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Bertrand Russel 1872-1970 ラッセル 中国問題(1922)

バートランド・ラッセル By John Simkin
Cited from spartacus-educational.com

 Bertrand RussellはMontmousthshireのTrellechで1872に生まれた。彼の両親は彼がとても若い時に亡くなり、彼は、自由党の元首相John Russellの未亡人である祖母に育てられた。Trinity CollegeそしてCambridgeで彼は数学と哲学で成績がトップだった。
 大学(卒業後)のベルリン訪問は彼の最初の本『ドイツの社会民主党』(1896)を産んだ。これに数学的論理と哲学についての極めて重要な本である『数学原理』(1903)と『princia Mathematica』(1910)が続いた。
 1907年に女性の選挙権の男性支持者グループは、女性の選挙権のための男性連盟を結成した。ラッセルは、Henry Nevinson, Laurence Housman, Charles Corbett, Henry Brailsford, C.E.M. Joad, Israel Zangwill, Hugh Franklin, Mansell-Maullinらとともに参加した。そのため演説を行い、新聞に論説記事を書き、(さらに)当選しなかったもののWimbledonで議会選挙に、女性選挙権主義の候補として立候補した。
 ラッセルはまたフェビアン協会のメムバーだった。(中略)
 ラッセルは社会主義者になった。1914年に彼はLady Ottoline Morrellに自身の政治的立場を書いている。「社会主義者が世界の希望であることははっきりしている。彼らは戦争の間に重要さを増した。私が哲学でさらになしうることに私の関心はない、また(それは)世界でこれから起こるであろうことに比べつまらないことに思える。私は大学生活の安全を確保された静けさに耐えられない。私は戦いたいし、何かをしたいと強く感じる。」
 ラッセルは平和主義者のClifford Allenと密接な関係になった。第一次大戦が勃発して間もなく、ラッセル、AllenそしてFenner Brockwayは、徴兵制導入に反対する世論活動を企画する組織である徴兵拒否連盟(NCF)を結成した。(中略)
 ラッセルはもともとロシア革命を歓迎していた。彼は平和主義者とは異なり、暴力の使用を弁護した。ラッセルはもしも「暴力が、政府の悪い制度を取り除き、戦争と政府不正despotismとを終わらせ、抑圧されている人々に自由をもたらすことになるなら」(暴力は)道徳的に受け入れ得る、と信じた。(第一次大)戦後、ラッセルはロシアを訪問した。そしてレーニンとレオン・トロッキーに面会後、共産主義にとても批判的な『ボリシェビズムの理論と実践』(1919)という本を書いた。
 英国に1921年に戻ったとき、Dola Blackがラッセルとの結婚を受け入れた。続く数年間、ラッセルは学校問題にますます関心をもち、1926年に『教育について』を出版した。1927年に二人は彼ら自身の進歩的寄宿学校をBeacon Hillに開いた。その学校は、子供たちは厳格なアカデミックカリキュラムに従うことを強制されてはならないというラッセルの見解を反映したものだった。
 (中略)
 1926年にラッセルは二人のアメリカ人アナーキストNicola SaccoとBartolomeo Vanzettiの命を救う国際的な世論活動に加わった。多くの人が二人は誤って殺人の罪wを着せられたと信じた。ラッセルは「私は、彼らの政治的意見のため有罪とされたと結論せざるを得ない」と書いた。(しかし)彼の努力にもかかわらず、二人の死刑は1927年8月23日執行された。
 ラッセルは長兄からラッセル男爵三世を1931年に引き継いだ。(上院議員になった)彼は上院の会合を、平和主義についての自らの見解を普及するのに使った。彼はまた自由恋愛を鼓吹する彼の本『結婚と道徳』(1932)で論争を引き起こした。のちに彼は、宗教と道徳の敵とみなされてNew York City Collegeのポストを解雇された。
 (中略)
 彼の友人Clifford Allenと同じく、1930年代後半におけるナチスドイツにおけるアドルフ・ヒットラーの台頭とともに、彼は平和主義者であることを辞めた。Cambridge大学での彼のフェローシップ(有給のポスト)が復活された。1949年、最初のBBC Reith Lecturesへの就任は彼の地位の確立を反映している。翌(1950)年ラッセルはノーベル文学賞を受けた。
 (以下略)

以下は みすず書房 バートランド・ラッセル。ラッセルは1920年にロシアを、1921年には中国、そして日本を訪問している。ほぼ同時期にこの三国を訪問しているデユーイと比較して、とくにロシア観は大きく違っているように思える。彼の政治観を知るうえでは、戦後の「民主主義とは何か?」(1953)なども参考になる。

Books by Bertrand Russel 1872-1970(Project Gutenberg)
 The Practice and Theory of Bolshevism 1st ed. in 1921 
 The Problem of China 1st ed. in 1922

A Coversation with Bertrand Russel (1952)

pacifism
panacea:remedy
piety:deep devotion to God
propitious:favourable

Bertrand Russel remembers his face to face encounter with Vladimir Lenin, Open Culture,  April 30, 2010

Bertrand Russel,  Why I am Not a Communist

John Paisley, Bertrand Russel and China during and after his visit  in 1920, 2020

ラッセルと日本 Bertrand Russell and Japan 関係記事索引

What is Democracy? (1953)
Cited from Russell Society Home Page

Democracy and Direct Action (1919)
Cited from Russell Society Home Page

Education for a Difficult World (1953)
Cited from Russell Society Home Page

University Education (1959)
Cited from Russell Society Home Page


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