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修士論文の闇と進捗報告(締切まであと3週間)

佐藤ひろおです。早稲田の大学院生(三国志の研究)と、週4勤務の正社員(メーカー系の経理職)を兼ねています。

修士論文を書いてます。
ぜんぜん参考にならないかも知れませんが、文学学術院(文学部系)の修士論文の体験記(スケジュール)をあげておきます。

修士論文は非公開なので、修士課程に進学するイメージがわかない

修士論文を書くノウハウって、書籍にもインターネットにもないんです。なぜかと言えば、「指導教員による」「学生による」から。
修士論文をどのような位置づけで(教員が)書かせたいか、ケースバイケースなので、マニュアル化やアドバイスのやりようがないんです。いじわるをして秘匿・隠蔽しているのではありません。

数字は確認していませんが、日本には4年制の大学を卒業して、学位「学士」を持ったひとがたくさんいるはずです。そのひとたちが、大学(大学院)でステップアップして勉強すると、つぎの学位は「修士号」。これすなわち、「修士論文を書き上げ、受理してもらう」というプロセスに置き換えられるわけですが、
・修士論文が公開されていない
・修士論文を作るノウハウが公開されていない
というわけで、大学院に進むことに躊躇するでしょう。

大学3年生ぐらいで「就職か進学か」という二択に迫られたときに、「修士課程2年ぐらい余分に勉強しても、就職に不利にならないよ」というアドバイスを受けると思いますが(ぼくも同じことを言ってます)、
・修士論文が公開されていない
・修士論文を作るノウハウが公開されていない
ので、よほど特別な情報網(先生とめちゃくちゃ仲が良い、プライドそっちのけで付き合ってくれる先輩がいる)がない限り、修士課程に進むことがどういうことなのか、とんと見当が付かない。
お正月の福袋のほうが、もうちょっと中身の期待値が明らかです。

修士課程で何をするのか、どんな成果を求められるのか。どの程度のものを完成させれば卒業して、学位「修士」がもらえるのか。あまりに情報がなさすぎて、真っ暗闇に等しい。闇鍋のような「闇」です。

修士論文が非公開なのは、まっとうな研究上の理由があり、ぼくも納得しているし、その恩恵を受ける予定なので異論はありません。
機会があれば記事にします。
「闇」ではあるが、「暴露系」みたいなスキャンダラスな話ではない。

かたや、博士論文というのは、完成品が公開される。昨今は、博士論文を「専門書」として出版して初めて、就職活動(猟官運動)ができる、という風潮が強まっているようです。博士論文の完成品を、外部のひとが目にする機会は多いんです。
「あの専門書を1冊、書き上げればいいんだな」と目標が立てやすい。※簡単に書けるとは言っていません。

そもそも、プロセス非公開、完成品も非公開という「修士課程」「修士論文」の闇が深いにも拘わらず、ひとつ先のさらに難易度もリスクも高い「博士課程」「博士論文」にだけアクセスできるのは、奇妙です。
どういうとき、どういう気分で大学院に進学したらよいのか、イメージが使いない。必然的に、「修士号」ホルダーがどんな人なのか、社会一般では認識されていないように思います。
※問題を広げすぎた

ぼくの修士論文のスケジュール

博士課程の先輩に質問すると、「修士論文は、どうにでもなった」と言います。しかしこれは、なんの参考にもならない意見です。なぜならば、博士課程に在籍しているということは、修士論文で結果を出した、余力があった、もしくは修士論文の作成当時からさらに研究者として実力をつけた、という母集団のバイアスがかかっています。
かれらがいま立ち向かっている博士論文の大変さと比較し、修士論文が軽く感じられるのかも知れません。
いずれも悪意のない「ウソ」に近しいもので、参考にならない。
博士課程の先輩ですらこのようなので、先生に聞いても、輪を掛けて参考になりません。

ぼく自身も、もし修士号を取りおおせてしまえば、「修士論文は、どうにでもなった」と言うでしょう。
提出して受理され、学位が発行されてしまえば、細かいプロセスやスケジュールを忘れるだろう。記憶が消えるわけではなかろうが、どうでもよくなる。当事者ではなくなるので。
というわけで、修士論文をいま作成中だからこそ、スケジュールを書いておきます。もちろん、「指導教員による」「学生による」「テーマによる」と思うので、再現性はないでしょう。しかし、まったく情報が無いよりマシではないかと思って、以下を書きます。

締め切り10週間前

テーマの掘り下げ、調査の拡大、先行研究の収集・読解などの「勉強」を中断した。これら「勉強」は延々と無限に終わらないが、どこかで中断してまとめに掛からないと、論文をまとめられない。中断する勇気がなかなか出せずに、6週間ぐらい前まで未練がましく「勉強」が続いた。

「勉強してないから、やばい」のではなくて、「勉強をやめられないから、やばい」のだと思います。けだし名言(笑)

このころ、修士論文を何文字ていどで書くのか、指導教員と合意。修士論文には「最低何文字以上」という規定がない場合がある。「長ければ長いほどよい」という流派もあるそうだ。
ゼミのなかで自分が論じたい内容を先生に説明し、「この内容ならば10万字ぐらいかな」とコメントを頂き、それを仮の目標に設定。

締め切り8週間前

修士論文の目次(全体の構成)と、「何となく結論で言いたいのは、こんな感じになる見通しです」というのを先生と合意。

書いていくなかで、結論は軌道修正するか、もしくは解像度が高まるかも知れない。しかし、いままで1年半ほど修士課程に在籍して、半期に2回ずつやってきたゼミ報告を通じて、「この学生は、こんなことをやりたい」と教員に伝わっているはずなので、落としどころを探る。
「まったく的外れ。書くに値しない」「その題材では論文にならない。着手するまでもない」と門前払いになる可能性をつぶす。ただし、あくまでテーマを選ぶのは自分だし、結論の仮案を出すのも自分だ。

締め切り6週間前

修士論文というかたちで、ようやく文章を書き始める。
これまでも、自分の研究内容を説明するためのレジュメを作ってきた。突然、別のスタイルの文が書けるわけではない。問題を設定して、先行研究を整理して、資料を自分なりに分析して、そこから言えることを示し、いかに問題を解決できたと思(おぼ)しいのか、、を愚直にくり返すだけ。

心理的なハードルが大きかったのはここです。けっきょく、レジュメと同じことをするだけなんですけど、「これが修士論文の一部になる」と思うと、身構えちゃって、だらだらと時間を空費しました。
締め切り6週間前になって、修士論文のかたちで書き始めるというのは遅すぎる。ひとによっては、時間切れになるだろう。

締め切り4週間前

先週火曜のできごとですけど、書きかけの修士論文を、ゼミのなかで先生に見て頂きました。A4用紙で30枚以上。

ゼミ用のレジュメと違って、副査の先生(担当教員以外、専門が異なる先生)にも伝わるように、前後の情報もきちんと埋めています。いちいち読み上げていたら、無限に時間がかかってしまう。
ぼくなりの「おもしろポイント」を口頭で即興でつまみ上げていき、先生に、「それはいいね」「これはどういうこと?」「それは言えないだろうね」「ここは厳しい」という反応をいただきました。

ふつう、こんなプロセスは踏まないと思います。本来は、中間報告・概要書のような形にすべきだと思いますけど、直前まで修士論文の本文を書いていたら、まとめる時間がなくなってしまいました。
むしろ、まとめなくてもいいやと開き直って、本文を作ることを優先していました。ほかのひとが、こんなことをやっているの、見たことないです。

締め切り3週間前

現在、締め切りまで3週間と2日です。

ぼくの場合、6週間前から着手し、3週間のあいだで、8万5千字を書きました。イマココです。ちょっと前のnoteで、「ぼくは速筆系なのでいけるだろう」と書いてますけど、実際に書くのは早いのでしょう。1日で原稿用紙10枚ずつ書いていた計算になります。
もっとも、
「書くの早いぜオリンピック」に出るのが目標ではない。
書くスピードがボトルネック(制約の最大要因)にはならないだろうな、という読みは漠然とありました。40年以上、生きているので、自分のことは何となく分かります。

このnoteの記事は、この地点で3,600字(原稿用紙9枚)。日記や雑記と、論文という違いはありますけど、書くことに抵抗は少ない。書くスピードは、「ないよりあったほうがマシな道具」ぐらいに思います。原稿用紙の前で腕組みをしてても、意味ないんで。明治の文豪じゃないのです。

てんで参考にならない「サンプル数1」「再現性ゼロ」の修士論文にまつわる環境認識と、ぼくのスケジュールでした。このスケジュールも、すべての瞬間が手探りです。ぼくが修士論文を書くにあたって、参考にしたノウハウは先行事例はありませんでした(先行研究はたくさん使っているけれども)。あと3週間で完成するかも不明です。

汎用性が高そうな教訓を引き出すとしたら、先生ときちんとコミュニケーションを取ることです(超平凡ですみません)。ぼくの場合、「勉強」をやめられず、書き始めるのが遅くなってて、、と泣き言も先生に伝えました。励まされました。

修士論文の続きを書いてきます。

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