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【映画評論】『ほつれる』(2023年)〜乗り物の使い方が見事な傑作


【「感情移入できない主人公」に感情移入してしまった】

amazon primeで配信中、上映時間たった84分の見やすさにして、今後間違いなく日本映画を背負って立つ存在となるであろう加藤拓也監督(まだ30歳!)の『ほつれる』。

夫に内緒で交際していた愛人を、事故で亡くしてしまった女性。彼女は、愛人との思い出を引きずりながらも、変わらぬ日常を過ごしながら自らの人生を見つめ直していく。

巷の感想としては、感情移入しづらい主人公綿子のキャラクターを門脇麦が抜群の説得力で成立させていることや、ネチっこくヤバみのある夫を演じた田村健太郎の演技力が称賛されている印象。

確かにそうだが、私は綿子に正直かなり感情移入し、夫には「ウザいなー早く別れろよ」とか思いつつ、終始正論は彼の方にあるとも感じていた。

綿子はとにかく一貫して主体性がない。夫から「家を買う」と言われた時も興味が一切なく、内見の約束もすっぽかしてしまう。夫からすれば人生の局面に関わる一大事だが、綿子に当事者意識は皆無。それは、夫との生活を「積極的に選択」しているわけではないからだ。

綿子は仕事をしておらず、経済的に夫を頼っているし、なんなら食事も夫が作ってくれている。夫と前妻との間の子育てに関しても、一切関わらずに自分の部屋にさっさと閉じこもってしまう。当然、義母はそのことを快く思っていないようだが、それすら「他人事」のようである。
ところが、ヤバい夫は綿子に気を遣い、全てを許容する。それは夫が過去の不貞に対して罪悪感を抱えているからだと後に明かされる。綿子も恐らくそれが原因で、彼との子どもを作る未来が描けないのかもしれない。

【果たしてこれは恋愛映画なのか 鍵は黒木華の台詞にある!?】

だが、彼女が子どもを作らない理由はどうもそれだけだとは思えない。この辺りで、本作は恋愛映画のようで実はそうではないことが分かってくる。

ここであえて、映画の一番冒頭を思い出して欲しい。染谷将太演じる前田との不倫旅行で、綿子は箱根にグランピングに行く。面倒なこと、手間がかかることをすべてお膳立てしてもらい、キャンプ同様の楽しさを享受出来るのがグランピングだ。ここに綿子の本質が凝縮されている。

彼女は主体的な選択をせず、誰かに与えてもらい生きてきた。だから、人との関わりの中での「想像力」に欠ける。友人の黒木華(子持ち)に当日に山梨での日帰り旅行を提案するし(もちろん運転するのは黒木華)、前田の妻に呼び出された時も謝罪したりはしなかった。

綿子のこの感じ、私は非常に近いものを持っている。一人っ子で鍵っ子だった私は、小学生の時から予備校に通い、当たり前のように中学受験をした。たまたま大学までエスカレーター式で進学出来るところだったので、10代という貴重な人格形成期に「与えられる」ことが前提となってしまった。

劇中でも、黒木華が自分の子どもの習い事について、綿子に打ち明ける場面がある。色々習わせていたのだが、本人に合わないと思って全て辞めたというのだ。

うちの子はプロを目指しているわけじゃないので、練習量減らしてもらえますか?とは言えないし

と自嘲しつつ、その決断が正しかったのか彼女は悩む。

どれくらい練習がキツいのかとか、本人にしか分からないから

さり気ないシーンだが、私は加藤監督がここにこの映画のテーマを託したと思っている。親子ほどの距離でも、いや近いからこそ関わるのは簡単ではない。どんなに「子どものため」でも習い事は子どもに選択の余地がなく、その主体性を奪ってしまう側面があるのも事実だ。本当に自分がやりたいと思えることは、結局本人が自力で見つけるしかないのだが、それは口で言うほど簡単ではない。そして綿子の日常には、それがずっとないのだ。

【多用される乗り物のシーンは綿子の"受動性"の象徴】

本作で彼女の受動性の象徴するのが乗り物だ。冒頭のロマンスカー、(乗らないが)飛行機、高速バス、車。彼女は虚ろな目で車窓を眺める。あらかじめ決まった目的地にただ輸送されるだけの存在として、綿子は描かれる。

ただし例外的に劇中2回だけ、彼女が自分で車を運転する場面が出てくる。無くした指輪を探すためにもう一度山梨を訪れる時、そして映画の一番最後の長回しのドライブショットである。

染谷翔太演じる前田との不倫、それは唯一彼女が自発的に選び取った「愛」だったのだろうか。ところが、夫との口論の場面で衝撃の事実が分かる。
実は綿子と夫の出会い自体が不倫だったと。つまり前田は過去の夫の再生産に過ぎないのだ。綿子は、意図的に夫と過去にいった場所でデートや旅行を重ねていた

ここで、綿子に主体性がない本当の理由は「大人になりたくないから」だと明らかになる。「夫と恋人でいられた頃」はただ「私と彼」だけだった。しかし結婚すると、そこに面倒な姑や前妻との子どもが介在する。夫の「人としてヤバい面」もどんどん見えてくる。

だから彼女はゲームをリセットした。「つづきからはじめる」(夫)ではなく、「さいしょからはじめる」(不倫相手)を選択したのである。彼女にとって恋愛というゲームは序盤のワクワクがピークで、そこから先は退屈でしかなかったから。別に前田である絶対的な必然性はない。誰でも良かったのだ、綿子をもう一度リセットさせてくれる人ならば。

口論も、ロジックでは完全に夫の方が正しい。綿子は、ただ逆ギレをする。夫はもちろんヤバいが、彼が悪あがきし、取り繕ってきたから、この夫婦関係はなんとか維持できていた。夫は綿子を好きだが、綿子はそうではないからだ。彼は大人になろうとすることで、必死に綿子をとどめようとするが、皮肉にも綿子が大人になることは彼との決別を意味していた。
どんなに「正しさ」が夫の方にあっても、綿子がその「ほつれ」に気づいてしまった時、それは終わってしまう運命だったのだ。

【大人になりたくない主人公がその入り口に立つまでの物語】

最後に綿子が乗る車は、山梨に行く際に運転した夫の高級車ではない。レンタカーかカーシェアのワンボックスだ。「夫から提示された選択」から彼女が完全に外れたことを実に手際よく映像で表現している。

「自分が選択できること」を探すのだろうか。彼女の車は当てもなく明け方のどこかの都市をさまよっている。そんな彼女がようやく大人になれるかもしれない可能性を示唆する、美しいラストショットで映画は終わる。

綿子は世の中舐め過ぎだし、「そんな簡単に行くかよ」と思う人も多いと思う。あのラストに希望を感じない人もいるだろう。

ただ僕は平成生まれ世代の社会への諦観だったり、消極的選択でやりくりしながら現実逃避の夢を見続けていく感覚を、同世代の作家が見事に映像化した傑作だと感じた。


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