「帰宅」(ショートストーリー)
「何処へ帰るの 海鳥たちよ
シベリアおろしの 北の海
私には 戻る 胸もない
戻る 戻る 胸もない
もしも死んだら あなた あなた泣いてくれますか
寒い こころ 寒い
哀しみ本線 日本海、、、」
なんだか、聞き覚えのある演歌が鼓膜を震わせる。
夜10時半の内房線。ボックス席にひとり腰掛けていた。ストロング酎ハイのアルコールが全身を駆け巡る。僕は今日も、酒の力を借りて、束の間の逃避空間にいた。
がたん、ごとん、がたん、ごとん
車両がレールの上を滑る音に紛れて、その演歌のメロディは聴こえてきた。
一日の仕事を終えて、家路に着くために乗車している多くのサラリーマンを飲み込んだ車両。
演歌のメロディは、いくぶん気怠い空気が漂うその空間に、妙にマッチしていた。車両の端から端まで聴こえているに違いないボリュームだったのにもかかわらず、誰も微動だにしない。
ある者はスマホの画面から目を離さず、ある者は連れとの会話に耽り、またある者は眠っていた。いつもと変わらぬ車内の風景だった。ただ、そこに演歌が流れている以外は。
(一体、誰が音を流しているのだろう)
僕は周りをきょろきょろと見回す。
果たして、斜め後ろのボックス席に腰掛けている男性を見つけた。
何日も洗っていないような長い髪がワカメのようにびったりと張り付いていたせいで、その男の顔の表情はよく分からなかった。
ワカメ髪の隙間から覗く口元には無精髭が伸び放題。身につけた灰色のジャージの上下には、茶色く汚れたシミのようなものがいたるところに付いていた。
年齢は、70代くらいだろうか?
ワカメ髪と無精髭のせいで老けて見えたのかもしれないが。
その男は、使い古してぼろぼろになったリュックサックを脇に置いていた。どう見ても、ホームレスに近い身なり。しかし、演歌を流していたのは間違いなくその男だった。
男は、目の前にあるタブレットの画面に釘付けになっているようであった。
(ホームレスなのにタブレット!)
森昌子の「哀しみ本線日本海」。
タブレットの画面を見つめながら、その曲をじっと聴いている。イヤホンもヘッドホンもせず、車両中に聞こえる音量で。
しかし、乗客の誰もその男に文句を言う気配はない。各々が各々の世界に入りこみ、その男に関心を持つ乗客は皆無だった。
やがて内房線は、終点の千葉駅九番ホームに滑り込む。乗客が列をなして、長方形の箱から、ぞろぞろと吐き出されてゆく。
しかし、演歌を流している男はその場所を動かない。決して動こうとしない。
音楽は、いつのまにか、違う演歌に変わっていた。聴いたことのない曲だった。
僕はその車両の乗客が全て降車するのを見届けてから、最後にその車両を出た。
電光掲示板の表示が、千葉から「回送」に変わる。
男は、まだ動かない。そこに居座り続ける。まるで自分の部屋であるかのように。
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