見出し画像

ヨロン島に住んでみたら

あの夏の日、私は路肩に停めた車の中で身動きもできず、一枚の写真を凝視していた。そこには半裸の夫と見知らぬ女性。封筒は停車中の車のワイパーにさりげなく挟み込まれていた。宛先も差出人も書かれていない。胸騒ぎを覚えながら開封した結果、私は正気を失った。

夫は米海軍の船乗りであったため、長い出張中で連絡もままならなかった。やっと帰ってきたところでお互い取り乱してまともな話し合いもできない。私は重い鬱を発症し、何度か入院もした。でも私たちには大切な子供がいた。4歳の女の子とおなかにいる子。なんとしてでもこの子たちは守らねばならない。やり直すべきか。それとも不信を胸に隠し家庭を取り繕うのか。お互いの愛情の残り香に迷う日もあった。夫婦関係をスクラップ車のように思う時もあった。このまま乗り続けても、明日は見えない。

果てしない諍いと罵倒、時には内省と話し合いを繰り返し、結局私たちは別れを選んだ。あの忌まわしい写真は彼を恨む誰かの贈り物らしい。女性はタイの人で、船の停留中まで彼が何をしているかなんて私にはわかりようがない。でもこんなふうにご丁寧な写真や手紙がまた届いたら…とてもじゃないが私の精神が持たない。

別れると決めたら、憑き物が落ちたようだった。執着は人を苦しめる。私は元々気ままに生きるのが好きなタイプ、
めんどくさい夫は捨てて
子供たちと生きる方がシンプルで軽やかだ。

さて、問題は食い扶持をどうするかだ。当時住んでいたエリアは家賃も高く、保育園は満杯だった。しかも送り迎えは朝は9時、夕方は5時。9時〜5時の仕事が多いのに、どこでもドアでもなきゃお迎え間に合わないっしょ。しかも保育園に入るにはあらかじめ仕事が決まってないとならない。どうやって就職活動すりゃいいんすか?近所に友達も頼れる親もいない私は途方に暮れた。旦那はソマリア行ってたしね。何の役にも立たない。

もうこりゃあアメリカ行くか…という考えが頭をよぎった。友達もいるし、思えばダンナの親御さんにも一度も会ってないから訪問してみようかな、と。子供たちはハーフであるので、向こうのほうが何かといいのかなぁ、とも思い、とりあえず一回視察にいくことに決めた。

無事に2番目の玉のような男の子も出産し、夫もソマリアから帰ってきたので子供たちを委ね、私は旅にでることにした。ずっとワンオペで子育てしてきた怨みも晴らしたかったし、別れたら少なくなるであろう子供たちとの時間を楽しんでほしかった。

と、その前にアメリカに行くための小遣い稼ぎをした。長野のレタス農家のバイトと最後まで悩んだのが、ヨロンのラウンジ。ラウンジとスナックの何が違うのかわからない。そもそもヨロンてどこ?外国?…と非常にいい加減であったが、心が寒かったのであったかいとこ行こ❤️と決めたのである。

いざヨロンに着いたら42℃の熱が出て入院した。今ならコロナが疑われるところだが、当時は「いま検査しても内地に送って結果がでるまでにアナタ治ってますね」と野放しだった。

入院している間、同室のおばあちゃんたちと全く言葉が通じなかった。なんということだ!どこから来た?と聞かれたような気がしたので「横浜」と答えたら「ワイ!ワイ」と言っている。沖縄が近いからおばあちゃんも英語使うのかな?ホワイ?…そう言われても話せば長いことながら…とこれまでの顛末を一生懸命話した。おばあちゃんたちは寝ていた。

やっと退院の日が来た。キビ畑の中を通り、茶花という海岸に行ってみる。砂は真っ白で温かく、海はこれでもかってぐらい透き通っている。堤防にうつ伏せになってみるとハリセンボンや青い小魚が泳いでいるのが見える。急にポロポロポロっと涙が出た。何なんだろう。いままで汚いものばかり見て、毎日夫死ねって思って、子供にもうまく笑えない時があって、醜い気持ちをどうにもできなくって…
私の中に何かがつかえていたようだ。それを押し流すように涙がでる。涙は堤防の下の海と同じ色で、波に撫でられて溶けてゆく。

その夜からホステス生活が始まった。ちょっとドキドキしたけどお客さんも同僚も気さくな人ばかりでなかなかに楽しかった。ただ。ただね。
この島には与論捧奉という恐ろしい風習があり、島に一種類しかない「有泉」という黒糖焼酎を回し飲みするんですわ。ぐるぐるぐるぐる…オツムもぐるぐるしますわね。

そしてまたお客さんたちも謎ワードが多い。女の子はだいたい内地出身なので「みんながワイ!ワイ!ていうのあれなあに?」と聞いてみたら「ああ、ワイタンデ!の略だね。びっくりしたって意味だよ」と言われてたまげた。ワイタンデ…むかしアフリカの人にごきげんようは「サンゴニンニー」って習った時以来の衝撃だ。さらに「ありがとうはトートゥーガナシだよ」と教えられ、気が遠くなった。

昼は海で遊び、夜は酒盛り(従業員としての自覚ナシ)
店がはねたら流れ星を数えながら帰る。水平線に落ちる太陽、昇る月、天の川。二重にかかる虹、薄荷色の海。

台風の日でも海の美しい色は変わりなく、クリームソーダのように泡立つ。スコールの前の雷鳴、隣の島から渡ってくる雨柱、真夏の逃げ水…。

あっという間に月日は過ぎて、帰る時が近づいていた。
私はアメリカ行きをやめようかな…と考えていた。本来アメリカ行きの資金づくりに来たのに、ミイラ取りがミイラになるとはこのことか。私はアメリカではなくて、ヨロンに住みたい。子供たちに見せたいものが多すぎる。

いちおう念の為にアメリカにも行ってみたのだが、夫の親の家のトイレにポルノ雑誌が1メートルぐらい積み重なっていてビビった。そして車のフロントガラスに銃痕がありましたねー。なのにフツーに「ウチくる?」って言われて。そもそも別れた夫の実家に住むって意味がわかんない。友達が住んでるシアトルはいいところだったけど、裏通りにはおクスリでゾンビ化してる人がウロウロ…。アメリカには子供たちに見せたくないものが多すぎる!


それから数ヶ月後、私たちは
フェリーありあけのデッキにいた。有明まで送ってきた元夫は私たちを見上げて盛大に泣いていた。バカか(笑)自分が悪いのにねー。夕暮れのお台場を眺めながら船はゆっくり走り出す。横須賀基地の灯りが見えてきたので、とりあえず「F✖️✖️U〜‼︎」と叫ぶ。春の海は静かで、私たちは約2日船に揺られてヨロンに着いた。

着いたら早速、保育園に仕事にと忙しかった。島では保育園も幼稚園も大喜びで迎えてくれた。人口約5000人のこの島では、多くが顔見知りであり、非常に親切な方が多い。「こどもは島の宝」という
気持ちが根付いており、私も多くの方にお世話になった。

自然の遊び場には不自由しないので、リーズナブルに子育てができて本当に助かったし、教育的にも良いと思う。昆虫嫌いの私たちは巨大ナナフシなどに悲鳴をあげていたが、あれは好きな人にはたまらないだろうなぁ。

そんなわけで月日は流れ、子供たちは成人しました。私は再婚をして、幸せに暮らしています。

ヨロンに住む、というのは私には大きな決断でしたが、いま考えても一番いい選択であったと思います。今はヨロンを離れていますが、いつだって帰りたい。心の中に島はあります。

#あの選択をしたから
#ヨロン島
#離婚
#子育て

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?