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七千人大会 1962/01/11~02/07

 これは1962年1月11日から2月7日まで北京人民大会堂で行われた拡大中央工作会議のこと。その後、中南海西楼会議室で2月21日から23日まで中央政治局常務会義が開かれた。後者は「西楼会議」と呼ばれる。この7000人大会から西楼会議への展開は人によってニュアンスが異なる。ここでは比較的近刊の黃崢《風雨歷程 晚年的劉少奇》人民文學出版社2018年pp.135-143を用いてまとめた。よく見られる、毛沢東の感情についての表現:七千人大会で毛沢東が立腹したなどーを省いている。客観的にまとめようとしているのではないかと思う。

 1月27日7000人大会で劉少奇は中共中央を代表して報告した。出席者総数7118人とされる(すべての県から2人の代表が出席する空前の会議とされる)。劉少奇の手元にはメモがあった。最初4万字あまりの原稿が作られた。起草委員会で意見を吸い上げて劉少奇がまとめられたもの。1月11日開幕後、討論され、さらに27日当日修正稿が配付された。大会に先立って毛沢東は要点(提綱)をあらかじめ読んでいる(毛沢東が劉少奇の発言内容をあらかじめ知っていたことを黃崢は強調しているように思われる 福光)。
 この報告ででてきたのが、1958年以来の工作の評価で、全国的にみて成績(良い点)が7個に、悪い点あるいは失敗が3個。その原因の3分は天災、7分は人災(人禍)という言い方である。また劉少奇は、この報告のなかで中共中央はこの数年の誤りに責任があると、自己批判している。また彭徳懐の手紙には事実と符合することが少なくないともした。続いて、毛沢東、周恩来、鄧小平はそれぞれの講話の中で皆中共中央の責任を認めた。
 林彪はこれに対し、毛沢東は正確だったが、我々一部の同志が毛主席の思想を会得できず、問題を右に左に置いてしまったとした。この林彪の講話は、大会の気分をそこなったが、毛沢東の賞賛を得るところとなった(この書き方もさらっとしている。林彪の発言によって、会議の雰囲気が180度変わってしまったといった、書き方がこれまでは多かった。福光)。
 7000人大会の後、毛沢東は北京を離れ南京に向かった。そこで劉少奇によって開かれたのが中南海西楼で行われたのが政治局常務委員会拡大会議(1962年2月21日から23日)。常務委員のうち、毛沢東と林彪を欠いたこの会議は、陳雲が提出した政策の実行で合意。すでにのべたようにこちらを西楼会議と呼ぶ。
 続いて劉少奇の提案で各部委員(部長、副部長)を集めた会議が国務院小講堂で開かれ(2月26日)、陳雲が《目前財政経済情況克服困難的若干辦法》と題した報告を行っている。
 3月12日から13日。劉少奇は同じく中南海西楼で再び中央政治局常任委員会拡大会議を開催。ここで陳雲の講話などにつき討論したほか、陳雲を中央財経小組組長にすることで賛同を得ている。13日、劉少奇、周恩来、鄧小平の3人は、毛沢東の承認を得るため、飛行機で武漢にむかっている。毛沢東は報告を受けて了承している(毛沢東がこのとき北京を離れ、また北京に戻らなかったのは、不満の表明にも思えるが、黃崢は一切、毛沢東の感情、意図の詮索には触れない態度を貫いている。福光)。
 北京に戻った劉少奇は、陳雲の経済工作に関する発言を多くの同志に知らせたいとするが、陳雲自身の不同意のため、印刷配付範囲を狭めること指示している。
 4月19日劉少奇は中共中央の署名通知をだし、全党に対し陳雲が中共財経小組組長とした決定を宣布している。
 5月7日から11日 劉少奇は中央政治局常任委員会を開き、国民経済調整工作を決定する。具体的には1)都市人口の縮小。そのため1962年に1200万下放をおこなう。2)基本建設の建設規模縮小。67億元減らし384億元。3)工業戦線の規模縮小。生産指標を百分の5ないし10減らす。減少企業数は1万八千。4)農業支援、農業生産、日用品生産の増加により市場供給を保証する。
 (このとき一連の緩和政策のなかで多くの地方で農民が自発的に包産到戸の実行を始める。またこの問題をめぐり中共指導層の間で認識の不一致が現れ始めていた。)

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