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【歌詞考察】藤井風 『花』(2023年)〜「内なる花」とは何か、なぜ葬式なのか


【はじめに】これは本当に「死生観の歌」なのか

藤井風の(現段階での)最新シングル『花』。MVについての複数の「考察」記事を読む限り、「死生観の歌」という解釈が多いと感じる。

確かにそれは間違いない。過去の難解なMVに比べて、今作は非常に分かりやすい。棺桶の自分を運び、イーゼルの遺影が歌い出し、線香をあげ、先住民的衣装をまとった祝祭感溢れる踊りがクライマックス。誰がどう見ても葬式で、しかも多様な信仰が組み込まれている。
(棺桶⇒キリスト教、線香⇒仏教、ダンス⇒広く土着的な宗教を示唆)

しかし一方で、歌詞は今までよりも抽象度が高い。藤井風は自身の信仰を明言していないが、信仰の相違、あるいは有無に限らず、全ての人に届く音楽を作りたいからに他ならないだろう。

『花』単体で分析するのではなく、そのディスコグラフィを辿り、本作の言葉の真意を読み解きたい。

【詞の特徴 実はほとんど独り言】

私が考える、彼の詞の最大の特徴は、‟自分との対話形式”が非常に多いことだ。以前の記事でも書いたが、『HELP EVER HURT NEVER』は一見ラブソングの体をとりながら、一人称(わし)も二人称(あんた)も自分自身。つまり独り言になっている。

『何なんw』のMVで風の周りを踊る黒人ダンサーはハイヤーセルフ(もう一人の藤井風)。「わし」が黒人で、「あんた」が藤井風。『花』の一人二役はこの時点で既にやっていたのだ。
また、『何なんw』のMVはCメロ部分に洗礼を連想させる場面がある。端的に「復活」や「生まれ直し」を意味すると思われるが、デビュー曲の段階で「再生」というテーマを核に据えていたことは強調しておきたい。

また、『さよならべいべ』における「あんた」も別れた恋人ではなく、過去の自分、あるいは故郷そのものと解釈することも出来る。

『死ぬのがいいわ』の「あなた」は、歌詞の読み手によって変化するのだが、藤井風にとっては「音楽」そのものを意味しているだろう。

この曲も一見「メンヘラ」の重たい恋バナを装い、実際は「その人にとって最も大切なもの」(生きる理由)についての歌だ。

このように二人称を擬人化することで、表向きは恋愛ソングの中に内省的・哲学的問いかけを忍ばせ続けてきたのだ。

【誰かを愛するために自分を愛せ】

その‟哲学”の特徴は、誰かに優しくなるためにはまず自分自身を愛し、尊敬しなければならないという考え方だと思う。

ただし、この自己肯定をはき違えるとただの利己主義に陥ってしまう。そうならないためにどうすればいいのかーー『HEHN』は、その指南書のような作品だとも言える。

『もうええわ』は愛と執着の違いについて歌った楽曲だが、これは自己肯定と利己主義の違いと言い換えることも可能だ。

また、他者を労ることはstrength(強さ)でありbad ass(くそカッコいい)だと高らかに歌うのが『優しさ』だ。


【作詞の変化  me&youからusへ】

そして『HEHN』以降、具体的にはコロナ禍が本格化した2021年の『旅路』から、作詞が変化する。「わたしとあなた」だけだった登場人物が、「ぼくたち」「わたしたち」に変わるのだ。

あーあ僕らはまだ先の長い旅の中で

『旅路』より

お元気ですか僕たちはいつになれど少年です

『旅路』より


そして「他者に優しくすること」に、よりストレートに言及していく。

あれもこれも魅力的でも私は君がいい

『きらり』より

荒れ狂う季節の中も群衆の中も君とならば さらりさらり

『きらり』より

『きらり』における「君」は、もうひとりの自分ではなく明確な他者だ。コロナ禍の孤独の中、「君」の存在が「私」の救いとなる物語である。

『燃えよ』も相当に異色作だ。「独り言」形式は、「上から目線」にしない工夫でもあったと思う。『調子のっちゃって』、『青春病』など、時に自嘲的にストーリーテリングをすることには、メッセージを説教臭くさせない効果がある。しかし『燃えよ』では、命令形で頑張れと鼓舞する。

燃えよ あの空に燃えよ 明日なんて来ると思わずに燃えよ

『燃えよ』より

『grace』も凄い。どストレートに「神への感謝」を歌った曲だからだ。

コロナによって、信仰の重要性は間違いなく高まったと思う。感染予防対策、マスク、ワクチンなどを巡り様々な分断が起こった。科学だけに寄りかかることの脆弱性が顕在化した。
「正解がない」という状況に耐えられず、他者を傷つけてしまう人達が相次ぎ、陰謀論・フェイクニュースに飛びついたりヘイトスピーチに加担した。そして、それは残念ながらいまも毎日のSNSの中で見ることが出来る。

暗殺事件によって「宗教」自体の印象が悪くなってしまったが、カルトの問題があるからといって、宗教自体を全否定すべきではないと思う。


とはいえ、信仰心の無い人も鼓舞する楽曲を作るのが、彼がポップスターたるゆえんだ。『Workin' Hard』は、地べたの目線に立ってエッセンシャルワーカー(と外国人労働者たち)への敬意と連帯を表明した。

こうして見ていくと、個人的・実存的な悩みを、人類規模・地球規模の問題に接続したことが、最近の彼の詞の特徴と変化だと言えるかもしれない。


【『花』でも強調される「わたしたち」】

前置きが長くなったが、ここから『花』の歌詞について読み解いていく。
やはりまず目につくのが、「ぼくたち」「わたしたち」への変化

みんな儚い みんな尊い

『花』より

僕らを信じてみた 僕らを感じてた

『花』より

今作も「他者との繋がり」が強調される。ただ今まで違うのは、『HEHN』的な「自分自身との対話」という要素もあることだ。

わたしは何になろうか どんな色がいいかな
探しにいくよ 内なる花

『花』より

この歌には2つの花がある。1つはこの瞬間も枯れる、しわしわに萎れた「花束」。もう1つは「内なる花」。一見、花束の方が現実で、「内なる花」は「理想」を意味しているように思えるが、恐らく彼の意図はその真逆ではないかと思う。

【SNSの虚栄=枯れて萎れる花束】

SNSにアップされる加工された写真や背伸びしたツイート、そんな虚栄心で取り繕った美しさは色褪せるーー「花束」はそのメタファーではないか。

色々な姿や形に惑わされるけど
いつの日かすべてがかわいく思えるさ

『花』より

この詞に呼応するような『青春病』の一節を引用したい。SNS以降の、繋がってしまうからこその苦しみ(特に他者と自分を比較してしまうこと)を上手く言語化している。

そうか結局は皆つながってるから
寂しいよね苦しいよね

なんて自分をなだめてるヒマなんてなかった

『青春病』より

デジタルのデータは実物の写真と違って、汚れたり破れたり劣化したりはしない。ただし、何十年後に振り返って、「黒歴史」だと感じることはあるかもしれない。そこに写っているのが取り繕った美しさであれば、だ。


【内なる花とは何か】

じゃあ逆に、「永遠に変わらぬ輝きを放つ」美しさってなんだ?藤井風は親切にもその答えを教えてくれる。

my flower's here

『花』より

そう、最初からここにあったのだ。そのものの私たち。毎秒ごとに老け、死に近づきながら、同時に毎秒だけいまを生きている。まさにこの瞬間も枯れながら咲いているのだ。

「死生観の歌」ということに補足するなら、彼はいわゆる「死」よりも広義の意味で死を捉えていると思う。

私たちの細胞は日々死に、日々新しい細胞に生まれ変わっている。そんな自然の神秘、生命のダイナミズムそのものを賛美しているのではないか。「昨日の私」を看取り・埋葬し、「今日からの私」をリスタートする。これは、そんな歌ではないだろうか。

虚と現実が逆転し、仮想世界や画面の中にしか現実を感じられないーーそんな現代の‟病”の中で、いかに説教にならずに人々を鼓舞するか。
my flower's hereに呼応する歌詞も、『まつり』で既に言及されている。

で、一体何がほしいわけ 誰に勝ちたいわけ
なかなか気づけんよね 何もかも既に持ってるのにね

『まつり』より

【内なる花=死ぬのがいいわの「あんた」】

以上を踏まえると、「内なる花」は、『死ぬのがいいわ』における「あんた」、つまり彼の楽曲も意味しているだろう。

鏡よ鏡とこの世で1番変わることのない愛をくれるのはだれ
No need to ask cause it's my darling

『死ぬのがいいわ』より

三度の飯よりあんたがいいのよ
あんたとこのままおサラバするよか 死ぬのがいいわ 死ぬのがいいわ

『死ぬのがいいわ』

「永遠に変わらない輝き」とは彼の曲たちでもあるからだ。
それは時代や場所を越えて、後世の人達の耳にも届くだろうから。


【おわりに】楽曲としての『花』に思うこと

と、ここまで書いてきたのに言いづらいが、楽曲としての『花』は、これまでの曲ほど「凄え!」とはならなかったのが正直なところだ。
最大の理由は、そのアレンジにある。この曲、いくらなんでもThe Doobie BrothersのWhat A Fool Believesすぎる。

あるいは、ChicagoのSaturday In The Parkでもいい。


誤解ないように言っておきたいのだが、幅広いブラックミュージックや、キャロル・キングなど70sの白人シンガー・ソングライター達のサウンドを巧みに取り入れ、自分のものにするところが、藤井風の最大の魅力だと思っているし、What A Fool Believesはそのイントロに松任谷由実がぶっ飛ばされ他ことで、彼女と日本のシティポップの原点になったと言っても良い楽曲だ。

ただ、あまりにもそれを工夫なく使ってしまう感じ、Yaffleだったら絶対にしないアプローチだなと思ってしまうのだ。

例えば多くの人が言及しているが『まつり』のトラックの上ネタは、ドクター・ドレーが元ネタだろう。

このフルートを、篠笛に「変換することこそ」がセンスだと思うのだ。


言い換えるなら、遊び心。『花』MVの1分55秒あたりからの、藤井風がマリファナをキメているように見えるカット。一瞬驚かせておいて、実は線香でした〜というオチがついてクスっとさせる場面。

こういう「工夫」が、音楽的解像度の低い私には感じ取れなかった。ただ、クレジットを見るとドラムとシンセのみになっており、この極限までミニマルな音作りは攻めているとも言えるのだろう。(間奏で明かにギターソロがあるけど、クレジット上なぜ無いのかまでは不明)

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