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太宰文学と韓国のモッパンからみる食事の日常性について

 いよいよ自分は食事の時刻を恐怖しました。自分はその薄暗い部屋の末席に、寒さにがたがた震える思いで口にごはんを少量ずつ運び、押し込み、人間は、どうして一日に三度々々ごはんを食べるのだろう、実にみな厳粛な顔をして食べている、これも一種の儀式のようなもので、家族が日に三度々々、時刻をきめて薄暗い一部屋に集り、お膳を順序正しく並べ、食べたくなくても無言でごはんを噛《か》みながら、うつむき、家中にうごめいている霊たちに祈るためのものかも知れない、とさえ考えた事があるくらいでした。

太宰治「人間失格」

 太宰の私小説的な作品の代表格である人間失格。その書き出しには、食事という行為に対しての恐怖と人間の営みについて理解できないことへの恐怖や不安が書かれています。

 以前のnoteの記事で太宰の作品が支持されるのは、その共感性にあると分析しました。 

考えれば考えるほど、自分には、わからなくなり、自分ひとり全く変っているような、不安と恐怖に襲われるばかりなのです。自分は隣人と、ほとんど会話が出来ません。何を、どう言ったらいいのか、わからないのです。

太宰治「人間失格」

 自分自身、幼稚園の時にお弁当を残してはダメよ!食べ終わるまで遊ばせません!という先生の指導によって、慣れない場所で食事をするとドキドキして気持ち悪くなるような感覚がありました。きっと会食恐怖症ってやつですね。最近は、そういう感覚はかなり少なくなっているので良かったですが、初めて太宰の人間失格を読んだ時に、楽しいものの象徴とされる「食事」に苦手意識を持っている人がいるんだ!と共感しました。

韓国文学から見るモッパン

 2022年の本屋大賞の翻訳小説部門で一位となったソン・ウォンピョンさんの「三十の反撃」。まだ読めていませんが、韓国の国民性という部分が多く反映されているんではないでしょうか。
 韓国にはモッパンという食事動画がYouTubeなどで人気です。家族と一緒にご飯を食べるという文化が影響しているのかもしれないですね。日本のYouTuberでも、食事動画を上げてる人は沢山いますね。
太宰みたいに人と食べるのは嫌だな。。という時もありましたがコロナの影響もありますが一人で寂しいなって時もあります。人が食べてるのを見るのも美味しそうで面白いものです。「三十の反撃」読んでみたいです。 

芥川賞受賞作と食事

 芥川賞を受賞した村田沙耶香さんの「コンビニ人間」には、塩味の淡白な食事をとる主人公や小鳥の死体を見つけ、お墓を作る子どもに対して「焼き鳥にした方が美味しいよ」と考える主人公が描かれています。
ここでは主人公が考える本能的な食べるという行為と、人間の常識的、理性的な部分との乖離を表現していると思います。
同じく村田さんの「街を食べる」の書評も投稿しようと思ってます。
 第165回芥川賞受賞作の「おいしいごはんが食べられますように」も読んでみたいですね。
 



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