頭がいいとかわるいとか

モダニズムの思潮には、機敏な計算にもとづく功利主義がつきまとっている。それは現実生活の上の利害打算となって露骨にあらわれることもあれば、心理上の駈けひきとして抜けめなく相手につけこみ、自分の優越を確保するという目的に奉仕することもある。

いずれにせよ、その目的を達成するためには速度が必要で、行動における機敏さ、頭脳回転の速さが大事な要因になる。頭がいいとかわるいとかいう言葉は、昭和になって流行するようになった表現のひとつであるらしい。その場合の頭のいい、わるいは、頭脳回転の速さを、暗黙のうちに意味していた。

横光利一が或る私信の中で、いまの文壇でもっとも頭のわるいのは中野重治氏である、などと書いているのは、おそらく頭脳回転の速さのことを言わんとしているのであろう。そのかぎりでは、それは当たっていたかもしれない。

中野重治氏が或る小説の主人公に、おれの頭はよくはないが、つよい頭だ、という意味のことをいわせているのも、そういう風潮に対する自己意識のあらわれだろう。

頭脳回転の速さは個人差の問題である。しかしそれは世代間の問題でもあった。たとえば、『昭和初年のインテリ作家』の作者廣津和郎の世代と横光利一や川端康成、さらに若い世代の伊藤整たちのあいだには、個人差を超えた世代間の頭脳回転の速さのちがいといったものがある。廣津和郎のような旧世代の頭脳回転はのろいのである。

しかしそれは能力や素質の問題ではなく信念体系とそれにともなう情操の質のちがいであろう。頭脳回転が速いという意味での頭のよさなどが、すこしも知的虚栄心の対象たりえないような世代の人間にとって、頭がいいなどということはほとんど問題にならないのである。ものごとの処理、機敏につくなどという能力は彼らにとって何事でもなかった。それは大正期のインテリゲンチャ文士の一般的気風であった。


桶谷秀昭 「昭和精神史」

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