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【短編】フェルマータ

瞳は見知らぬベッドから、見知らぬ天井を眺めていた。

昨日の記憶は曖昧だ。途中までの記憶と状況から察するに、私は病院に居るらしい。私は昨日、死のうと思った。理由なんてない。本当に死のうと思ったのかさえ怪しい。

アルコールと病院から処方された薬を一気に飲み、最初のうちふわふわしていたものの、気持ち悪くなり、そのまま気を失ったようだ。

そしておそらく彼が私を見つけて、救急車でも呼んで私はここに居るのだろう。

「呼ばなくたって良かったのに」

私はそう、独り言ちる。本心から零れ落ちた言の葉は、静かな病室に消えた。そんなときぱたぱたと、廊下の方から足音が聞こえてきて、ガラリと病室のドアが開いた。

「ひーちゃん、目ぇ覚めたんやね!」

良かったぁといいながら目に涙を浮かべる彼こそが、私の同棲している彼氏のまーちゃんこと真幸だ。まーちゃんは私が目が覚めたのが大層嬉しかったらしく、ずっと私を抱きしめた。

こんなことになる前に、その愛情表現してくれればよかったのに。私は、ついそう思ってしまう。普段のまーちゃんは淡泊でこんなことしてくれない。めいっぱいの愛を私に表現などしてくれない。だから、私は何時も不安だった。

こほん、と後ろで咳払いが聞こえてそちらをみると、白衣を着た男性が立っていた。そして、私はここがどこか悟った。ここは、私がいつも通っている大原総合病院だ。私はここの精神科に通っている。

病名は統合失調症。いまだにしっくりは来ていないが、今ここに居る医師が言うにはそういうことらしい。

「小川さん、なにか苦しかったですか?」

いつもと同じ、低く優しいトーンで彼は問うた。私は、一瞬考え首を横に振った。特に理由などなかった。あんなことをした理由なんて。

「死んでしまおうと思ったわけではないのですね?」

「はい」

「では、落ち着いたらすぐ退院しましょう。特に問題もないようですから」

私達の会話をきょとんとしながら聞く、まーちゃんはなんだか納得出来ていない様子だった。

「もう退院なんて!自殺未遂ですよ?またやったら、次は瞳は死んでしまうかもしれない。そしたら、先生は責任とれるんですか?」

「まーちゃん」
私は静かに彼に呼び掛けた。ハッとしたように振り向いた彼の目からは涙が出ていた。

「まーちゃん、私大丈夫だよ。もうまーちゃんを心配させたりしない。病院には居たくないよ。帰っちゃだめ?」
つい甘えたような声が出て、ここは家じゃないのに、と恥ずかしくなった。

「ひーちゃんは、本当に大丈夫なの?もうこんなことしない?俺、たくさんの薬のシートがひーちゃんの周りに転がってるの見て本当に、本当にびっくりしたんだ。ひーちゃんがこんなに苦しんでるなんて思いもしなくて……

ずっと一緒にいたはずなのに、俺はひーちゃんの何を見ていたんだろうって、何回も思った。だから、これからはひーちゃんがこんなことしないように最善を尽くさなきゃって。でもそれは病院に居ることじゃないんだね?」

「まーちゃんが、一緒に居てくれるならそれがいい」

私は本心でそう思った。

「小川さん。小川さんは今、病気という停留所にいます。人生にはいくつも停留所があって、そこからバスを待って違うところに行ったり、その停留所の近くを散策してしばらく過ごしたりします。

小川さんは今、ただ、病気という停留所のあたりを散歩しているだけです。辛い散歩ですが、それでも次の停留所やバスはあります。急ぐことはないのです。病気なんてそんなものですよ」

「散歩……ですか?」

「山歩きでもいいですよ」
笑顔でそういう主治医に私は小さく、はい。と言った。

そうか、私は病気という停留所(フェルマータ)に居るのか。瞳は小さく小さく笑い、そして前を見た。真幸はそんな私を見て少し安心したように、柔らかく私を抱きしめた。


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