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僕とキリンジ 

 この記事を閲覧された方のうち、いったい何人がキリンジ(もしくはKIRINJI)についてご存じでしょうか。いやしかし、読者の方がキリンジについて知らないからといってそれは問題ではありません。これは自己満足的なゆがんだ欲求によって投稿された文章の書きだしとして適当でないにしても、僕の好きなバンドについて紹介する記事としてはある意味をもつでしょうから、この書き出しについてそれ以上の意味はありません。

 さて、僕とキリンジと題した以上この記事では僕とキリンジの歴史について話さなければならないでしょう。僕がキリンジと出会ったのは、(つまりキリンジの曲を初めて聴いたのは)今から4,5年前の中学の時でした。僕が初めて聴いた曲が『非ゼロ和ゲーム』でその曲が収録されたアルバム『愛をあるだけ、すべて』が2018年であるのでやはりそのくらいだったと記憶しています。
 当時、片田舎の寡黙な少年が聴いた『エイリアンズ』、『時間がない』、『乳房の勾配』などの曲はあっという間に僕の感性を司る心のある器官を掌握していたのです。個性的なリズムとメロディー、そして文学的(叙景的また、風刺的)な歌詞が何より僕好みでした。

 今回は特に印象的だった歌詞をいくつか紹介させていただきます。

まずは「47'45"」(1999)から『耳をうずめて』の一節

”憂鬱は(まさにそう!)凪いだ情熱だ”

キリンジ 『耳をうずめて』

普通にどっかの偉人が言ってそうじゃないですか。とても含蓄がある詞だとおもいます。何かで深く苦しみ、憂鬱な人はそれだけそのことに強い情熱・愛情をもっているという裏返しなのでしょう。僕には歌詞のめあての〈君〉はいませんが何かつらいことがあったときはこの歌を聞いて元気づけられています。「僕は音楽に愛されている!」まさにそう思います。

続きましては「SUPER VIEW」(2012)の『今日の歌』から。

春風に桜舞う公園は今年もいっそう美しい
けれど「昨日の歌」はもう響かない いつかのようには

キリンジ 『今日の歌』

 僕の心には響きましたよ。春の公園の描写もすっと入ってきてきれいです。そして、〈桜〉と〈昨日の歌〉の対比が歌の物語の中の僕と君の関係性をより印象強くしています。
 恥ずかしながら、かつて僕にも片想いの人がいました。僕が(友人が少なかったというのもありますが)流行に疎い一方で、彼女は、最先端・流行を追いかけているようなかわいい子でした。断ると、彼女は決してそれに振り回されずに、むしろ、遅れていた僕が彼女にひかれたのは彼女から流行を着こなす余裕が感じられたからなのかもしれません。
 そんなわけで、彼女へのつまらない告白を軽やかに断られた後はよくこの曲を溜息つきながら聴いていました。

最後は、「Fine」(2001)の『Drifter』から

みんな愛の歌に背つかれて 与えるより多く奪ってしまうのだ

キリンジ『Drifter』

 キリンジ名言ランキングの上位に入るであろう詞です。僕がキリンジが好きな理由はこのリアリティにあると思っています。「歌は私に希望や元気、勇気を与えてくれるんです」といった言はしばしば聞かれますが、僕が歌に求めているのは僕の生活にそっと寄り添ってくれることなのです。
 多くの恋愛の激しい情念の裏には、きっと躁鬱な悲劇があるのでしょう。それを詩的に表現されたアイロニカルな歌詞はそのことよりも多くのことを語りかけてくれるようです。

 彼らの歌は、時に僕を文学的な詞で慰めてくれたし、あるときには冷え切った心に安らぎと温度を与えてくれました。キリンジと出会えたことは確かに僕の人生を豊かなものにしてくれました。
 多分僕は死ぬまでこの歌を聴き続けることでしょう。

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