滴る記憶(前)

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蟻の巣に戻って蔵書を調べた結果、赤目のハンターが言ったとおり、神殿は國北東部にそびえる高い山のおよそ中ほどにあるということが分かった。朝焼けを待たずに王都を発ち、飛行船をいくつか乗り継いで空を流すこと丸一日。ふもとの村に降り立つ頃には、すでに太陽は西に赤く没しかけていた。
質素な村だった。木と土でできた、小さな茅葺き屋根の民家が互いに寄り添うようにして集落を作り、家々の窓からはぼんやりと夕餉のスープの香りが漏れ出している。今夜は宿を取らなければならないだろう。村民らしき老婦人に尋ねてみれば、幸い一軒だけ民宿があるらしい。山にある神殿について調べているとハイクが言うと、彼女はそれならばと快く村長の住まう家までの道程を教えてくれた。
村の名はプラトといい、村の背後を守っている黒々と針葉樹の茂る椀状の山は、レイクァの山と呼ばれていた。

両側に雑草が茂る馬車道を黙々と歩いていく。分厚い雲の下にようやく顔を出した夕日に背中がじりじりと熱くなるのを感じ、ハイクは歩調を速めた。辺りには誰も居ない。普段なら何とはなしに大鷲に話しかけている頃合いだが、今日のハイクはそうすることをすっかり失念していた。おい、と大鷲に呼びかけられて初めて、ハイクは驚き、立ち止まった。
「急に大語を出すなよ。びっくりしただろ」
「急にではない。さっきからずっと呼んでいる」
「そうか。悪い悪い」
おざなりに謝ると、大鷲はこれ見よがしに溜め息を吐いた。
「おまえというやつは、きのうの夜からずっとそうだ。頭の中が珠のことでいっぱいじゃないか。この調子では、鋼玉が真っ黒でつるつるの石っころになるのも近いな」
反論できねえなあ、と、ハイクはからりと笑い、ズボンのポケットに両手をつっこんだ。
「けど、こればっかりはどうしようもないから、諦めてくれ。何せ初めて見つけたルドラの手がかりだからな」
「会いたいか」
数秒、間が空いた。再び足を動かしながら、ハイクは紫にたなびく雲を見上げた。
「十年経ったっていうのに、自分でもここまで余裕がなくなるとは思わなかったよ」
道の先に、平屋の邸宅が見えてきた。他の家々と同じように、黄土の壁と木の軸組みだが、屋根は茅ではなく、青みがかった平たい石瓦で葺かれており、身分のある者の住まいだということが一目で分かるようになっている。石垣の塀を過ぎて玄関口に立ち、鈴を鳴らすと、ほどなくして木戸が軋み、中から一人の男が顔を出した。
「突然すまない。村の長に、話を聞きたいんだが」
「これはこれは、旅の方ですか。長は私ですが、一体どんなご用件でしょう?」
村の長は、三十半ばあたりのまだ若い男だった。黒々とした髪をひっつめて髷にし、顎が四角く、几帳面そうな顔立ちをしている。彼もまた、最初の老婦人と同じようにハイクの来訪を歓迎してくれた。物資を運んでくる商人を除けば、滅多に来客の無い村だそうだ。先程と同じように、神殿についての伝承を探っているのだと事情を説明すると、彼はもの珍しそうにハイクを見たが、トレジャーハンターであることを告げると納得したように顔を綻ばせた。
「そうでしたか。以前にも、女性のハンターの方が神殿の調査にいらっしゃったことがありますよ」
おそらくは彼女だろう。客間に通され、暖炉を挟んでソファに腰掛ける。くべられた薪が、年季の入った音を立ててぱちぱちと穏やかに燃えていた。
「お探しの遺跡は、村の裏手から続く山道を登った先にあります。祭事で使うこともあるので、私達プラトの民にとっては馴染みの深い場所なんです。私達は “青の神殿”と呼んでおります」
「青の神殿? どんな由来があるんだ?」
「レイクァの山頂には湖がありますが、かわたれの時代には今とは比べ物にならないほど豊かに青き水を湛えていたそうですから、そこに起源があるのではないかと我々は考えています。祖先の言葉で、レイクァは“澄んだ湖”を、プラトはその水に住まう“メダカの群れ”を意味していますからね。ただ、あまりに古い時代の遺跡なので正確なところは分かりません。神殿の言い伝えはご存知ですか?」
「ああ。同僚に聞いたよ。たぶん、あんたが言ってたハンターと同じじゃないかな。『かの神殿に滴るは希望の宝玉。されど、魔を打ち払わんとした光は今や魔となった。眠らぬ魂、いずこにあらん』ってね。宝玉ってのは、もう神殿には残ってないのか」
「彼女にも同じことを尋ねられましたが、残念ながら。もともとその宝玉を守る為に造られた神殿らしいというところまでは分かっているのですが、肝心の宝玉は黄昏の混乱の中で失われてしまって久しく、今となっては伝承の中にのみ存在している、というわけです。もっとも、魔に対抗しうるだけの力を持った宝玉など、もとより存在しないだけなのかもしれませんけれどね」
「村の長なのに、伝承を疑うようなことを言っていいのか」
「ええ。大切なのは宝玉より、今の村と神殿を守っていくことですから」
あっけらかんと村の長は笑った。手の届かない財宝より、明日の糧を得ることを選んだ人間が浮かべる表情だ。穏やかな、それでいて断固とした決意の顔。羨ましいくらいに賢明な考え方だと思う。その宝玉が今現在ハイクの腰にぶら下がっている黒い珠だという可能性はいったいどれだけあるだろう。
よく分かった、ありがとう、とハイクは礼を言った。
「とりあえず明日は、その神殿に行ってみることにするよ。それと、最後に一つ聞きたいんだが、鳥使いに関わる話を聞いたことはないか」
「鳥使いですか?」
「ああ。もっとも、ここの神殿に関わってるかどうかは分からないんだがな」
ふと村長の背後に目をやると、微かに開いた木の扉の隙間から、小さな影が覗いていることに気が付いた。
子どものようだ。長の息子だろうか。少年はハイクと目が合うと、しい、と人差し指を口に当てた。声には出さずに、内緒だよ、と口をぱくぱくさせている。ハイクは目を瞬いた。
「どうかされましたか?」
「ああ、いや、別に。で、どうだろう、何か知らないか」
再びちらりと少年に目をやる。十二、三歳くらいだろうか。銀髪は顎先あたりの長さでおおざっぱに切り揃えられ、ぶかぶかのシャツと猪皮の半ズボン、足に草履を引っかけている。どうするつもりかとだまって眺めていると、少年は無邪気な笑みを浮かべてこっそりドアを押し広げ、客間に忍びこんできた。茶の乗った盆を両手で持っている所を見るに、単に悪戯をしに来ただけでもないらしい。猫のような忍び歩きで、茶器を一度もかたりとも鳴らさずに長の後ろまで近寄ってくる。器用なものだ。ほう、とハイクは感心した。
「鳥使いについては分かりませんが、確か神殿の壁画には鳥が描かれていたはずです」
「壁画が残っているのか」
「ええ。ですが、壁画と言いましても、当時の人々の暮らしぶりが描かれた簡単なものです。筆運びに愛嬌があるようで私は好きなのですが、残念ながら学術的な価値はそれほどないようですね。明日行かれるのなら、誰か案内を付けましょうか。山道といってもほとんど獣道ですから、お一人では大変でしょう」
椅子の影に潜む少年と再び目が合う。わざとらしく腕を組み、ハイクはにっと笑って長を見た。
「助かるよ。それじゃあ頼もうかな、例えば……かくれんぼが上手い子どもとか?」
その時、長が座る長椅子の背もたれから、少年がひょっこり顔を出した。待ってましたと言わんばかりに、顔が輝いている。
「それなら僕にぴったりだね!」
驚いた長は、ほとんど椅子から飛び上がるようにして後ろを振り向いた。なるほど。ハイクは納得した。これではからかいたくなるのも仕方がない。少年を叱ろうとした長の声は、驚きで上ずっていて、あまり迫力を感じない。
「こら、ギタ、茶は普通に運んできなさいと何度言ったら分かるんだ!」
「長が驚き過ぎるんだよ。いっつもおんなじやり方で驚かしてるのにさ」
しゃあしゃあとそんな風に言ってのけながら、少年はハイクの方を見て舌をぺろっと出してみせた。目ざとくそれを認めた長が、温和そうな目の端をぎゅっとつり上げる。
「全くもう。あなたも教えて下されば良かったのに」
一緒に叱られてしまった。悪かったよ、と誤魔化すように笑う。ハイクに的が移ったのをいいことに、その間に少年はさっさと机の脇に移動して手際よく茶の支度を整えていった。ちゃっかり自分の分の茶も並べ終わると、元からここに居座るつもりだったのだろう、少年は早くもハイクの隣に収まり、茶菓子に手を伸ばしている。香ばしく色のついたビスケットだ。二ついっぺんに取って一つを口に放りこみ、はい、ともう一枚をハイクに寄こしてくる。
ありがたく頂戴して、子どもに習って一口齧った。甘いものは好物だ。どこか疲れた様子で長が椅子に掛け直した。
「お兄さん、うちに来たお客さんの中じゃあ、けっこう分かる人だね。トレジャーハンターなんでしょ? さっき玄関で言ってたもんね。あんな苔だらけのじめじめした遺跡を調べに来るなんて、へんなの。あっ、僕はギタね。案内役のことだけど、朝に民宿に迎えに行ってあげるから、準備しといてね。お駄賃とかはいらないから、外の街の話とか、色々聞かせてよ。僕トレジャーハンターの人に会うのって初めてなんだ。移動市のおっちゃん達はまともに相手してくれないしさあ」
よく喋る子どもだ。小さなジュスを相手にしているような気分になる。一人で次々話を進めようとするのを、慣れた様子で長が制した。
「ギタ、やめなさい。お客さんを困らせるんじゃない。案内役だっておまえに決まった訳じゃないんだから」
「ええー。僕やりたい。ね、お兄さんも僕がいいよね」
「そうだな。べつに俺は構わないよ」
あっさりとハイクが了承すれば、やった! とギタが拳を突き上げた。ギタに押し切られる格好となった長は「迷惑をかけるんじゃないぞ」とギタに何度も念を押し、簡単に翌日の打ち合わせを済ませた頃にはすでに月は夜空に昇りきっていた。最後に民宿の場所を教えて貰い、客間を後にする。ギタはすでに眠る時間らしく、うとうとと目を擦りながらハイクに手を振ると、自分の部屋に戻っていった。
去り際に、玄関先で長に呼び止められた。
「すみません、頭のいい子なんですが、近ごろずっとあんな調子で人を見れば悪戯ばかり……。明日はそんなことが無いように、きつく言っておきますので」
「俺は気にしないって。こっちこそ、いきなり押しかけて悪かったな。案内を付けてもらえるだけでも助かるよ、ありがとう」
長の表情が、安堵したように綻んだ。ラブラドが浮かべていたそれと同じだ。あなたが探しびとに会える日を、私達も心から願っていますよ……。再び別の方向に飛びかけた思考を元に戻し、話が出たついでに、ハイクは長に尋ねた。
「にしても、ギタはずいぶん外の世界に興味があるようだったな。元々他の土地から来たんだろ?」
それはギタを一目見た時から気になっていたことだった。プラトの村の人々は皆村長と同じように髪が黒く、顔立ちも似通っていたが、ギタだけは銀髪で、顎も小さく尖っている。
「ああ、そのことですか」
長はわずかに顔を伏せた。玄関灯の炎が、長の顔に浮かんだ憂いの影をくっきりと浮かび上がらせているように見えた。
「あの子は孤児なんです。一年ほど前、魔獣に襲われて故郷と家族を亡くしていたところをこの村の者が拾って、今は私が親の代わりをしています。外の世界に関心があるのはそのためでしょう。きっとあの子はまだ、ここを自分の家だとは思っていません。ああして元気に振舞ってはいますが、やはり……。もしご迷惑でなければ、少しの間だけ話の相手になってやって下さいますか」
ハイクはギタの無邪気な笑顔を思い出した。頭のいい子とはそういうことか。気付いた時には、口が先に分かったよと言っていた。大鷲の子ども好きが移ったのかもしれない。
「まあ、俺なんかの話を聞いたら、ますますたちの悪い悪がきになっちまうかもしれないけどな。今度こそ、あんたはギタの悪戯に本気で驚かされるかもしれないぜ」
「はは、やはりお気づきでしたか」
息子想いの長は、照れくさそうに頬を掻いていた。

     *

翌朝、ギタは文字通りの朝一番に宿屋にやって来た。考えていた以上の張り切りぶりだ。養鶏が鳴き始めるのと同時に「おはようお兄さん!」と元気いっぱいにベッドから叩き起こされ、身支度と朝食を済ませると、ほとんど引っ張られるようにして宿を後にする。山道までの道すがら、早速催促されて、昔訪れた遺跡や手に入れた財宝についての短い話をいくつか話した。
一刻あれば到着できる近場だったが、昨晩の話のとおり、山道は大半が獣道で、所々に石段がついてはいるものの、苔むしていて滑りやすかった。慣れた様子でひょいひょいと上っていくギタに後れを取らないよう、どうにか付いて行く。気温が低いわりに湿度は高く、拭うよりも先に顎の先から汗が落ちていった。頭上には杉の深緑の葉が鬱蒼と生い茂り、隙間から覗いた曇り空は、背の高い木々があるせいか、普段よりもずっと遠い位置にあるように思える。
山道の中ほどで小さな沢にぶつかり、そこで休憩を取ることにした。
正直に告白するなら、ハイクはこの時かなり息が上がっていた。山の子どもの足に合わせるということは、足場の悪い急斜面を休みなく駆け上るのとほとんど同じことだった。沢に下りて、二人並んで手で水を掬い、少しずつ飲む。氷のように冷えた味の濃い水だ。昔はもっと豊かな渓流だったというが、その名残は今でも十分に残っていた。
「ハイクのお兄さんは、どうして青の神殿を調べようと思ったの。宝玉を探してるから?」
濡れた口元をごしごしと拭いながら、ギタが尋ねた。「それもあるな」と隣にしゃがんだままハイクは頷く。その宝玉かもしれない物を持っているとは、まだ言えない。
「俺はトレジャーハンターだからな。宝はいくらあってもいい。けど一番の理由は、そうだなあ、故郷の仲間を探すため、かな」
故郷という言葉を聞いた途端、ギタははっと顔を上げた。
「もしかして、お兄さんの故郷って」
「ああ。俺がちょうどおまえくらいの年だった頃に、黄昏に沈んだよ」
ギタはそれまでのお喋りが嘘のように口を閉ざし、顔を伏せた。そうされればハイクからはギタの表情は伺えず、銀髪の頭のてっぺんが見えるばかりだ。皮の水筒に水を満たしながら、ギタは呟く。
「僕はこの村の子どもじゃないんだ。お兄さんと同じで、僕の故郷も黄昏に食べられちゃった。長からも聞いてるんでしょ」
そこから先は止まらなくなった。元々は山向こうの集落に住んでいたこと。カラスの魔獣に襲われたこと。月のない夜だったこと。両親が自分を箪笥の中に押し込んだこと。薄く開いた扉の隙間から、両親が死ぬのを見ていたこと。見ていることしかできなかったこと。彼らの断末魔が、他の何よりも恐ろしかったこと。
ハイクはじっと、喋り続けるギタの隣に座り、話に耳を傾けていた。数匹の糸蜻蛉が、沢のせせらぎに卵を産み落としていった。
ギタは村を滅ぼした魔獣を強く憎んでいた。話が進むにつれ、ギタの口調は粗雑になった。明るさの裏で膿のように膨らんでいった憎悪が幼い体に満ちあふれているのを、この時ハイクはまざまざと感じたのだった。この少年は今、人と獣との境界線に立とうとしている。一度落ちれば戻れない、命がけの綱渡りだ。
「早く大人になって村の外に出たい。お兄さんみたいに色んな場所を旅して、それで、あのカラスの魔獣を探し出して、殺してやる。そのためには強くなって、武器も揃えなくちゃ」
害を為す魔獣を倒すのはいい。自分や他人を守るために武器を取るのもいい。ただ、動機が危うい。静かに顔をしかめたハイクには気付く様子もなく、ギタはふと、ハイクの腰に収まっている銃に目を止めた。魅入られたような、あるいは食い入るような目が、てらてらと獰猛に光っている。危険な兆候だ。憎しみに心が囚われている。
「いいなあ。それ、僕にも教えてよ」
「駄目だ」
「どうして。それがあればあいつらを殺せるのに」
ギタの瞳に最早銃は映っていなかった。銀色の瞳の奥では、今も故郷の村が魔獣に食われ続けているのだろう。魔の気配に聡い大鷲が、カラスに魂を持っていかれたか、と淡々と呟いた。
「どうする、ここで撃とうか」
大鷲の声は平たく、絶対零度の氷のように冷え切っていた。ハイクは出会って初めて、大鷲の声を聞いて背筋が粟立った。がたりと不穏に震える銃を片手で押さえ、ハイクは首を横に振る。ギタに向き直り、掛ける言葉を慎重に選んだ。
「確かに、この銃には魔獣を退けるだけの力がある。だが今のおまえじゃあ無理だ」
「どうして。僕が子どもだから?」
「そうだ」
はったりではない。今の状態のギタでは、引き金を引いた瞬間に黄昏に飲まれるかもしれない。ハイクは表情を消し、正面から子どもの目を覗き込んだ。怯んだギタの瞳がゆらぎ、恍惚の色が薄れる。畳み掛けるようにハイクは続けた。
「いいか、ギタ。一度でも引き金を引けば、魔獣はその瞬間からおまえを敵と判断するだろう。逃げるなんて甘いことは考えるな。一方が生き残り、もう一方は死ぬ。親の敵だろうがそうじゃなかろうが、例え戦いの果てにどれだけ相手が命乞いをしてきたとしても関係ない。一匹残らず、子どもも卵も残らず殺せ。情けをかけるな。武器を使うってのはそういうことだ。もしもおまえにその覚悟があるなら、こいつの使い方を教えてやる」
銃の引き金は軽くて重い。ハイクの言葉を聞くうちに、ギタの瞳に浮かんでいたほのくらい闇は波が引くように消えていった。ギタはどこか拗ねたように唇を尖らせ、言った。
「そんなに怖い顔、しないでよ。大袈裟なんだから。銃ってちょっと格好いいかもって思っただけ」
ハイクの視線から逃げるようにぱっと身を翻し、ギタは山道へ駆けていく。まだ成長しきらない、骨ばった薄い背中を眺めながら、ハイクはやれやれと溜息を吐いた。
森の空気よりも冴えざえとした大鷲の声が、腹の深い場所で木霊する。
「容赦のない物言いをする」
「真っ先に撃とうとしたやつには言われたくねえな」
大鷲はざらついた両翼をすくませただけだった。あまり反省の色はない。大鷲の選択は間違っていないが、だからといって、好ましい方法でもない。
「まあ、いいだろう。思うようにやればいい。それにあの子どもの手は、わたしにはいささか小さすぎるからな。だが、本当にその時が来たのなら、躊躇うなよ」
「分かってる」
おうい、と高い声が石段の上から降って来る。このわずかなあいだに、ギタはかなり離れた場所まで上ってしまっていたようだ。
ハイクはすでに引き金を引いた人間だが、ギタにはまだ他の選択も残っているはずだ。叶うなら銃をその手に握らせたくないと思うのは、間違ったことだろうか。
「お兄さん、何してるの? 早くあがっておいでよ」
「ああ、今行く」
大きな石段に足をかける。ここからまたひとっ走りしなくちゃな、と愚痴っぽく呟いた。
「いっそ俺も、おまえみたいに飛べるようになれりゃあ良かったんだがな」
どこか愉快そうに、大鷲はざわざわと羽毛を揺らした。
「かわりに歩け、人の子よ」

石段を登り切った先、青の神殿はひっそりと鎮座していた。生真面目な兵士のようにぴんと背筋を伸ばした針葉の木々に圧迫され、いささか窮屈そうに苔の絨毯にへばりついている。前室の奥に広々とした祭場を配し、その両脇に見張りや神官が詰める側室を備える、かわたれの時代のものとしてはごく一般的といえる造りの、ただの苔むした遺跡だった。村人の立ち入りもあり、手入れはされているようだったが、やはり古い。話のとおり、青色のかけらもない石の神殿だ。ひととおり内部をギタに案内してもらうと、ハイクは祭場に戻り、奥の壁の壁画をつぶさに観察した。
その絵は灰色の岩の壁のほんの一部を使った、らくがきのような代物だった。草花の豊かな土地で暮らす人々や動物達。指に塗料をつけてそのまま壁に押し付けたような、丸みを帯びたおおらかな線で形取られた生き物達は、ある種のほほ笑ましさすら感じさせるようだ。隣にギタがにじり寄ってきて、陽気にあれこれと説明をしていった。同じ境遇の仲間を見出したことで、ギタは休憩以降輪をかけてお喋りになっていた。
「ほら見て、絵の一番てっぺんの、おっきな饅頭みたいなのがレイクァの山。で、それにぶら下がってるミミズみたいな線が、僕らが通ってきた沢。昔は舟で渡らないといけないくらい深かったんだってさ。その下で動物と一緒に転げまわってるのが、プラトの村のご先祖様。皆はありがたがってるけど、壁画っていってもこれっぽっちなんだ。僕でも描けちゃいそうなのにね。それと、宝玉っていうのはあれのこと。長が言ってたから間違いないよ」
ギタの人差し指が、山の頂上を指した。ちょうど壁の中央あたりだ。棒切れで小石を繋いだような人々に囲まれ、一人だけ四角い布を羽織った人物が、丸い物体を掲げ持っている。かつての王か、位の高い神官なのかもしれない。
「どう、お兄さん。何か分かることはあった?」
どこかわくわくとした顔でギタがじっと見上げてくる。だが、正直に言ってしまえば、期待はずれだった。これだけでは鳥使いにも黒い珠にも繋がりそうもない。それに、これと似たような壁画は各地の遺跡で散見されている。つまり、とてもありふれていた。
「そうだなあ。状態も良いし、壁画としてはかなり質がいいが、どうやら俺の探し物はここにはなさそうだ。せっかく案内してもらったのに悪いな」
「なんだ、そっか。なんとなく、お兄さんなら何か見つけちゃうかもって思ってたんだけど、まあそうだよね」
ギタはつまらなさそうに壁をこつんと蹴った。恨めしげに呑気な棒人間達を睨みつけている。外界からやって来たトレジャーハンターと共に、ちょっとした冒険をしている気分だったのかもしれない。ハイクはそのあとも丹念に神殿内を調べて回ったが、やはり何も出てこなかった。黒い珠はその重さばかりをハイクのガンベルトの中で主張し、今や謎はハイクの手が届かない所にまで遠ざかっていた。ハイクは歩き回っていた足をようやく止め、息を長く吐いた。ギタはとっくに飽きて、石畳の床の升目でけんけんをして遊んでいる。ハイクはぼそりと呟いた。
「一旦王都に戻って仕切り直すか。一族の手がかりなんて贅沢は言わないから、せめて珠の正体くらいは掴みたかったんだがな」
ところが、大鷲は返事をしなかった。そういえば神殿に入ってから、まだ声を聞いていない。眠っていないのは気配で分かる。
「おい、聞こえてるか」
こつりと指で銃をつつく。数拍遅れて、どこか上の空のような声で、なんだ、と返事があった。
ハイクの長年の勘が、ここは話を聞いておけとさざめいている。
「……ハイク、もう帰ろう」
「なんだって?」
予期していなかった言葉に、思わず素っ頓狂な声が飛び出した。ギタがちらりとこちらを見る。
「帰ろう、と言った。すぐにこの神殿を出よう。いやな感じがする」
「魔獣が近くに居るのか」
「いいや、そうではない」
「なら急にどうした。怖がるなんておまえらしくない」
「怖い……? では、わたしはあの絵を、恐ろしい、と感じているのか?」
大鷲は落ち着きなく、ハイクの魂の中で翼の付け根をすり合わせた。自分の感情に自分でも戸惑っているようだ。意識してみると、大鷲が感じている恐怖が、じわりとハイクにも伝わってくる。はっとしてハイクは絵を見上げた。すると、ほんの数秒前まではただの落書きのように見えていた壁画が、たちまち表情を一変させてハイクに襲い掛かってきた。
顔のない、亡霊のような人々。奇妙に幸福そうな動物達。所々頭部が消えているのは劣化によるものだと思っていたが、そうではない。首が始めから落とされているのだ。まるで子どもが蜻蛉の羽をむしってきゃらきゃらと笑っているような、屈託のない狂気がそこにはあった。どごん、と、心臓がひときわ大きく脈打つ。その鼓動と全く時を同じくして腰の道具入れが震えたのを、ハイクははっきりと感じ取った。
珠が反応している。取り出してみると、見た目こそ変わらないが、黒い珠はわずかに熱を持っていた。孵る直前の卵のように震えている。ギタが不思議そうに駆け寄ってきて、ハイクの手元を覗き込んだ。
「お兄さん、どうかした? それに、何、この珠。ちょっと動いてるみたいだけど」
「当たりだったのかもしれないな」
「え?」
「いや、まだ分からない。ギタ、俺から離れるなよ」
珠を片手に、辺りをもう一度よく見まわす。珠の震えは次第に力強くなり、今や心臓が手の中にもう一つあるようだった。何かあるはずだ。この珠に変化をもたらした何かが。足元に視線を移す。気にも止めていなかったが、ハイク達は祭場のほぼ中央に立っていた。
「こいつは」
すぐに気付いた。同じように床を見下ろしたギタが「わっ」とたじろぐ。
「ねえ、こんな模様、最初からあった?」
今の今まで無地だったはずの苔むした岩の床に、先程までは無かった紋様が、くっきりと深く彫り込まれていた。広間の床を丸ごと使い、一つの巨大な円陣が描かれているのだ。繋がる線と線。展開する数式の数々。錬金術士や召喚術士が用いる陣にも似ているが、これは今までに見たどんな陣よりも複雑で、緻密で、レース編みの絨毯を床一杯に広げたような、芸術的なまでの美しさを持つ一本の式の並びだった。
さらにその陣は、うっすらと発光していた。何かの術がすでに起動しているのだ。珠の鼓動に合わせ、強弱をつけながら蛍のように光っている。こんなものがどうして浮かんできたのだろう。何の為に。何故。
一瞬思考の森に埋没したハイクは、自分の左足が陣のちょうど中央を踏んだことに気付かなかった。
かつん、とブーツの底が鳴る。どくんと珠が脈を打った。
次の瞬間、ハイクの踵から一気に光の波紋が広がった。陣全体が、白く強烈に輝き出す。どこからともなく、ごご、と鈍い音がする。建物が震えているのだ。ハイクの服を掴んだギタを守るように引き寄せ、ハイクは全身の神経を研ぎ澄ませながら、少しずつ出口の方へと後退した。
結果的に、ハイクの判断は正しかった。床中央の石が、ごとりと大きく下に落ち込んだ。先程まで自分達が立っていた場所だ。あっという間に床の穴は広がっていった。ずず、ずず、と岩を引きずるような音と共に、穴の底から何かがせり上がって来る。完全にそれが地表に姿を現しきると、部屋の揺れはぴたりと止んだ。放心したギタが呟く。
「……鳥?」
それは、鳥を模した一体の石像だった。両翼を畳んだ格好で佇むそれは、大の男一人分を優に越える大きさを持ち、艶やかな羽毛の一枚一枚、嘴のざらつき、あるいは頭部から背にかけての曲線までが忠実に再現された、ほとんど剝製と呼べるほどの精巧な出来栄えの像だった。
ハイクは呆気に取られ、言葉を失った。
ハイクが驚いた原因は、その技術とは全く無関係な所にあった。すぐ傍にギタが居ることも忘れ、ハイクは呆然と呟いた。
「どうしておまえがここに居るんだ」
石像は、大鷲に瓜二つだった。






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