居る。光が。光が。わからない。肉が焼けている。骨が焼けている。光が弾ける。これは誰だ。誰と誰だ。
光が弾ける。光。光が。
光、が。
男の意識はそこで途切れる。ハイクは、男が人間ではなくなったことを悟った。男は世界を呼んだ。木の力を借りた男はやがて自身を木に変えた。皮膚が張り裂け、肉を苗床に、樹木が芽吹く。四肢がねじ曲がり、骨が折れて血が噴き出し、それすら糧として、若々しい新緑の葉が芽吹いていく。ハイク、起きろ、ハイク。澄んだ声。
「ハイク」
唐突に、覚醒した。まだ息が荒い。
夜は深く、隣のベッドで、レオはぐうすかといびきをかいている。ハイクを起こした竜は、ほう、と、安堵の溜め息を漏らした。
「起きたか。このまま引っ張られていったらどうしようかと思った」
ハイクは上体を起こした。指先が芯まで冷たく、体の緊張が解け切らない。夢の中身を理解しようと目を閉じると、瞼の裏に、小さな紅水晶の欠片がちらついた。
「なあ、今のは、世界樹の」
竜は、だまって首を横に振った。
「分からない。ただ、同じだ。太陽の男の時と」
無論、確かめる術もない。竜と長は友と呼び、カルミアは嘆きと呼んだ黄昏の、起源。かもしれない者の記憶。唐突に提示されたそれらを見たのがハイク以外の者であれば、どうにか対処できたのかもしれない。あるいは、すでに知っている者が居て、そうした者達の働きかけで、世界樹は討伐されていたのかもしれない。
いずれにせよ、もう終わったことだ。世界樹は死んでしまった。やはりここでもまた、ハイクは見るだけだ。
「なぜ、意味も無く自分を下に見る?」
至極不思議でならないといった様子で、竜が言った。確かにルドラが平穏に暮らしていくために、埋没は必要なことだろう。だが、それで息が出来ないのでは世話がない。そんなことも分からないのかとやや呆れたように溢す竜に、ハイクは思わずむっとする。反論を試みようとするも、分かっているんだろうと先を越されれば、口をつぐまざるを得ない。
「世界樹の最期の声を聞いただろう」
「ああ」
「魔獣達の声も聞いた」
「ああ。それがどうした」
「なあ、おまえも思ったんだろう。まるで歌のようだ、と。おまえの能力は何だった、ルドラの特技は。見るだけしかできない程度の力で、おまえがここまで来られたと思うのか」
「…………ああ」
最後だけ、種類の違う「ああ」だった。噛みしめて、飲み下す。どうやらそれは、先日気付いたハイクの欲望に、ぴたりと符合するようだ。塔の上で、長に託された役目とも。確かに、聞くだけではない。記憶し、蓄えることができる。そしてその先に進むことすら、今のハイクには可能だった。
嵐を起こせよ、ハイク。
塔に響いた言葉。それがルドラの新たな仕事だと、長は言った。包み込みはするが、束縛することのない言葉だ。
「行きたい場所に行くといい」
竜があまりにあけすけに言うものだから、ハイクは顔を上げ、苦笑した。
「いいのかな、本当に」
「構わんさ。だめだったら、戻ってくればいいだけのことだ。遠くへ行って、宝を探し、歌を歌おう」
そうすることができる程度には、今のわたしたちは、じゆう、だろう。
新しい道が拓けていた。見たいものが沢山ある。伝承の中だけで読んだ風景の数々、氷の滝、月夜の砂漠、楽園の庭、水底の都市。生き延びるために、あるいは、暮れゆく世界に一矢報いるために、必要な時に必要な分だけの仕事をこなしてきたハンターから、追い風に身を任せ、ほとばしる歌を引っさげて、宝物を求めて望むままの方角へと歩いてゆける、そんなトレジャーハンターへと。
「なあ、こういう場面、俺、昔見たことがあるんだけどさ」
「奇遇だな、わたしもだ」
「立場は逆だったけどな」
「そうだな。ふふん、檻を壊す側というのも、中々爽快だ」
「楽しむなよ」
もぞり、と隣の毛布の山が動いて、しかめ面のレオがのっそりと顔を出したので、ハイクは口をつぐんだ。レオは「もう朝かあ?」と、寝ぼけたまま起き上がり、髪をぐしゃぐしゃとかき回して、布団にあぐらをかいたハイクが暗闇の中で自分を見ていることに気付くと、うわっと声を上げた。
「びっくりさせんなよ! っていうか、まだ夜じゃん。なんで起きてんの」
ハイクは素知らぬ顔で、「べつに、水を飲みに行って来ただけだよ」と言って肩をすくめた。
「なんだ。ならもうちょっと寝とこうぜ、って……あれ、んん?」
「どうした。人の顔、そんなにじろじろ覗き込んで」
「……俺の目、やっぱおかしいのかな」
手の甲で両目をごしごしと擦り、レオは不思議そうに首を傾げた。
「おまえの目、今度は赤く見えるんだけど」
「……。そのうち、緑になる」
「はあ? あ、分かった、からかってるんだろ、人が寝ぼけてると思って! 違うんだからな、ちゃんと赤く……あれ、戻ってる。でもさっきは確かに……あ、おい、最後まで聞けよ俺の話を! おいってば!」
代わりにけらけらと笑う竜を尻目に、ハイクはさっさと毛布に潜り込んだ。





(常空の丘(前))

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