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神経症は予知できないのか

30年前の今頃わたしは失意のどん底にいた。場所は渋谷にある日本コカ・コーラ渋谷オフィスだった。そこで勤務をしはじめて2年が過ぎた。新しい部門であるリサーチ・チームに配属が決まった。異動になる前は情報システム部だった。

この情報システム部というところがどうしても肌に合わないところだった。40人くらいシステムエンジニアがいた。多くは第3世代のプログラム言語Cobolを使うひとたちだった。

オフィスは別館の地下一階であった。窓のないオフィス。ほとんどの職員がコンピューターに向かって仕事をしていた。日中ほとんど会話がない。会話すら成り立たないようなところだった。ミーティングを招集しても来ない人がいる。議事録は残さない。社内では特殊部隊と呼ばれた。

そうして2年ほど過ぎたころリサーチに異動になった。そこは5人しかいなかった。わたしは新しい部門で少しだけ楽しみにしていた。ところが何をやっているのかさっぱりわからない。部門長はリサーチの目標を示さなかった。そんなときに部長から呼び出しを受けた。何分部屋にいたかはよく覚えていない。

オーストラリア人の女性部長はわたしのことを気に食わない様子だった。何に腹を立てているのかわからない。とにかくわたしのことを罵倒した。しばらくするとリサーチにいる部下5人のだれに対しても同じように罵倒していたという。まもなくして日本からいなくなった。

5ヶ月しかいなかったリサーチから情報システム部へもどることになった。嫌だったところにもどる。当然、受け入れる側も歓迎はしてくれない。わたしはさらに途方に暮れて静かにしているしかなかった。

それからしばらくした頃だった。オフィス内がおかしい。特に40人いるシニアの人たちがほとんど仕事らしきことをしなくなった。3年後は早期退職制度が発令された。若い人たちにもつらくあたるようになった。

友人はうつ病になってしまった。1年間会社を休むという。わたしは会社の人たちと連れになって彼の住む埼玉の自宅に見舞いに行った。どうしているんだろう。

彼は1年経過してなんとか職場に戻ることができた。しかしこう言っていた。神経をやられてしまった。そのため体温調節が思うようにいかない。埼玉の自宅と池袋まで電車の中でとても苦労するとのことだった。わたしはどのような苦労をするのかを聞いてみた。

体温調整ができないので真夏のクーラーが寒すぎる。列車に乗れないという。ほんとうなのか。少しでもクーラーに風にあたるとぶるぶると震えてだしてしまう。車掌に問い合わせをする。低冷房車というのはないのでしょうか。その頃あまり低冷房というのはなかった。

調べてみるとどうやら体温調整が効かなくなった原因は汗をほとんどかくことができないためだった。そういう身体になってしまったという。汗腺が開かないために皮膚が膨らむ。足の関節の下あたりにむくみができてしまう。

わたしは彼とは親しい間柄であった。オフィス内では話をした。

この経験から神経をやられてしまったときにどうしたらいいか。また何をしたらいけないかを覚えた。それをここに書いておきます。

神経症というのはひとつのヒステリーのようなもの。ヒステリーというのはなんらかの恐怖におびえていることだ。オフィスに行くことが怖くてしょうがない。仕事ができなくなってしまう。心理的安定性がない。彼は先輩の上司からハラスメントを受けていた。

ヒステリーになってしまうと不安でしょうがなくなる。なんらかの強迫観念に縛られる。眠ることもできなくなる。そういったときには注意が必要だろう。一般的な対策としては少なくとも3つある。

ひとつはしっかりと休むことである。旅行に出かけてはいけない。旅行というものは健常で元気のある人がすることである。旅行というのはストレスの固まりである。楽しいかもしれないが人だかりで混雑している。出費も相当なものになる。抑圧を受けている間は楽しめない。休めない。近くの温泉ということあろうが、それでさえもよくない。

家でのんびりとしているのがよいだろう。だらっとしているだけでよい。家族サービスもしてはいけない。できないのだ。疲れ切ってしまっているから。それでも回復しない時は医者にいくしかない。

次に週末や祝日は必ず休む。だらだらとしているのは気が向かないかもしれない。しかしながらあの頃は日本経済は失われた。今日にいたるまで30年を失ったといわれている。そんなときは仕事をやっても報われない。そういう時期が長く続いた。それゆえオフィスでは相当なストレスをだれもがためていた。

いま、都内にいる大学生の読者にとってはわからないかもしれない。1990年から2020年までの30年間は日本経済はほとんど成長していないのである。どんなにいい大学を出てもどんなに一生懸命仕事をしたとしても報われない時期が30年続いたといえる。(一部の例外はある)

2008年のリーマンショックで多くの人が仕事を失った。そして2011年には東日本大震災。東京オリンピックでなんとかしようとしたがコロナで4年間後退した。そしてウクライナ情勢により物価高騰が続く。そんなときにはなかなかうまくいく仕事はないであろう。(よほど運が良ければ別)

そういうときにはだらだらしている。のんびりとしているしかない。ずるいといわれるかもしれない。でも健康を害しているのだからしかたない。やるとしたら軽いウォーキングをしたりのんびりと音楽を聴いたりしている程度でいいだろう。

週末は休むこと。間違ってもボランティア活動をしてはいけない。ボランティアというのは健康な人がやることであって、病気の人が無理をしてまでするものではない。わたしは神経症ではなかったが疲れてはいた。そこで無理をしてしまったと後悔することがある。18年間も浅草でボランティアガイドをした。

最後に彼が選んだひとついいことを述べよう。それは会社を辞めなかったことだ。上司に丁寧に相談した。そして症状を訴えた。ここで間違っても上司と変な対立はしないほうがよい。

してはいけないのは転職である。転職はしてはいけない。特に40歳を超えてからの転職は無理である。健常であっても行った先でもうまくはいかない。病気であったらうまくいくわけがない。病気を背負って新しいところでは働けないからだ。第一に転職というものは実績をあげている人がすることである。

もっとしてはいけないのが退職をしてしまうことだ。たとえ嫌でも会社を辞めるとお金が入らなくなる。ぶらぶらとしているだけで失業状態が続けばあせる。そんな状態では治る病気も治らなくなる。

彼は1年後に完治していなかったが会社に復帰した。ぶらぶらとしていても会社にいれば給料ははいってくる。

会社ではいろいろなことがある。そこで症状が出る前に神経症や不安障害を予知できる方法がないのかと気になる。予知できれば予防ができる可能性があるからだ。未然に防ぐことができる。しかしその方法はなかなか見つからない。

なってしまえばもとにもどすには相当の時間がかかるし、休んでいる間のロスが大きい。会社にも行けないし仕事もできない。システムの仕事は相当なストレスがかかる。それだけも健康を害する。うまくシステムが動くとはかぎらない。

彼の様子を見てわたしはもどってきたシステム部門では途方に暮れてしまった。それからいろいろなプロジェクトにはいっていき、どれも忙しくなって心身ともに疲れてしまった。

やがてわたしにも神経症に似たような症状が出るようになった。