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「横断歩道の真ん中で祈りを捧げる男」



 会議のため、おおよそ二年ぶりに四谷の本部まで足を運んだ。

 四谷駅構内を出ると、多くの人達が交差点手前で信号待ちをしていた。いつもの風景だ。信号が青に変わり、人並みが横断歩道を渡っていく。すると、私の背後でドサっと何か物音が聞こえたので、思わず振り返ると、三十代くらいと思しき男がこぶりのリュックサックをアスファルトの上に置いていた。男はその場で両足を折り、正座をし、頭の上にあった黒いキャップを脱いでリュックサックの上に置いた。そして、まっすぐ前を向き、横断歩道の白線に頭をこすりつけるようにお辞儀をした。男性はお辞儀をひとつした後、再び、正面を向いた。視線の先には、聖イグナチオ教会が見え、その後方には燃えるような正午の太陽が眩いばかりの光を放っている。私は眩しさに思わず目を細めた。横断歩道を渡る人たちは男の仕草には無関心で、様々な靴音を立てながら祈りを捧げる男を追い越していく。数秒後、男は立ち上がりリュックサックの上に置きざりにされた黒いキャップを取り上げた。左手でツバを掴み、右手でパンパンとほこりを払ったあと、帽子を頭の上にのせる。そして、足早に私を追い越して、横断歩道を渡っていった。

 「あなたは神を信じますか?」

 スマートフォンの時刻は、会議開始の約一時間前を表示していた。私は吸い込まれるように母校の門をくぐった。学生たちで賑わう八号館ピロティの喧騒は今も昔も変わらない。多くの学生がそこで食事をとり、本を読み、友達と語らっていた。私はそこを通り過ぎた。その先には、八号館ピロティとは比べ物にならないほど静かな九号館ピロティがある。青い椅子が円形に配置されたベンチが数箇所あったが、誰も座っていなかった。

 私は一番前の椅子に腰掛け、前方に茂った樹々の合間を流れてゆく白い雲を見ていた。

 「あなたは神を信じますか?」

 私はここで三十年前、確かにこう話しかけられた。私に話しかけてきた男もまた、学生で、右手に一冊の厚い本を抱えていた。今思えばそれは多分聖書だったのではないかと思うけれど、男は図々しくも私の隣に腰掛け、そう話しかけてきたのだ。

 「あなたは神を信じますか?」

 男はひどく痩せていて、青白い顔をしていた。四角い眼鏡をかけて、おそらくは全く男の関心の外なのであろう頭髪はボサボサで、着ているカッターシャツはひどくしわだらけだった。

 「いえ、全く」

 私はこう答えたはずだ。おそらく、男と会話をしたくはないという意志が明確にこもった口調で。

 「そうですか。それは残念です」

 男は確かそう言った。男はなぜ私に話しかけてきたのだろうか。その時、何のために九号館ピロティにひとり腰掛けていたのかは記憶にない。おそらく、九号館で授業を受けている友達を待っていたのだろう。

 目の前を次々と学生が通り過ぎていく。髪の毛を緑色に染め、ギターケースを背負った男、ウインドブレイカーを羽織りテニスラケットを手にした女の子、買ったばかりのお弁当を教科書の上に載せ、両手で支えて歩いていく女の子。

 男は残念そうに去っていった。

 男は当時の私に何を見たのであろうか。

 白い雲は気持ちよさそうに空を泳いでいる。

 悔恨
 寂寥
 嫉妬
 憧憬

 様々な感情が流れる雲のようにゆったりと通り過ぎていった。

 ※※※※※※※

 「年末年始で人員配置の次に大切なことは何ですか?小田原店の大村さん!」

 「日別のレイアウト計画です!」

 「素晴らしい!その通り」

 現実の時間が私を鞭打つ。

 本部を出ると日はすでに傾いていた。駅前交差点の青信号は点滅を開始しようとしていた。私は足早に男が祈りを捧げていた場所を通り過ぎた。

 「あなたは神を信じますか?」

 「いえ、全く」

 夕陽に照らされオレンジ色に発光している聖イグナチオ教会に向かって、私はそう独りごちた。

【了】

 

 

 

 

 

 

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