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馬寅初,陳雲,薄一波

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馬寅初(1882-1982)を中心。陳雲(1905-1995)、薄一波(1908-2007)も扱う。
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#蔡元培

Cai Yuanpei 蔡元培 1863-1940

By Amy Tikkanen Britannica  1863年1月11日浙江省山陰(今日の紹興)生まれ。1940年3月5日香港で亡くなる。教育家にして革命家。北京大学校長(1916-1926)。同大学が、中国における、民族主義と社会改革という、新たな精神の発展において主要な役割を演じた決定的な時期に北京大学校長を務めた。 蔡は1890年にもっとも高位の科挙に合格し、帝国の試験制度の歴史の中で最も若い有資格者の一人になった。1904年に彼は、革命団体であり清王朝の転

蔡元培,馬寅初,胡適について

                             福光 寛 この10年ほど中国のことを考えてきて、最近この3人のことを考えるようになった。ただまだまだ資料を読み足らないし、分野が違うこの3人を比較するのはかなり大変な作業だが。ここでは問題意識だけ述べる。(写真は湯島聖堂の孔子像。) 馬寅初(マア・インチュ 1882-1982)は財政学者としてよりは、人口論で毛沢東と対立して北京大学校長をやめさせられたことで有名だが、蒋介石統治下の中国で蒋介石批判をして

蔡元培 北京大学での経験 1912-1919

蔡元培《我在北京大學的經歷》載《蔡元培自述 實庵自傳》中華書局2015 pp.11-31 esp.11-14, 26-27 教育部長として示した大学の在り方についての見解(1912年)、陳独秀を文科学長に起用した顛末(1916年末)、元培学長就任時の北京大の様子(1917年初)、五四運動時の学生運動への対応(1919年)などの部分を抄訳する。歴史上、大変重要な記述であることはあまりに明白である(写真は東京大学本郷キャンパス)。 p.11 北京大学の名称は民国元

1915-1920年の馬寅初 北京から上海へ

 馬寅初が米コロンビア大学で、論文The Finances of New York City で哲学博士の学位を得たのは1914年6月。彼は1882年6月生まれなので、そのときちょうど満32歳である。その後、彼は1914年12月に米国を離れ1915年初めに上海に到達している。今回はとりあえず、北京で北京大学に職を得てから1919年五四運動で不眠症となりダウン。1920年に休職して、上海で元気を取り戻すところまでをみる。  徐斌 馬大成編著《馬寅初年譜長編》商務印書館2012年

蔡元培 北大校長就任演説 1917

 蔡元培は渡欧してフランスにいたときに、北京大学校長就任の要請を教育部から電報で受けて帰国した(写真は東京大学本郷キャンパスにて安田講堂)。多くの友人は北京大学の腐敗はひどくとても整頓できたものではないと、就任に反対したが、少数の友人は、誰かが整頓せねばならないとして、我を抑えて整頓を試みることを勧めた。自分はこの少数の友人の勧めに従い、北京に向かったとしている。(蔡元培《我在教育界的經驗》載《蔡元培自述 實庵自傳》中華書局2015年pp,3-43, esp.39)

馬寅初と五四運動 (鄧加榮2006)

鄧加榮《我國經濟學泰斗 馬寅初》中國金融出版社2006年pp.25-26(写真は水道橋から神田川沿いに「お茶ノ水坂」をあがるところ。右手に見えるオブジェは神田上水の懸樋を示している。) p.25 過去においては官僚政客たちに支配(把持)されていた北京大学、多くの人により、この京城の最高学府は、官位を上がり(昇官)、入省(入部)、国会入りの階段(階梯)とされ、多くの教員は行政省庁(官府的門)に一方の足を置き、他方の足は官学の組織(官学衙門的門)に置いて、空いた時間に馬