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2014~2015年イラン旅行(3)

 今日はイスファハーンへの移動日です。イスファハーンへは長距離バスで行きます。イランは飛行機代が安いらしいのですが、イランの景色を見てみたいのでバスを利用します。
 ホテルで朝食を済ませると、タクシーでバスターミナルへ移動します。昨日も見ましたが、テヘランの街の北側には山脈があり、町中からはきれいな雪山の姿が見えます。ちなみに山脈の向こう側はカスピ海です。テヘランの街はこの山脈のふもとにあり、だから全体的に北から南への緩い傾斜のある街となっています。
 道路はどこも渋滞気味ですが、タクシーは(というよりも全ての車が)車線を無視して隙間があればどんどん割り込むという「交通安全」という概念を全く知らないような走り方で突っ走っていきます。でも今回は珍しく海外旅行保険をかけてきたので安心です?
 着いたバスターミナルは、中が3列シートのVIPバスが主体のものです。タクシーは私を一見適当なところと思える場所に降ろしました。しばらく周辺の様子を見てみましたが、とりたてて何かあるわけではなさそうなので、とっととイスファハーン行きのバスに乗ることにします。
 イスファハーン行きのバスの客引きがいましたので、そこでチケットを購入します。28万イランリヤル(Rls)、約千円です。バスに乗り込んだものの、自席がわからずウロウロしていると、後からきれいなイラン人のお姉さんが乗ってきたので、勝手がわからないさまを示したら、英語で「あなたの席は20番よ」と言ってくれました。
 やがてバスは出発しました。しばらくの間はテヘラン中心部を走っていますが、反対側の車線の渋滞が物凄いです。そのうち交通量は減っていき、いつの間にかハイウェイに入っていました。車窓を見てみたかったとはいえ、同じ景色が続くので車窓は基本的には退屈なものです。そうはいいつつも、「土漠」という表現が合う砂漠という、草原に所々木々がメインの景色の東西トルキスタンとはまた違った景色がこの辺りのイランの特徴であることがよくわかりました。バスを選んでよかったです。
 途中サービスエリアのようなところで休憩します。トイレ休憩と思っていましたが、ちょっと長めです。運転手はお茶でも飲んでいるのでしょうか。駐車場でボーっとしていると、イラン人が英語で話しかけてきました。当たり障りのない内容の質問攻めです。こういうのも旅の醍醐味かもしれませんが、基本的に私は現地人との出会いを求めている方ではありませんので、あまりそれが続くと苦痛に感じてきます。というより私の英語力ではだんだん会話を続けるのがしんどくなってきます。そのうちその人の乗っているバスが出発時刻となり、ようやく会話は終わりました。バスは6時間でイスファハーンに到着しました。
 イスファハーンの宿は手配していません。現地の安宿に泊まろうかと思っていたからですが、やっぱりそれなりのホテルに泊まろうと思い、タクシーを捕まえてイスファハーン一番のホテルに行ってもらいました。そのホテルに着いて、レセプションで値段を聞いたら4百万Rlsでした。1泊ならいいかもしれませんが、イスファハーンには2泊しますのでちょっと高すぎます。タクシーの運転手に、ここはやめとくと伝えました。運転手は、タクシーに乗って探すか、と聞いてきましたが、このホテルのほぼ向かい側に若干安そうなホテルがあるので、そこに向かうことにしました。運転手はちょっと残念そうでした。もしかしたら私はホテルからバックマージンがもらえた客だったのかもしれません。
 反対側のホテルは2泊で90ドルでした。上々です。これで蚊がいなければ言うことなしです。ここからは見どころへは歩いて行けます。この時点で午後3時。夕方の一歩手前ですが、観光に出かけます。いよいよシャー・アッバースのモスクとご対面です。

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 ホテルにチェックインしましたが、時刻はまだ午後3時過ぎなので、早速観光に出かけます。
 イスファハーンは、サファヴィー朝ペルシアの皇帝アッバース1世が作った街です。誰それが作った首都という点では、ティムールが作った現ウズベキスタンのサマルカンドもそうであり、サマルカンドには帝国を象徴するレギスタン広場があるというところも似ています。(エマーム広場は、革命前は王の広場という名前でした)
 イランと中央アジア。なんだか別の離れた場所のように思えますが、実はつながりはそれなりにあります。ティムールの子孫バーブルは、キプチャク草原から南下してくるウズベク人の圧力に苦戦し、サファヴィー朝の初代皇帝イスマイル1世に助けを求まます。シャー・イスマイルはバーブルに、シーア派転向を条件に助力し、そのおかげでウズベクのシャイバーニー・ハーンを討ち、サマルカンドを奪回します。ところがバーブルが「律儀にも」シーア派のやり方の礼拝をモスクで行ったためにサマルカンドの住民は反発し、そのためにバーブルは結局はサマルカンドを失い、アフガニスタンのヘラート、さらにはインドへ下り、そこでムガール朝を開く(というよりは落ち延びただけか?)ことになります。ちなみに、ムガールとはモンゴルのことで、ティムール皇帝の持つモンゴルの血統が強調されていたことによります。
 シャー・アッバースは、時勢にも恵まれていました。ティムール帝国崩壊後の北方のトランスオクシアナには強力な統一王朝は出現しませんでした。西方にはオスマンという大帝国がありますが、スレイマン1世の治世は終わり、帝国は停滞期に入りました。その中で長年の係争地であったバグダードとタブリーズを獲得しています。東のムガール帝国は、インド統一に力点を置いていたようで、アフガニスタンを巡る争いはサファヴィー朝に有利に進みます。そんな中で作られた首都イスファハーン。「イスファハーンは世界の半分(イスファハーン・ネスフェ・ジャハーン)」と称えられたイスファハーンを象徴するエマーム広場にこれから向かいます。
 エマーム広場はホテルからは1キロ弱の所にあるので歩いて行けます。イスファハーンの街はテヘランと違って、道路が車であふれているということがなく、それだけでもかなり気分が落ち着きます。徐々に広場に近づいてくると、モスクのドームがちらちらと見えてきます。そして通用門のようなところから広場に入りました。
 もう夕方に近いからでしょうか、ここに世界遺産があるのにただのだだっ広い公園のような雰囲気です。市民が散歩してたり、だべってたりしています。時々観光客用の馬車が広場の中を走っていきますが、広場は静かなので、蹄と鈴の音が響いています。観光客は、いないわけではありませんがまばらです。それでも絨毯屋らしき日本語使いはいました。こういう人と会話するのも割とおもしろかったりしますが、私はNoと言えない日本人で、絨毯買え買え攻撃をまともに食らいたくないので、ひたすら無視します。
 今日はモスクの中には入らず、広場をうろうろするだけにします。だいぶ日が落ちてきましたが、もう少し観光スポットをまわることにします。

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 エマーム広場から市内を流れるザーヤンデ川にかかるスィー・オ・セ橋まで歩いて行きました。
 イスタンブールもそうですが、水のある景色はいいですね。美しい橋の上で、特に何かするわけでもなくただひたすら景色を眺めてぼーっとしています。腰が痛かったというのもありますが。今回の最大の目的地に来て、ちょっとした達成感もありましたが、この1年間はどんなだったろうとか、来年はどこへ旅行しようかとか、もうすぐ46歳だけど今まで無駄に時を過ごしてきたナァとか、いろんなことを考えていたら周りが暗くなってきました。
 今日はこれで引き揚げます。

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