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徐友漁「文化大革命とは何であったか?(下)」

徐友漁「文化大革命是什么?」『中外学者談文革』中文大学出版社2018年pp.xxxvii-liを2回に分けて訳出する。今回は後半pp.xlv-li。

p.xlv         四 行為の動因
 文化大革命中の、学生、紅衛兵、造反派、保守派さらに各種大衆組織の狂熱的で道理で説明がつかない行動は、外部観察者や後世の人にとり理解しがたい謎だが。真剣に分析した後に分かるのは、それは文革前の政治教育と意識形態が
p.xlvi   もたらしたもの(灌输)、中国社会と政治体制の矛盾が爆発、毛沢東の巧妙に計画した謀略、この三種の要因が作り出した結果である。
    文革に積極参与した者の主たる動機(動因)は文革前の革命教育と政治がもたらしたものである。この種の教育は革命をこれ以上ない高さに置き、これとの関連において暴力を賞賛(颂扬)し、秩序を侮るもの。文革の間、最も広く伝えられ、もっとも頻繁に引用された毛の教えは、実のところ学生たちが国語のテキスト中でとてもよく知っていたものである。それは毛沢東が『湖南農民運動考察報告』で述べたものであり、「革命は飯をおごることではない、文章を書くことではない、絵を描くことでも花の刺繍をすることでもない、そのように雅であることはできなくて、落ち着いていることでも、雅に礼儀をわきまえていることでも、敬って省いて譲ることでもない。革命は暴動であり、一つの階級が別の階級をひっくり返す暴力的に激しい(暴烈的)行動である。」
 文革中、学生たちは暴力をふるうとき、心に躊躇があるとき、毛のこの教えで自らを励ました。暴力の使用で疑問を受けた時、これを用いて弁解した。1966年6月、北京大学の学生は『湖南農民運動考察報告』を根拠にして、校内に「闘鬼台」を設けて、官僚や教授に山高帽子を被せ、黒い札をかけさせ、顔を黒く塗って、拳をふるい足で蹴って闘争した。ある大学生は回憶で述べている、彼らは校長室に突き進むとき、心のなかになお躊躇があったが、『湖南農民運動考察報告』中の気勢を鼓吹するところに完全に助けられて、彼らは校長のところに行き、事務室を占領した。この時彼らを煽ったのは毛の『湖南農民運動考察報告』中の「若い娘や母親の歯の根元で、踏ん張って進むことができる。」(というフレーズ)であった。
 この種の教育は人道主義と人類のすべての自然で美しい感情を否定して、革命、党、闘争に置き換えている。文革前に最も広く流行した革命歌曲は言う、革命戦士は党を自分の母親がすることと比較する、その実、党は母親よりずっと良い、母親は身体をくれるだけだが、党の光輝は彼の一生を明るくするから。ある中学の校長はとても人を愛し愛される女性だった。文革が開始されるや彼女は学生に批判され殴打された。罪名は何と母を愛する教育を提唱し、教師に母親が子供を愛するように自身の学生に向こ求めた求めたことで、彼女は修正主義分子にされた。「無産階級政治に服務する教育」という党の教育方針を変えたとされた、と(批判された)。
 この種の教育の主要内容は階級闘争である。文革の間、紅衛兵のすべての残忍な行為は、すべて階級闘争の名義で進められた。彼らは被害者に対して全く気の毒だという気持ち(惻隠の情)を持たず、自身の先生を鞭で打ち、自身の同窓生に銃を向けた(开枪)、かれらを階級敵としたからである。ある女の紅衛兵は火が付いた爆竹を、両目がふさがれた「階級敵」の耳のそばで爆発させ、
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   文革中、個人と大衆組織の行為に影響した二つ目の要素は中国の政治身分制度である。中国の公民は、大中学学生は異なる等級に分けられていた。党員と(共産主義青年団)団員は明らかに非党員、非団員に優越していた。最も普遍的な身分差は家庭背景が源だった。「紅五類」と「黒五類」と言った言い方は、一種家庭背景にもとづく差別を反映している。前者は革命幹部、革命軍人など、後者は地主、富農などである。
 文革前、中学生の入党、入団、大学進学などの方面には激烈な競争が存在し、家庭出身は勝ち負けの鍵になる要素であった。文革は競争を虐待に変えた。運動が開始されると、「紅五類」出身の学生はその他の学生が運動に参加する権利を奪い、彼らを抑圧した。しかし彼らの伝統階級敵人に打撃を与えるやり方は、毛沢東の歓心を得られなかった。毛が今最初に打撃したいのは共産党の実権(当権)派だった。毛はこれらの「紅五類」紅衛兵は誤りを犯したと断定、抑圧されている学生を支持した。これらの毛沢東に「解放」された人が造反組織を作り、「紅五類」紅衛兵と対抗し、毛の支持のもと勝利した。
 都市の労働者やその他の人々の情況は学生と似ている。最初は政治面が良く家庭背景の良い人は党の指導のもと、伝統的階級敵人に打撃を与え、その他の人を抑圧した。後者は毛沢東の支持のもと、党組織とその支持者に反撃した。党委員会を支持するか反対するか、伝統的階級敵人を打撃するか、あるいは党内に侵攻した資産階級を打撃するかは、保守派と造反派を区分する者だった。明らかに保守派は現状維持を望み、彼らの現有の優勢地位を維持し守ろうとし、造反派は現状を変えようとする傾向があった。彼らは力づくで新たな政治標準を樹立した。すなわち、革命事業に最も脅威であるのは伝統的階級敵人ではなく、新たな形勢の下、毛沢東の党委員会と元々の積極分子に追随しないものたちである。彼らはすでに既得利益者と修正主義分子に変り果てている。
 もともと党に忠実で、命令を聞く党組織の大衆を、鎮圧させることで、生命の危険から造反させる。さらに毛沢東の策略があった。毛は狡猾で、彼は運動開始の5・6月に北京を離れ、劉少奇に工作を主持させた。劉と各クラスの党委員会は中共の一貫したやり方に従って、大中学校に工作組を派遣し運動を指導した。大衆の中は左派、中間派、右派とされた。言うことを聞かない人は右派あるいは反革命とされた。7月、大衆と党組織さらには劉との衝突が頂点に達した時、毛は突然北京に戻り
p.xlviii 党組織と劉が大衆を鎮圧したと非難し、彼は大衆を支持し、鎮圧され反革命とされた人を解放すると宣言した。容易に想像できるように、鎮圧されていた人はこの時、とても毛に感激し、劉と党組織をとても憎んだ。
 まさにSimon Leysが言うように、「毛が紅衛兵を動員し利用した方式は慈禧が義和団を操縦した方式と極めて似ている。彼は大衆に広がる不満を自身の敵に向けさせた、そしてこの不満は彼自身が作り出したものだった、もしさらに深く理解するなら、この不満は彼自身に向けられ得たものだと分かる・・・毛が立ちあげた官僚制は長期にわたって青年が不満と阻喪を感じる原因だった、彼らはいつでも爆発する状態にあった。毛に必要なことは、すべての事情を作り出すこと、すなわち彼の個人的な敵がこの制度の源を作ったして(実際は毛がはじめたことだが)、そのあとは広範な憤慨を彼らに向けさせ、彼らを引きずり下ろすことだった。」
 現在、この問題に正式に回答できる。文革とは何か?文革とは理想社会を実現するとのスローガンを唱えることを、大規模に大衆を動員する手段として、個人崇拝と集権を実行、反文化、反文明で法治を踏みにじる、独裁(専制)制度を強固に発展させる政治運動である。

       五 文革の影響と遺産
 毛沢東は紅衛兵と学生を利用して自身の政敵を倒し、権力を完全に自己の手中に集中したあと、1968年夏に突然宣布した。「現在、今度は若い将校たちが誤りを犯すようになった」これは毛がもはや彼らを必要としないことを意味した。(そこで)彼らは政治舞台から引きずりおろされた。1968年8月、毛は労働者と軍人を大中学に進駐させた。1968年末、毛は中学生に都市から農村や山区に行き苦しい労働に従事して再教育をうけるように号令した。この後、彼はかつて彼に従った造反派を洗い清める運動を続けて発動した。毛は運動後期にあって大衆に対する鎮圧は、運動初期劉少奇の大衆に対する鎮圧をはるかに超えるものだった。すでに遅すぎたが、学生たちは狂熱と盲信の中から文革を反省批判を始め、毛に対する崇拝から覚醒を始めた。
 1976年8月、文革に対する不満が高まり、人々は天安門広場に集まり、毛の妻江青とその他数人の文革を指導した毛の腹心を非難した。或る者は毛は現代の専制皇帝だと、唱えた。反文革の大衆抗議活動は、南京、成都などのp.xlix   年でも発生した。毛沢東の死後、熟練官僚が毛の妻を逮捕し、宮廷政変を起こした後、彼らは、驚き喜びつつ発見した、なんと中国の広大な人民は文革を憎んでおり、文革の収束を望んでいたのであった。
 文革前、党は神聖で、疑うことはできないものだった。しかし文革はこの点を変えた。文革を経た人間は現在知っている。党の官僚―特に高級官僚は腐敗した生活を送っており、党内闘争はとても残酷無情で、党の領袖はあまりに手段を弄ししすぎることを。党の崇高な姿は文革のあと、直しようがないほど傷ついた。
 毛の狙いには反して、文革のある種の意義は現代中国の民主運動を促進したことである。文革の間、かつて狂熱的な毛主義者だった何人かの若者は、文革後、巨大な熱情で西欧の政治理論を学習し、彼らがかつて批判した分権、権力のバランス、人権、法治、憲政民主などの原則を理解した。かれらは現代中国民主運動の中堅力量になった。
 文革は人々の懐疑精神、批判精神を促しただけでなく、人々が中国の社会制度、政治制度の病弊に深く入って、全面的に了解させるようにした。文革前、人々は自身の学校、機関、工場で生活し工作し、それぞれは隔絶状態にあった。文革中、彼らは全国を旅行し訪問する機会があり、どの地方の壁新聞も皆、当地の官僚と政府の問題を暴露した。文革前、人々が現実の問題を提起すると当局は頭から否認するたびに「確かに問題はある、しかし皆さんがみる問題は一時的、局部的。もし長期的に全体的にみるなら、形勢は明るく、党は偉大です。」と教えた。しかし文革を経験した人は道理と自信をもっていえる。「われわれが見ている問題は根本的で、全体的な問題、制度の問題です」と。
 民主運動に献身するに、最も重要なことは勇気が必要だということ。文革は人々に闘争の洗礼を経験させた。かれらはもはや小さな恐れにおびえることはない。政治に対してただ恐れから避けることはできなかった。文革は複雑で曲折した政治運動で人々は、批判、闘争、孤立、威嚇、逮捕にすら至った。多くは避けることができなかった。文革のあと湧き出た多くの民主人士は、鎮圧、打撃を恐れない勇気を表明し、固い決心を堅持している。その多くは文革中に風雨を通り社会の情況を見た人々だ。
 文革の影響は深く、同時にまた複雑だ。文革は中国の経済を破綻に臨ませ、高度集中計画経済では立ち行かないこと、世界と交わらない結果は遅れp.l   と貧困であることはっきりさせた。文革は鄧小平ら中国の指導者に施政方針の再考を迫った。もし文革がなければ、中国は長期にわたりソ連のブレジネフ時代に類似した「停滞の時代」を迎えたかもしれない。文革は中国を新たな時代にけん引したと言える。
 しかし、中国の政治慣性はとても巨大で、中国共産党が一党統治方式を護持する決心は異常なほど固い。
 文革が終わって数年は中国人民と統治者の蜜月期だった、文革中に官職を失ったもの、迫害をうけたもの、また官職を取り戻した官僚は普通の人々に名誉回復を行い、官と民はともに文革を譴責し、文革中の発生した暴行や惨劇を暴露した。しかし官は直ぐに、文革再度話すことを禁止する命令を出した、というのは文革は結局は中共が中国人民に与えた災難だったからである。文革を批判するとき、人々は自然に質問することになる。責任を毛沢東個人に負わせて文革は発生できるものだろうか?我々の制度にはどのような問題があるだろうか?
 1990年代半ば以降、ますます多くの中国人が文革を懐かしみ、甚だしくは文革の再発生を期待するようになった。というのも中国社会では、不公正、不平等がますます激しくなり、貧富の差がますます大きくなり、(しかし)人々には現状を改変する力がなく、ただ文革中かつて用いられた方式で汚職腐敗した官僚を暴露打撃を与えることを望んだ。この種の希望は実際的でないだけでなく危険でもあった。これは当局が文革を論じることを禁止した結果である。(しかし)多くの年が経過した結果、多くの人が、文革を腐敗を取り除き、社会を整え取り締まる社会運動だと誤認している。
 中国の政治家の中に毛沢東を非常に尊敬する人がとても多い。彼らが文革中学んだ策略手段は、必要な時には自身の同僚を攻撃すること、あらゆる悪事をすべて相手に押し付けること、政治制度の病をすべてこれらの人の誤りや醜い行為のせいだとして、自身を人民の保護者に仕立てること。この種のやり方は権力争いや政治危機をしのぐには有効である。中国において第二の毛沢東になりたいと思う人の出現は止めようがなく、多くの人が内心小毛沢東を心深くに宿している。
 近年、再び文革が生じようとする現象はますます明らかである。文革中毛沢東が「偉大な領袖」と呼ばれたのと似ているが、現在の指導者は「核心」と呼ばれている。実質は同じであり、ともに個人崇拝を行っている。彼らの話が真理であり、法律である。文革と同じく、憲法に違犯するまた法治事件が途切れることなくあふれ出ている(层出不穷)、文革中はデモをして数を頼んで人を侮辱したが、今はテレビで懺悔させて自ら辱める。文革中意識形態はその狂熱が極まり、人々は党と偉大な領袖をたたえる紅色歌曲を大声で歌ったが、現在また紅歌が流行している。2016年
p.li   はじめから、とくに任志強批判討伐の狂騒(訳注 任志強は1951年生まれ。父親は商業部副部長を務めた高級官僚。自身は2011年4月まで華東集団董事长。体制批判で有名。ここで指摘されているのは、2016年2-3月の習近平の世論工作座談会をめぐる任による政権批判を国営メディアが攻撃したことを指す。2020年2月にはコロナ対策をめぐっても政府批判を公言したとされる)の中で、人々の噂話は包み隠しのない驚きに変わった。「またも文化大革命がやってきた!」
 グローバル化と民主化の世界の潮流の中で、中国の一時曲折と後退は決して長期の発展方向ではない。文革再演を阻止する第一歩は文革を理解し、文革を批判することである。


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