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胡耀邦 中央軍事委員会総政治部組織部部長に就任 1939/第二次大戦後 病に倒れる 1946/03

 胡耀邦伝 人民出版社2005年 86-101
 蕭一平 延安整風運動-回憶與研究 中央文獻出版社2012 
 陳利明 胡耀邦上巻 修訂版 人民日報出版社2015 79-95
 満妹 回憶父親胡耀邦上巻 天地図書2016 99-112  

 1939年3月。胡耀邦は毛沢東の指名により中央軍事委員会総政治部組織部副部長に就任。総政治部主任は王稼祥、組織部長は方強。王稼祥は遵義会議で毛沢東を支持して、毛沢東の指導権確立に貢献。腹部に重傷を負ったまま長征にしたがい、その後、ソ連で治療を受けて1938年8月に帰国。組織部長の方強は華北工作に従事していたため、胡耀邦が組織部長を代理することになった。組織部は幹部の評価(胡耀邦伝では考察とあるが考査ではないか?)任免移動を扱う重要部門。戦地の拡大,新根拠地の建設などで幹部の派遣移動は頻繁だった。胡耀邦は幹部の状況、経歴、特徴の理解に努めたほか、規則の制定、推薦名簿、規則違反幹部の調査、前線からの幹部の接待、上級指導者との接見の案内などその業務は十分繁忙かつ重要であった。このことにより胡耀邦は多くの軍人の知己を得たほか、組織工作の特徴と規律を深く学んだ。40年後、混乱した局面で中央組織部長として公明正大かつ果断(魄力)にふるまえたのは、このときの経験が生きたのである。
 王稼祥は胡耀邦の仕事ぶりに満足であり、毛沢東はそれなら正部長をさせようとと発言。間もなく胡耀邦は組織部部長となった。この時期に胡耀邦は、中央華北華中委員会、中央青年工作委員会などにも一人の委員として参加して活動している。
  1942年2月から1945年4月に至る時期は、一面で整風運動が延安で吹き荒れた時期であった。とくに中央社会部部長の康生によって、特務分子とされるものが大量に摘発された。胡耀邦は自身の経験(AB団として粛清されかけた経験)から、そこに相当数の冤罪が含まれていると考えた。
 たまたま整風運動の直前の1941年11月、彼は延安中国女子大学の卒業生李昭と結婚していた。この自ら100%信じた李昭が抢救と呼ばれる、尋問に巻き込まれたことから、すべては逼供信と呼ばれる、自白のみを迫る方法がひきおこした冤罪ではないか、という思いを強くする。胡耀邦は自身の総政治部では、証拠なしに自供を迫ってはならない、などの政策を立てている。そして最後は、毛沢東に対しての報告の際に、抢救運動についての自身の意見を具申している。ほどなく抢救運動停止の指示が毛沢東から出されたと陳利明は述べている。(AB団問題で自身冤罪で命を失いかけた経験、そして整風運動で信頼する妻に降りかかった嫌疑の問題、こうした経験を経て胡耀邦は、いわゆる思想闘争に問題を感じるようになったのではないか?)
   (胡耀邦は中央軍事委員会で自白や抢救などの運動を一切行わず、康生に抵抗したと記録されている。1943年7月2日毛沢東は康生に書簡を送り逼供信は誤った路線だとし、8月15日に党中央は左傾拡大傾向を正す文書を出している。またその後も講和の中で整風運動中の誤りの責任は自分にあったとしている。蕭一平  28-29)
    (延安には1万ほどの知識分子が入った。大量の知識人を軍隊にいかに吸収するかは大きな問題で組織部長の胡耀邦の手腕も問われた。忍耐、規律や実践の重視、工農幹部を尊敬することなどを訓令として王稼祥は出している。これに対して胡耀邦は、訓令を尊重しつつ、文化知識や科学技術がなければ中国革命の勝利もないと口癖のように言った。専門家には物質的に配慮する、政治学習を強制しない、といった軍事委員会指示も存在した。これは胡耀邦が出したのであろうか?)
   (なお王稼祥の奥さんの朱仲麗女士は王家と胡家は隣通しで、洞穴住宅はみかけほど快適でなく、さらに仕事のあとに麻雀をしたとする。また王家と胡家は互いに行き来が頻繁であり、王稼祥が胡耀邦が自分より政治書はよく読んでおり、優れているのは知識を実際と結びつけるところだと胡耀邦を賞賛したことを明かしている。また朱仲麗は将棋を胡耀邦に教えたこと、以来、胡耀邦としばしば将棋を指したとする。陳利明 81-83)
 1942年11月、胡耀邦、李昭は第一子(胡徳平)を得ている。
 1945年8月15日の日本の無条件降伏を経て10月10日。国民党と共産党は全面停戦の「双十協定」を結ぶ。ただこのとき、共産党、国民党双方は東北地方をめぐって激しく争う形勢にあり戦火は収まらなかった。胡耀邦は1945年2月に第二子をえたばかりであったが、このような情勢に東北への進軍に加わることを毛沢東に願いでた。毛沢東の許しを得た胡耀邦は、李昭と相談。第二子は、延安の農民(合作社主任)劉世昌に預けて1945年11月東に向けて出発する(満妹は10月末で政工幹部と医科大学学生の5-600人の隊で多くは戦闘経験のないひとたちだった。途中で国民党軍と戦火を交えることになったが、胡耀邦の采配で切り抜けたとする)。12月に胡耀邦たちは承徳に入る。
 ここで思いがけないことが生じる。国民党軍の布陣により東北(遼寧)入りをはばまれる一方、1946年1月10日。米国の介入により停戦協定が成立。
 ここで胡耀邦は冀热辽チールーリアオ军(冀熱遼軍)区政治部主任となった。しかしここで胡耀邦は病に倒れてしまう(1946年3月)。承徳の日本人医師のアドバイスで、彼は前線から北京に飛行機で運ばれ治療を受けることになった。肝炎だった。ただその症状は一進一退。4月彼は指令部のある張家口に向かう。軍区の指導者葉剣英は、前線の勤務に堪えないとみて、張家口の白求恩医大付属医院で治療の継続を勧めた。ここでも胡耀邦は稗田教授と呼ばれる日本人医師と交流している(このような日本人医師との度重なる交流は彼の日本人観になにがしか影響をあたえたのではないか?)。
 病から癒えた胡耀邦の仕事への復帰は1946年7月。新たなポストは晉察冀チンチャーチ軍区の晉察冀野戦軍第四縦隊政治委員である。なおこの間に1946年6月 国民党軍は各解放区に大規模に侵攻。解放戦争が正式に始まっている。

#胡耀邦 #整風運動 #毛沢東 #王稼祥




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