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陳独秀、胡適、顧准

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陳独秀(1879-1942)を中心。胡適(1891-1962)、顧准(1915-1974)も扱う。
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#福光寛

北京大学校長としての胡適 1946-48

解題                           福光 寛    胡適が北京大学校長として北京に入ったのは1946年7月末の事。しかし当時の中国は、通貨膨張から大規模なインフレに見舞われ、学生・教師・職員いずれも、生活苦に陥るものが少なくなかった(写真は水道橋から神田川を御茶ノ水方面をみたもの。右上にJRの架線だ見える。)。全国で反飢餓反内戦を掲げた学生運動が盛り上がりを見せた。学生運動に批判的な胡適であるが、この運動に同情を隠せなかった。もう一つここで注目した

胡適「陳独秀の最後の論文と手紙」序文

解題                           福光 寛  これは、胡適《陳獨秀最後論文和書信序》載《蔡元培自述 實庵自傳》中華書局2015年,pp.161-173の翻訳である。この序文には日付けがあり、1949年4月14日夜 太平洋船上とある。中国がこのときどのような状態にあったか、胡適(1891-1962)が太平洋上でどのような旅にあったかも重要である。彼は駐米国連大使として赴任するため、上海からサンフランシスコへの航路にあった。すでに共産党との内戦で国民党の敗

蔡元培,馬寅初,胡適について

                             福光 寛 この10年ほど中国のことを考えてきて、最近この3人のことを考えるようになった。ただまだまだ資料を読み足らないし、分野が違うこの3人を比較するのはかなり大変な作業だが。ここでは問題意識だけ述べる。(写真は湯島聖堂の孔子像。) 馬寅初(マア・インチュ 1882-1982)は財政学者としてよりは、人口論で毛沢東と対立して北京大学校長をやめさせられたことで有名だが、蒋介石統治下の中国で蒋介石批判をして

反対党容認を求めた胡適 1946/07-48/12

解題                             福光 寛  任育徳《胡適 晚年學思與行止研究》稻鄉出版社·2018年pp.149-155,esp.153-155 このときの胡適は、北京大学校長であるとともに、中華民国の代表的言論人の一人であった(写真は礫川公園より東京都戦没者霊苑を望む)。  国民党は学生運動の「非政治化」に失敗。学生運動を抑え込む政策に転換し学生の反発を買った。他方、共産党が進める統一戦線に加わる学生は少なくなかった。  1947年夏時

トロッキーと陳独秀ー独裁批判での共鳴

トロッキーと陳独秀-独裁批判での共鳴                                 福光 寛  トロッキ―の「永続革命論」2008年3月現代思潮新社;「中国革命論」同左を読んだ。いずれも現代思潮社からかつて出されたものの復刻出版。前者は1969年、後者は1961年の出版。後者は「10月の教訓」という本と併せて1冊になっている。陳独秀とトロッキーの間で交流があったことは、陳独秀の側にトロッキー宛書簡がでてくることから伺えたが、こちらの「中国革命論」に

任建樹「陳独秀の最後の見解」2008年1月

解題                             福光 寛  以下は任建樹《陳獨秀的最後見解》載《陳獨秀與近代中國》上海人民出版社2016pp.184-188の翻訳である。なおこの任の記事は《社会科学報》2008年1月17日からの採録である。任建樹(1924-2019)は陳獨秀著作選の編集にあたった人物として知られる。以下の文章は任が83歳のときのもの。2019年11月に任は亡くなった。任が陳独秀の研究を長年続けたことの意義については、南京財経大学の石鐘揚が、毎日