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陳雲 「包産到戸」を毛沢東に進言 1962/07/09夜

1962年。この年、「7000人大会」があり大躍進政策の失敗が確認された。ただ大会は毛沢東の責任を十分追及しないまま終わった。そして毛沢東と劉少奇との間の矛盾対立は次第に拡大する。焦点は大飢饉を生み出した農業で、集団化政策の誤りを認めるかどうか。問題は明らかだったので、周囲の人々が次々に毛沢東説得を試みる。7月9日夜の陳雲による毛沢東への報告は、こうした動きの一つである。説得に失敗した陳雲は、治療を名目に蟄居を選択している。葉永烈『歴史的注脚』中華書局2014年6月pp.28-29を採録。

p.28   1961年6月上旬から7月下旬の間、陳雲は故郷の上海青浦小蒸鎮に帰った。彼は、農民の家に泊まり食べて15日の調査を行い、10回の調査会議(専題調査会)を行った。陳雲は農村で農民から沢山の厳しい声を聴いた。「蒋介石のもとでは難を受けたが、まだ食べることが出来た。毛沢東のもとでは福を享受できるが、ただ粥をすするだけだ。」「幹部が威張りいらし、社員は難儀している。幹部は大口をたたき、社員は飢えて骨と皮ばかりになった。」
 陳雲は調査研究を通して、包産到戸(訳注 農業集団化を見直し経営を各戸に委ねること)を肯定した。陳雲は指摘した。「これは非常時期の非常のp.29    方法だ。この種のやり方を肯定する、「分田到戸」も良いし、「包産到戸」もまた良い、国家がこのように大きな天災人禍に遭遇したときには、農民全体で「国際歌」の歌詞にあるように「すべては我々自身にかかっている」というスローガンを発動せねばならない。広大な農民に依拠して、速やかに生産を回復することが必要である。」
 陳雲は毛沢東が「包産到戸」に反対であることは明らかに知っていたが、もともと穏健な彼もこのときはつぎのように言わざるを得なかった。「私は全国経済工作の指導する任務を負っている、党に対しまた人民に対し責任がある。このことはすでに明らかで、方法は探しあてられた。提起するかしないか、変更するかしないか、党の名誉に関係し、人々の心に背を向けることになる、どうして時期を逸することが出来ようか!」
 1962年7月9日夜、陳雲は北京で毛沢東を訪ね、彼の上海の故郷での調査状況を報告し、農民の個人生産積極性を一旦高めれば、農業生産(訳注 回復の)の転機になると説明した。ここで陳雲は「包産到戸」を試すことを建議した。彼が見るところ、これが目前の非常時期において困難を解決する唯一の方法だった。
 毛沢東はただ聞くだけで、意思を表明しなかった。
 陳雲は帰宅後、なおしばらく起きていた。ー翌日早朝、毛沢東が陳雲が帰ったあと、きびしく批評したとの情報が伝えられた。毛沢東は言った。「「分田単干(訳注 田を分けて単独経営すること)」は農村の集団経済を瓦解させることであり、人民公社を解散することである、これは中国式の修正主義であり、その道(訳注 修正主義の道)を歩むという問題だ。」
 陳雲はこれを聞いて、しばらく言葉がでなかった。
 陳雲と毛沢東の今回の談話は、陳雲の政治生命(命運)の一つの転換点(転折点)になった。中共中央副主席の陳雲は1962年夏から療養蟄居を始め、基本的に中央の最高政策決定層から離れた。


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