見出し画像

John Dewey 1859-1952-1919年の日本そして中国滞在:中国への影響

Dewey's Political Philosophy   By Matthew Festenstein
Cited from Stanford Encyclopedia of Philosophy

 John Dewey(1859-1952)はアメリカの哲学者でpragmatismを連想させる。彼の、哲学の著述は、主たる関心である教育、社会、政治を中心に、ほとんどの領域にわたっている。彼の政治的著述の多くは、個別の問題で促されたものだが、全体の方向性は彼のプラグマティズム(あるいは彼が好んだ言い方では「実験主義」)により深く刻印されている。彼の政治的思考の中核には、科学と民主主義は、相互に支援的supportiveかつ独立した行為(enterprises)であり、また、人々が平等主義的で進歩的であることは、オープンな社会コミュニケーションの慣行に依存していること、そして自由な個人主義と民主主義についての強力な説明に弾力性がなくなり、自ら敗け始めているとの信念があった。
 Deweyの初期の哲学での仕事は、彼の教師で同僚でもあるGeorge S.Morrisから吸収した理想主義に深く影響されていた。(しかし)1890年代を通じて、とくに新たに設立されたシカゴ大学に1894年に異動したあと、Deweyは理想主義の形而上学から着実に離れ始めた。ーそれは彼の自伝的エッセイ『絶対主義から実験主義へ』の中で叙述している過程をたどった。とくにWilliam Jamesの『心理学原理』(1890)に影響されたDeweyは、経験的現象の研究は世界は心であるとの結論を導くとの理想主義者の主張と、それに代わる唯一のものは原子的な実験主義であるとの信念との双方を否定するようになった。それでも彼は、人類の進歩という一つのことを述べようととする理想主義者の願望を保持した。シカゴにおけるDeweyの関心は、教育理論と民主主義社会の中心的組織としての学校の概念にあったが、それらは大学の小学校(the Lab School)の設立、The School and Society(1899)やThe Child and Curriculum(1902)といった本に実を結んだ(のちに高まった表現としてDemocracy and Education(1916)がある)。大学の学長との論争のあと、Deweyは1904年にシカゴを離れコロンビア大学に向かい、そこで退職までを過ごした。
 戦間期にはまた彼の哲学的信念を述べ発展させた、せかされるように書かれた一連の本がある。これにはReconstruction of Philosophy(1920), Human Nature and Conduct (1922),  Experience and Nature (1925), The Quest for Certainty (1929), Art as Experience (1934), A Common Faith (1934), Logic : The Theory of Inquiry (1938)そしてTheory and Valuation (1939)が含まれる。(なお)The Public and Its Problem (1927)は、Walter Lippmanのような懐疑主義者(Lippmanは複雑な現代社会において、最小限民主政治にはわずかな余地しかないと論じた)に対しての参加型民主主義への弁護を含んでいる。(また)Deweyは放任型自由主義そしてそれに伴う社会についての個人主義的見解への批判者であった。この批判は大不況に間に強まった。そこで彼はIndividualism, Old and New(1930),  Liberalism and Social Action (1935), Freedom and Culture (1939)などで自由で民主的な社会主義の詳細formを明らかにした。
 よく知られた知識人として、Deweyは女性の選挙権(suffrage)と避難所運動the Settlement House movementの支持者であった(彼は女性哲学者Jane AdamsやEllen Gates Starrの、有名なシカゴのHull Houseをしばしば訪問した)。彼は世界の聴衆に向けて講義し、彼の教育上の著述はとくに有名な中国を含めて広範な地域に影響した。彼の公共的政治的活動の中には、教員組合の議長、American Civil LibertiesとNAACPへの資金援助、戦間期のOutlawry of War movementへの支持, People’s Lobbyの議長、そして彼の学生Sidney Hookに説得されての1938年のメキシコにおけるLeon Trotsky「裁判」への参加が含まれる。ニューヨークへの移動後、そしてとりわけ第一次大戦後に彼が公刊したかなりのものは、時事的な国内国際政治へのコメント、そして様々な理由による国内国際両面についての公(おおやけ)の声明から構成されている(彼はおそらくこのEncyclopediaでベルサイユ条約と、郵便局に芸術を飾ることの重要性の双方について意見を表明した唯一の哲学者である)。彼はルーズベルトのニューデイールについて左翼の著名な批判者であり、同時にソビエトの共産主義とその西欧の弁護者たちに反対した。彼はその死の時までは伝説の人としてもてはやされた(Bertrand Russelと同様にこの地位は、論争的で過激さで公的立場が昇進することと重なっていた)。その後の年月は、彼の哲学上の評価と公的地位をいくらか引き下げた。しかし彼の業績は依然として重要で参照の価値があり、民主主義理論の源泉となっている。

Books by John Dewey (Project Gutenberg)
     China, Japan and the U.S.A.   帰国後の講演の記録と思われる。1921年刊。
     Letters from China and Japan    Deweyが日本を経て中国に渡ったのは1919年のこと。その時の様子が判明する貴重な資料である。
     Democracy and Education

「民主主義と教育」(1916)の要約
atsukuyuri.com   2021/12/30更新

    なお晩年のデユーイは、レオン・トロッキーが海外に追放されながら、つまり出廷できず自身を弁護できない状態で、ロシアで裁かれた件について(モスクワ裁判 1936年8月 1937年7月)、国際的な調査委員会の委員長を務めている(1937年3月から9月 以下を参照。ジョン・デユーイ調査委員会 梓澤登訳『トロッキーは無罪だ』現代書館2009年4月)。左派に対して露骨な弾圧も珍しくなかった時期である。一面これはスターリンが進める独裁への批判の面はあるものの、国際共産主義運動の指導者のひとりであるトロッキーの冤罪を主張する国際的な運動の事実上責任者を務めたことは大変勇気が必要な行動だったと思える。

  小西中和「レオン・トロッキーの擁護と批判 ジョンデユーイとソ連(2)」『彦根論叢』No.414, Dec.2017, 80-96.
 小西中和「ジョン・デユーイとソ連(1)「ソヴィエトロシア印象記」(1928)」『彦根論叢』No.413, Sept.2017, 48-61.

  デユーイのプラグマティズムと中国の「実事求是」、「真理の唯一の基準は実践であるとの考え方」、などとの関係(どのようにつながっているか)も詰める必要を感じていることの一つである。他方でデユーイにみられる多元的な価値観こそ、民主主義のベースだという考え方は、共産党のもとでは否定されてしまった。しかし胡適や陳独秀などには受け継がれたといえるのかもしれない。
 John Dewey   Cited from Hitopedia


main page: https://note.mu/hiroshifukumitsu  マガジン数は20。「マガジン」に入り「もっと見る」をクリック。mail : fukumitu アットマークseijo.ac.jp