宗教の事件 39 西尾幹二「自由の恐怖」

●真空をさらに真空にする進歩主義の不毛

市民革命以前には地域や職業や血縁などに根ざす共同体、身分制的な中間団体が多数あり、個人を拘束し、抑圧してきた。これを壊し、個人をとりあえず裸の無防備の状態にしたのが革命の成果である、と樋口氏は考えている。この共同体、中間団体の中には家庭、ギルドなどの他に、もとより教会も含まれる。右の引用の末尾に「中間団体の敵視の上にいわば力ずくで<個人>を析出されたルソー=ジャコバン型モデルの意義」とあることからわかるように、個人と国家の間に中間団体の介在をいっさい廃した「ルソー=ジャコバン型」国家は、王制を倒しただけでなく、教会をも敵視しつづけた。共和国政府が王権と宗権、フランス王朝とカトリック教会とを束にして、両社と対決するという構図は、西欧では必ずしも一般的な歴史展開ではなく、フランス史独自の展開、一つの特殊で、例外的な現象であったということは以前にも指摘したとおりである。
そして政治と宗教の関わり方は国それぞれ異なり、どこかの国がすぐれているという話ではない。歴史文化の評価に優劣の尺度を容易に持ち込まない相対主義が今の時代、進歩の観念が成り立たない現代においてわれわれがとり得る唯一の態度ではないか、ということも前にも述べたつもりである。

そのような見地に立つなら、加地伸行氏が政治と宗教の関係に東北アジア型を想定し、儒教文化がここでは決め手になっているとした判断は正しいし、私は説得された、とも書いた。しかも氏は「祖先祭祀と子孫、一族の繁栄を軸とする生命の連続に最大の価値を置く」儒教文化圏では、家族ないし家庭が神聖視され、「一人一人の人間は、個人としてではなくて、個体として家族の中にあるとする」と述べている。それ自体としての「個人」は存在しないというのだ。イエとか家族とかを否定すべき中間団体としてひたすら敵視するフランス流の近代立憲主義が日本の伝統文化といかに不一致であるかが、改めて思い知らされよう。

われわれの法意識が長い歳月のうちには結局は伝統意識に回帰し、そこで安定を得るであろうことは加地氏のいうとおりと思うが、しかし日本ではご覧のように現に樋口陽一氏のようなフランス一辺倒の硬直した頭脳が、国の大元をなす憲法学の中心に座を占め、若い人を動かしつづけている。日本の現実が中国のように簡単にはいかないといったのはこの点である。樋口氏の弟子たちが裁判官になり、法制局に入り、宗教法人法に手を加える、などと考えると、やはり私は背筋が寒くなる思いがする。

ついにオウム真理教の出現を見るにいたった戦後50年目にしての椿事は、「個人」だの「自由」だのにたいし無警戒だった戦後文化の行き着いた到達点であり、ここから先はもうない折り返し点である。解放に次ぐ解放をひたすら過激に求め続けた進歩的憲法学者に扇動の責任がまったくなかったとは言いきれまい。

開放と自由は同義語ではない。人間はなにかあるものへの帰依がなければ、自我は成立しない。信従のないところでは、個性も芽生えない。共同体をいっさい壊せば、人は贋物の共同体に支配されることになる。

樋口氏の著作を読んでいると、社会を徹底的に「個人」に分解し、後昔、その意志をどこまでも追及していく結果、従来の価値規範や秩序と矛盾対立の関係が生じた場合に、「個人」の石に抑制を求めるのではなく、逆に従来の価値規範や秩序の側に変革を求めるという方向性がはっきり示されている。いいかえれば分解され、アトムと化した「個人」の意志をどこまでも絶対視する。その結果、「個人」はさらに分解され、ばらばらのエゴの不毛な集積体とかする。

しかし人間はなんらかの共同体がなければ生きていけない。既成のあらゆる共同体を壊し、いっさいのものからの解放離脱を唱えつづければ、最後には自分で人工的な共同体を作り、自分を鎖(とざ)し、その内部へ閉じこもるほかなくなる。現代人一般を覆う自閉衝動がそれである。さらに、さしたる束縛も障害もない、現代のようなほぼなにもない真空状態にも不自由を見出し、そこからの解放をさえ求めつづけるのなら、真空をさらに真空にするような話であるから、ちょっとやそっとの解放行動では、なにも動かせない。そこでそれは敵のない状態で敵を求める行為に似てくるので、ナンセンスでばかばかしい破壊衝動に身を任せ、敵を自ら作り出して攻撃しかけるような始末にもなる。

人工的な自閉衝動とナンセンスな破壊衝動というこの二つを同時にほぼ満たしたものこそ、他でもない、オウム真理教であった。「個人」の無限の解放は一転して全体主義に変わりかねない。それが現代である。ロベスピエールは現代ではスターリンになる可能性の方が高い。

日本人の心が東北アジア的で、実際には儒教的に問題を処理しているのに、概念操作だけはフランス的で、日本人にとって有難くもない「個人」を無理に演出させられていくなら、東北アジア人としての実際の生き方の後ろめたさが陰にこもり、実際が正しければ正しいほど矛盾が大きくなる、というのが、西欧でも中国でもない日本の現実であるように思える。

<了>


西尾幹二 「自由の恐怖」(文藝春秋)

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