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陳独秀、胡適、顧准

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陳独秀(1879-1942)を中心。胡適(1891-1962)、顧准(1915-1974)も扱う。
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2020年5月の記事一覧

蔡元培 北大校長就任演説 1917

 蔡元培は渡欧してフランスにいたときに、北京大学校長就任の要請を教育部から電報で受けて帰国した(写真は東京大学本郷キャンパスにて安田講堂)。多くの友人は北京大学の腐敗はひどくとても整頓できたものではないと、就任に反対したが、少数の友人は、誰かが整頓せねばならないとして、我を抑えて整頓を試みることを勧めた。自分はこの少数の友人の勧めに従い、北京に向かったとしている。(蔡元培《我在教育界的經驗》載《蔡元培自述 實庵自傳》中華書局2015年pp,3-43, esp.39)

蔡元培 北京大学での経験 1912-1919

蔡元培《我在北京大學的經歷》載《蔡元培自述 實庵自傳》中華書局2015 pp.11-31 esp.11-14, 26-27 教育部長として示した大学の在り方についての見解(1912年)、陳独秀を文科学長に起用した顛末(1916年末)、元培学長就任時の北京大の様子(1917年初)、五四運動時の学生運動への対応(1919年)などの部分を抄訳する。歴史上、大変重要な記述であることはあまりに明白である(写真は東京大学本郷キャンパス)。 p.11 北京大学の名称は民国元

北京大学校長としての胡適 1946-48

解題                           福光 寛    胡適が北京大学校長として北京に入ったのは1946年7月末の事。しかし当時の中国は、通貨膨張から大規模なインフレに見舞われ、学生・教師・職員いずれも、生活苦に陥るものが少なくなかった(写真は水道橋から神田川を御茶ノ水方面をみたもの。右上にJRの架線だ見える。)。全国で反飢餓反内戦を掲げた学生運動が盛り上がりを見せた。学生運動に批判的な胡適であるが、この運動に同情を隠せなかった。もう一つここで注目した

蔡元培,馬寅初,胡適について

                             福光 寛 この10年ほど中国のことを考えてきて、最近この3人のことを考えるようになった。ただまだまだ資料を読み足らないし、分野が違うこの3人を比較するのはかなり大変な作業だが。ここでは問題意識だけ述べる。(写真は湯島聖堂の孔子像。) 馬寅初(マア・インチュ 1882-1982)は財政学者としてよりは、人口論で毛沢東と対立して北京大学校長をやめさせられたことで有名だが、蒋介石統治下の中国で蒋介石批判をして

反対党容認を求めた胡適 1946/07-48/12

解題                             福光 寛  任育徳《胡適 晚年學思與行止研究》稻鄉出版社·2018年pp.149-155,esp.153-155 このときの胡適は、北京大学校長であるとともに、中華民国の代表的言論人の一人であった(写真は礫川公園より東京都戦没者霊苑を望む)。  国民党は学生運動の「非政治化」に失敗。学生運動を抑え込む政策に転換し学生の反発を買った。他方、共産党が進める統一戦線に加わる学生は少なくなかった。  1947年夏時

胡適,蔡元培と五四運動 (周海波2005)

 周海波《胡適 新派傳統的北大教授》中國長安出版社2005年,pp.63-69 以下で周海波は、胡適の学生運動一般に対する見解は、五四運動からちょうど1年後の1920年に蔣夢麟と共著で発表した文章に現われているとしている(写真は湯島聖堂)。果たしてそうかどうか。示されている学生運動に対する批判は、憂国の学生の心情は議論せずに、学生は学窓にとどまらねば授業を受ける権利を放棄することで損をしているだけだと説く。胡適の議論はかなり薄情にみえるがこの周海波の理解でいいのかどうか。他方

陳独秀 民主主義の正しい評価 1940/07

《陳獨秀 給連根的信(1940年7月31日》載《蔡元培自述 實庵自傳》中華書局2015年pp.181-183 陳独秀という人の最晩年、民主主義がまず重要であることを主張して、当時のスターリン、ヒットラー、ムッソリーニの独裁体制を批判。また民主主義のない社会主義には、何の意味もないと喝破。レーニン=スターリンが掲げた無産階級民主主義は、党の独裁にほかならない点で、民主主義の内容がなく、空虚だと徹底的に批判している。こうした陳独秀の議論は、近年、陳独秀の議論が再検討される中

陳独秀 民主主義は人類の発明 1940/09

《陳獨秀 給西流的信 1940年9月》載《蔡元培自述 實庵自傳》中華書局2015年pp.185-192,esp.189-190 (写真はツツジ。肥後細川庭園にて2020年5月31日) p.185 西流兄身辺の方へ:数日前に一筆差し上げ、それに付随して超麟兄から手紙が寄せられたが、すでに見られたであろうか。七月二十一日の手紙は守一兄の手紙がすでに読まれたことを示している。病気のために兄からの手紙にすぐに返事はできないが、同様のことである(今猶如此)。(この手紙は書き続け

陳独秀 反対党の自由と議会 1940/11

《陳獨秀 我的根本意見(1940年11月28日)》載《蔡元培自述 實庵自傳》中華書局2015年pp.193-198,esp.194-195(写真は肥後細川庭園) p.194 (八)民主主義はおのずと人類が生み出した政治組織であり、政治が消滅するまでも、各時代(ギリシア、ローマ、近代から将来の)多数の階級人民は少数特権の旗幟に反抗した。”無産階級民主”これは空っぽの名詞ではない、その具体内容は資産階級民主と同様に、全ての公民に全員に、集会、結社、言論、出版、罷業の自由を求める

顧准 科学と民主 哲学上の多元主義 1973年春

顧准《從理想主義到經驗主義》光明日報出版社·2013年pp.109-113. ここで顧准(グウ・ジュン 1915-1974)は、科学技術と民主主義との関係について、科学精神がすべてのベースになることを主張、また科学精神の別の表現が、哲学上の多元主義だと述べ,それをさらに政治上に及ぼすことを主張している。(写真は占春園で見かけたヒメジョオン。2020年6月6日)  顧准 レーニンの誤り 1973/04 p.109  科学と民主  一、科学精神の上に立脚した民主だけがしっかり頼

顧准 直接民主と議会清談館(中) レーニンは独裁をもたらした 1973/04/20

 顧准《從理想主義到經驗主義》光明日報出版社2013年pp.125-128の訳文である。  顧准(グウ・ジュン 1915-1974)は以下でまずカウツキーとレーニンを対比して、革命を達成した点でレーニンを評価している。しかし続けて、レーニンのやり方がスターリンの独裁を導いたとする。ではどうすべきか。顧准は米国の政治史を引いて、革命後、米国のように政権が交代しうる形を取れば、ソ連で生じた多くの弊害は避け得たとしている。顧准は権力を取るうえで、レーニンを肯定。しかし権力掌握後は、

顧准 資本主義も変わった 帝国主義と資本主義(下) 1973年5月8日

 顧准《從理想主義到經驗主義》光明日報出版社2013年pp.103-107を翻訳したもの。手元にある《顧准文集》民主建設出版社2015年pp.257-261も参照している。  日本では、中国の経済学者、顧准(グウ・ジュン 1915-1974)はほとんど知られていない。しかし、かれの到達した知的水準がかなり高いことが、以下の翻訳からもうかがえるだろう。学問的に不毛であった文化大革命が終わる時期、ただ一人病躯に鞭打って北京図書館に通い詰め、資本主義や民主主義の本質を理解しようとし

顧准「 資本主義がなお生命力を有する原因はどこにあるのか」1973/05/09

顧准《從理想主義到經驗主義》光明日報出版社2013年pp.107-108 顧准(グウ・ジュン 1915-1974)について驚くのは、1973年―世界から孤立していた中国で、ここまで幅広い知識で、資本主義の生命力を見ていた人物がいたということだ。顧准は資本主義の生命力の源を批判の自由にもとめている。また批判を受けての改良を通じて、資本主義は少なくとも昔の資本主義とは異なったものになっている。それを顧准は資本主義の滅亡だとさえ言っている。(写真は文京シビックセンター) p.10