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【連載小説】吾輩はガットである⑤

パオロが料理をしている。今夜は奈緒美のお友達が遊びに来て一緒に夕食を食べることになっている。お客さんが来てから料理を始めてもいいのだろうけれど、今夜は日本人のお客さんが三人いるから約束の時間にやって来るという推測に従い、集合前から料理を始めてもみんなが揃うまでに料理が冷めることがないと見越してのことらしい。吾輩のように最初から冷めた料理を食べる習慣にしとけばこういう気苦労もないのだろうに、人間はわざわざ気苦労を自分で増やしては「大変だ大変だ」と大騒ぎするのが好きなのだから仕方がない。そんなことを考えていたら約束の8時ちょうどにベルが鳴る。

「チャオ、元気だったー?」

佳子とマウリツィオが入って来る。この佳子は奈緒美のイタリアでの最も古い日本人の友人だそうで日本人向け観光ガイドや日本企業向けのイタリア語通訳の仕事をしているそうだ。なんでも昔にオペラの歌の勉強でミラノに留学してた時にマウリツィオと知り合って結婚し、そのままイタリアに住み着いたらしい。パオロと知り合ってそのままイタリアに住み着いた奈緒美と同じような経験をしていることもあって奈緒美にはあれこれ相談もできる便利な友達らしい。吾輩の理解によれば今の奈緒美の仕事先もこの人の紹介だという話だ。そのようないきさつから奈緒美の同胞としてはとても仲がいい友達のはずなのに、マルタといるときに比べると奈緒美もどこかよそよそしい感じがする。これは日本語の問題なのか日本人の習慣の問題なのか、吾輩にとってはまだ研究中のテーマである。

「これ冷蔵庫入るかな?」とパスティッチ―二の入った包みを佳子が差し出し、奈緒美が冷蔵庫にしまっている。パスティッチ―二とは食後のカフェの時間に食べる小さなケーキ類で、吾輩の好みからすると甘ったるすぎるので冷そうが温めようがあまり興味はわかない。

マウリツィオは料理をしているパオロのところに近づき「何のおいしいものが出来るの?」と聞きながらワインのボトルを差し出す。
「ああ、栓抜いてくれる?ちょうど少しワイン足そうとしてたところなんだ。」
「おう、そうか、栓抜きどこ?」
「はは、冗談だよ、料理にはもう最上級のワイン入れてるから、それはテーブルでみんなで飲もうよ。」
「なんだ、最上級のワインは飲ましてくれないのか。まあ、これ気入ってくれるといいけど。」
「今日のは何?」
「アスティのバルベラ持ってきた。」
「お、いいねえ。ラディッキョのリゾットにはぴったりだ。」

最初のお客さん二人が入ってがやがやしているうちに残りの二人のお客さんも到着した。朋美と恵令奈である。朋美はチューザイという職業の日本人夫のイタリア勤務で3年前からミラノに住んでいるそうだが実は小さな子供がいる。佳子とマウリツィオのところにいる子供と同い年だそうだ。以前この子供達も一緒にお客さんに来たときに吾輩のしっぽをつかむ競争をし出して閉口したことがある。吾輩は食器棚の上に避難して何とか被害を被らずに済んだが、人間の子供の恐ろしさを再確認する経験であった。今夜はマウリツィオが夜遅くなるだろうからと近所に住む彼のお母さんのところに子供は預けてきたそうだ。朋美のところの子供はお父さんとお留守番らしい。この夫はまだイタリア語の会話が苦手だそうで、パオロのところに遊びに来てもくつろげないから家にいる方が気楽らしい。

恵令奈はミラノの大学に留学し、卒業後してからも在学中から付き合いだしたクラスメイトのジョヴァンニとミラノに住み続けている人物である。この人はまだ定職がなく、年に数か所2か月程度の給料がもらえるインターンとして働いるそうだ。今の時代はそのまま社員として雇ってくれる会社は少ないらしく、とにかくインターンでもやりたい仕事の経験を積んでいくことが大切らしい。人間社会では人生を軌道に乗せることがなかなか難儀な様子であることを知るにつけ、吾輩は生まれてこのかた養子縁組で苦労したことがなく、こうして毎日平和に過ごせていることの幸運をありがたく感じる次第である。恵令奈の場合、その短期契約の仕事がない時には、バイトで佳子と同じような通訳のバイトをしたり時々人が足りない時に奈緒美の働いているお店の手伝いのバイトをしているそうである。通訳や観光案内の仕事はそれ専門でやっている佳子のような人がいるので、なかなかバイト向きな単発の仕事がないそうであるが、ミラノには見本市会場という大きな場所にあちこちの国から沢山の物や人が集まる場所があるので、そういうとこでイベントがある期間は恵令奈のような人にも仕事があるそうだ。元々は佳子がそういうところで日本人の通訳のバイトが出来る若い人を探していたときに知り合って、お友達になったらしい。

恵令奈の連れのジョヴァンニは春休みでパヴィアの実家に戻っているらしい。恵令奈もナターレの帰郷には一緒について行ってジョヴァンニの家族と数日過ごすらしいが、まだ結婚しているわけでもないので春は別行動でのんびり過ごすということである。

「久しぶりよね、このメンバーで集まるの。年末以来かしら?」奈緒美は嬉しそうである。
「オクトーバーフェスト以来だね。ほら、あの時はジョヴァンニも来てたよね。10時過ぎてからはずっとソファーで寝てたけれど。」パオロも料理の準備が出来てテーブルに戻っている。
「ごめんね、いつもああいう風なの、家でも。だから家ではビールもワインもグラス1杯以上飲まないの。パオロはお酒強いよね。」
「いやいや、ぼくもそんなに飲まないよ。ワイン2杯飲むと顔が赤くなるからね。だから飲むのはゆっくりゆっくり、ちゃんと何か食べながらね。マウリツィオもワインは詳しいけれど、量はそんなに飲まないよね。せいぜいワイン3本くらいでしょ。」
「まあ、頑張って5本かな。冗談はさておき、ぼくもそんなに量は飲まないよ。大体こうやって集まって飲んでても、2本目以降の味は覚えてないもん。」

賑やかになったところでワインを抜いてみんなで乾杯の運びとなる。あんなものは各々が味わって飲めばいいようなものだけれど、こういう時も人間はわざわざ大げさに掛け声をかけて一緒に飲み始める。まあ、それでみんなが楽しそうに愉快な声を出してはしゃいでいるのを見ることは悪い心持ちはしないので吾輩も特段否定はしない。

食事が始まると、一通り「美味しいわね。どうやって作るの?」なんて料理を褒めたりしたあと、日本人の四人は日本語で喋り出す。イタリア人の二人はイタリア語で話しながら、ちらっちらと日本語での会話が来なる様子だけれど残念ながらこの二人は日本語が分からないらしい。日本語組がみんなで大笑いしていると、時々誰かがぽかんとしているイタリア語組に何の話題なのかをかいつまんで説明し、また日本語のおしゃべりに戻っていく。

「朋美さんちは今日何食べてるの?」と奈緒美が聞く
「今日は一応肉じゃがとご飯とお味噌汁用意して来たけど、あれだったらピザでも注文して用意してあるのは明日食べてもいいわよって言ってきたから、今頃ピザ食べてるはず。」
「はは、たまには宅配もいいもんね。子供は絶対その方がうれしいし。」「ホントそう。近所のピザ屋結構おいしいしね。宅配してくれるけど結構本格的なナポレターナなの。」
「ええ、すごい、うらやましい。私の家の近所の宅配ピザはケバブ屋が多いからマウリツィオは絶対ピザ頼まないもん。ケバブは時々頼むけど。」「あ、私この間ケバブ屋さんのトルコ風ピザ食べた。」
「なに、トルコ風ピザって?」恵令奈の発言に奈緒美が飛びつく。
「なんかこういう目の形になっててね、耳のところが少し巻いてあった。でも、味はトマトソースとモッツァレラでフツーのピザと同じだった。」
「なんで?イタリアだから?」
「わかんない。」
「あ、そういえばこの間『世界のピザ』みたいな紹介記事を読んでたら、日本のピザとしてお好み焼きが出ててびっくりした。まあ、平らではあるけど。」と佳子が新情報を提供している。
「ええ、でもお好み焼きはちょっと違うなあ。でも中華街でたこ焼きをポルペッテって売ってて、あれも違うって思った。」と朋美。
「あ、そういえば例のお料理教室はまだ行ってるの?」と佳子が思い出したように朋美に尋ねる。
「え、何々、お料理教室って?」恵令奈も興味津々である。
「もう行ってない。あれはチューザイ妻用の教室で、商社系のチューザイ妻さん達が代々続けてきた会でね。先生は80年代に日本で働いたことがあるイタリア人シェフで、日本語も分かるし面白い人だし料理を習うことはいいんだけど、なんか人間関係がめんどくさいから。」
「ね、ややこしいのよね。」佳子も少し人間関係の難しさを知っているようである。
「そう、私のところはチューザイって言っても新しい会社だし、ウチの敏夫さんもそこまで他のチューザイの人と付き合いがないから、まあ、行かなくてもいいんじゃないって言ってくれるけど、他の企業の人は絶対参加しないといけないみたい。あれとスカラのオペラ初演と忘年会は絶対なんだって。」
「それがややこしいの?」恵令奈には初めて聞く話のようだ。
「ほら、私は佳子さんや奈緒美さんと知り合ってこうやって家に呼んでもらえるようになって、気楽に日本語でおしゃべりできる機会が出来たから運が良かったんだけどね。数年だけの勤務予定で来る他の人はなかなかミラノに友達が出来なくて、あそこが唯一日本語が使えるコミュニティーだったりするじゃない、そうすると付き合わないわけにはいかないけれど、あそこの人達は企業名や役職で妻の方にも階級がつくから、私なんか料理教室行っても『ああ、あの新入りの人ね』ってほとんど無視される対象なんだよ。」
「無視って?」
「みんな自己紹介する時には夫の役職で自己紹介するの。○○のヨーロッパ支部部長の○○の妻○○ですって言うの。だからウチの敏夫さんの会社なんか新しい会社で誰も知らないからヒエラルキーの一番下でしょ、だから私は『まあ、そこにいてもいいわよ』って扱いだから別に我慢して参加することもないかなって。」
「きゃあ、怖いー。私チューザイ組じゃなくってよかった。」
「昔は日本人のチューザイの人がもっと多かったから、そういうグループで何かするときに大きな会社の人が代表みたいに世話役してたらしくて、その名残でヒエラルキーだけ残ってるみたい。その料理教室も今は5、6人で月に一回だけれど、90年代までは20人くらいの教室を毎週入れ替わりでやってたらしいし。でも今は人数少ないのにヒエラルキーみたいなのがきつくて私はダメ。」
「そういえばジョバンニも子供だった頃はイタリアの街はどこも日本企業の看板だらけだったって言ってた。」
「でも、自己紹介で夫の会社の名前出したりするのってすごい日本的よね。イタリア人は名前しか言わなくない?」
「イタリアはね。でも、夫の役職まで付けて枕詞にするのが日本式です。」

朋美の言葉で爆笑している日本語組にイタリア語組が驚く様子を見ながら、ワインを飲んだわけでもないのに吾輩はなんだか眠たくなってくる。

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