マガジンのカバー画像

馬寅初,陳雲,薄一波

38
馬寅初(1882-1982)を中心。陳雲(1905-1995)、薄一波(1908-2007)も扱う。
運営しているクリエイター

記事一覧

計劃生育 中国経済用語

易富賢《計劃生育:無功於當代,有害於千秋》來源:共識網2014-09-24 轉載:共產黨宣言2014-10-06 国家卫健委回应取消计划生育建议:不宜全面删除 2019-02-12  中国の一人っ子政策は1982年9月に基本国策とされたが、中国は1990年代に入り出生率の低下を経験。21世紀にはいると人口の高齢化などの副作用が意識されるようになった。2013年には一人っ子の親についてふたりっ子を認めるようにしたが、計画生育そのものへの批判は収まらず2015年には人口学

陳寅恪への批判と陳寅恪による不開講の申し出 1958年7-8月

 歴史家陳寅恪(チェン・インコウ 1890-1969)が学内での批判のターゲットにされたのは1958年7-8月。これは時期としては、1957年6月から始まるいわゆる反右派闘争から1年遅い。他方、馬寅初(マア・インチュ 1882-1982)の人口論に対する批判は、ほぼ同時期1958年に始まるが、収束せず翌1959年にpeakに達するほど長く続き、最後は1960年に馬寅初の北京大学校長辞職を招いた(見出し写真は1957年陳寅恪自宅での講義の様子である)。  これと比較して、陳寅恪

謝錦華「非北大哲学系不読」2012/10

標題の直訳は「北京大学哲学系で学んでないこと以外について」。ややひねくれた題目だが(多分、遊びで付けた題目で)、素直に書けば「北京大学系で学んだこと」。『青春歳月在北大ー哲学系1957級同学回憶録』社会科学文献出版社2012年10月pp.144-145  1955年、私は故郷の「合肥一中」を卒業した。同学は現在合衆国の有名中国人「楊振寧(訳注 1957年ノーベル物理学賞受賞。1964年米国国籍取得。2003年から清華大学に長期滞在。2015年米国国籍放棄。その政治的発言には

陳雲 ソビエトに向かうため上海へ 1935年6-8月

 この1935年にソビエトに向かう「旅行」は、国民党軍の包囲を破り、その支配地域を抜けてゆくものであり、陳雲は中共の最高幹部の一人であり、国民党軍に逮捕されるリスクは高かった。その中で敵地に深く進入して、ソ連への渡航を実現している。これは実現するオペレーション能力が、共産党側にあったということ。具体的には秘密党員のネットワークが存在し、多くの共産党協力者が国民党の陣地の側にいたこと。結果として、国民党(蒋介石)の側は、陳雲のソビエト「旅行」を阻止できなかった。葉永烈は、陳雲の

陳雲 「包産到戸」を毛沢東に進言 1962/07/09夜

1962年。この年、「7000人大会」があり大躍進政策の失敗が確認された。ただ大会は毛沢東の責任を十分追及しないまま終わった。そして毛沢東と劉少奇との間の矛盾対立は次第に拡大する。焦点は大飢饉を生み出した農業で、集団化政策の誤りを認めるかどうか。問題は明らかだったので、周囲の人々が次々に毛沢東説得を試みる。7月9日夜の陳雲による毛沢東への報告は、こうした動きの一つである。説得に失敗した陳雲は、治療を名目に蟄居を選択している。葉永烈『歴史的注脚』中華書局2014年6月pp.28

Cai Yuanpei 蔡元培 1863-1940

By Amy Tikkanen Britannica  1863年1月11日浙江省山陰(今日の紹興)生まれ。1940年3月5日香港で亡くなる。教育家にして革命家。北京大学校長(1916-1926)。同大学が、中国における、民族主義と社会改革という、新たな精神の発展において主要な役割を演じた決定的な時期に北京大学校長を務めた。 蔡は1890年にもっとも高位の科挙に合格し、帝国の試験制度の歴史の中で最も若い有資格者の一人になった。1904年に彼は、革命団体であり清王朝の転

Hu Shih 胡適 1891-1962

胡適 Britannica Kids  中国語の記述writingは、外交官であり学者である胡適により革命が行われた。その(革命の)ときまですべての尊敬される中国語文献literatureは、古代の古典のスタイルで書かれていたが、それはラテン語が英語と違うように、口語のspoken中国語とは異なった言語だった。胡適は、現代的で日々の会話を反映した口語体the vernacularの成立にーそれを中国の公的な書き言葉にすることに、貢献したのである。彼はまた指導的な政治的自由

Chen Yun 陳雲 1905-1995

陳雲 Chineseposters.net  陳雲は、彼が中国共産党の歴史の実質的に全時期にわたりその政策決定の中心にいたことだけからでも、中国の指導者の中で最も影響力と権力があった一人とみなすことができる。彼は1931年から1987年の間、中央委員会に在籍した。政策決定の中枢(Politburo)に40年以上である。組合組織者としての地下活動のあと、陳は長征(1934-1935)に参加した。モスクワの派遣された(a stint)の後、彼は1937年に延安に戻り、そこで自身

蔡元培,馬寅初,胡適について

                             福光 寛 この10年ほど中国のことを考えてきて、最近この3人のことを考えるようになった。ただまだまだ資料を読み足らないし、分野が違うこの3人を比較するのはかなり大変な作業だが。ここでは問題意識だけ述べる。(写真は湯島聖堂の孔子像。) 馬寅初(マア・インチュ 1882-1982)は財政学者としてよりは、人口論で毛沢東と対立して北京大学校長をやめさせられたことで有名だが、蒋介石統治下の中国で蒋介石批判をして

蔡元培 北京大学での経験 1912-1919

蔡元培《我在北京大學的經歷》載《蔡元培自述 實庵自傳》中華書局2015 pp.11-31 esp.11-14, 26-27 教育部長として示した大学の在り方についての見解(1912年)、陳独秀を文科学長に起用した顛末(1916年末)、元培学長就任時の北京大の様子(1917年初)、五四運動時の学生運動への対応(1919年)などの部分を抄訳する。歴史上、大変重要な記述であることはあまりに明白である(写真は東京大学本郷キャンパス)。 p.11 北京大学の名称は民国元

1915-1920年の馬寅初 北京から上海へ

 馬寅初が米コロンビア大学で、論文The Finances of New York City で哲学博士の学位を得たのは1914年6月。彼は1882年6月生まれなので、そのときちょうど満32歳である。その後、彼は1914年12月に米国を離れ1915年初めに上海に到達している。今回はとりあえず、北京で北京大学に職を得てから1919年五四運動で不眠症となりダウン。1920年に休職して、上海で元気を取り戻すところまでをみる。  徐斌 馬大成編著《馬寅初年譜長編》商務印書館2012年

蔡元培 北大校長就任演説 1917

 蔡元培は渡欧してフランスにいたときに、北京大学校長就任の要請を教育部から電報で受けて帰国した(写真は東京大学本郷キャンパスにて安田講堂)。多くの友人は北京大学の腐敗はひどくとても整頓できたものではないと、就任に反対したが、少数の友人は、誰かが整頓せねばならないとして、我を抑えて整頓を試みることを勧めた。自分はこの少数の友人の勧めに従い、北京に向かったとしている。(蔡元培《我在教育界的經驗》載《蔡元培自述 實庵自傳》中華書局2015年pp,3-43, esp.39)

馬寅初と五四運動 (鄧加榮2006)

鄧加榮《我國經濟學泰斗 馬寅初》中國金融出版社2006年pp.25-26(写真は水道橋から神田川沿いに「お茶ノ水坂」をあがるところ。右手に見えるオブジェは神田上水の懸樋を示している。) p.25 過去においては官僚政客たちに支配(把持)されていた北京大学、多くの人により、この京城の最高学府は、官位を上がり(昇官)、入省(入部)、国会入りの階段(階梯)とされ、多くの教員は行政省庁(官府的門)に一方の足を置き、他方の足は官学の組織(官学衙門的門)に置いて、空いた時間に馬

魯迅と馬寅初の不和について 2018

 同じ浙江紹興の出身であり、年齢も1歳差とほぼ同じであったこの二人の仲が悪かった話は有名だ。  掲祕魯迅和馬寅初爲什麽關係不好 2018/01/28 atoomu.com 2022年4月29日リンク切れ確認)による。  その理由の一つに上げられているのが、馬が正妻のほかに、2番目の若い妻を迎えていることを魯迅が嫌ったという話である。ただ当時、正妻のほかに妻がいることは違法ではなく、馬の伝記を調べると、正妻に男の子ができなかったのでという事情があるようだ。正妻そして副妻と終生仲