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少年の傷痕と後悔の記憶 『サンクチュアリ 聖域』で蘇った苦い思い出

NETFLIXで『サンクチュアリ 聖域』シーズン1を見た。面白かった。強くプッシュしてくださったワタナベアニさん、ありがとうございます。

本作には主人公の最強のライバルとして静内(しずうち)という力士が出てくる。
作中、左頰にヤケドの痕をもつ静内が、少年時代を回顧するシーンがある。少年相撲の対戦相手が静内のヤケドの痕を「気持ちわりぃ」となじり、気弱そうな少年が母親の声援で鼓舞される印象的な場面だ。
この場面で、ふいに涙がこみあげてきた。
すっかり忘れていた私自身の少年時代の苦い思い出が蘇ったからだった。
備忘録をかねて書き留めておく。

臨時招集の相撲部

私は小学6年生のほんの一時期、相撲部だった。
相撲部は常設ではなく、区大会の2~3週間前に急ごしらえで作る臨時のものだった。ある日、授業中に教頭先生が突然教室にやってきて、「お前とお前、きょうから相撲部。放課後にグラウンドにこい」と告げられた。一方的な招集で、選択の自由はなかった。
かくして私はバスケ部からのレンタル移籍で相撲部員になった。私の通った小学校では、たしか陸上部も同じ方式だった。

各クラスから2~3人、合計10人ほどの大柄な少年がかき集められた。今の私は172センチの標準体型だが、とある事情もあって、当時は体格の良い方だった。なぜかは、こちらのnoteをご参照ください。

「参加することに意義がある」的な存在のはずの臨時の相撲部は、その年から様相が変わっていた。赴任したばかりの教頭が大学相撲出身のガチ勢だったのだ。こんなにちゃんと「ガチ」が使えることは滅多にないな。ちょっと嬉しい。
教頭は高木ブーと北勝海(八角・日本相撲協会理事長)を足して2で割った感じの風貌だったので、以下、「ブル先生」とする。

Wikipediaより。好きだったな、寺尾と北勝海

押さば押せ、引かば押せ

ブル先生の指導は、なかなかガチンコだった。相撲の神髄、「押さば押せ、引かば押せ」を小学生にも求めた。

稽古は四股から始まり、続いてすり足での「ハズ押し」行進。「ハズ」つまり脇の下に手をさして押す動作だ。校庭の砂のグラウンドを、顔の前で両手を何かを捧げるように上げて腰を落として素足で前進する。
試合形式の練習でも「押さば押せ、引かば押せ」が基本。相手の胸にアタマをつけ、「ハズ押し」の要領で手を差し入れ、ひたすら押す。
この調子だと当然、頭と頭が正面衝突しがちになる。ブル先生が決めたルールが「左側通行」だった。立ち会いの際、向かって左側、相手の右胸にめがけてぶつかっていく。自然に「右四つ」になる。相撲は利き腕で下手をとるのが基本。左利きが相撲部にいたかは記憶にない。
それでもたまに正面衝突が起きてクラクラするほど頭をうった。マンガのように視野に星が舞った。すごく痛いけど、妙に気分が良かった。少年なりにアドレナリンが出ていたのだろうか。
ブル先生の方針で、組み合いになっても廻しをとって投げるのは禁止だった。手をかけてもいいのは「前みつ」だけ。「廻しをとるなんて十年はやい!」というのがブル先生の口癖だった。子ども心に「十年もやらないって、相撲」と思った。

真面目にやってみると、相撲はめちゃくちゃ面白かった。
当時は理解できなかったが、廻しをとらない基本だけの稽古は「押さば押せ、引かば押せ」を教え込むための設定だったのだろう。
相手の「押す」の軸をずらしつつ、相手の中心線にこちらの「押す」を合わせる。相手のバランスを崩せば、廻しをとらなくても投げは決まる。
わりと早くそのあたりのコツをつかんだ私は、体重では3、4番手だったけど、即席相撲部で最強の力士になった。
ブル先生がいないときに廻し姿でやったシュールな「かくれんぼ」を含め、嫌々招集された相撲部はとても楽しかった。

胸に傷痕をもった少年

愉快な日々は過ぎ、区大会の日がきた。うろ覚えだが、会場は庄内川の近くのどこかの神社の境内だったと思う。それなりに立派な土俵があり、廻しを締めた小学生が100人くらい集まった。さすが団塊ジュニア世代。
5対5の団体戦の初戦に、私は大将として出て見事勝ち、チームも勝利した。

苦い思い出となる出来事は2回戦で起きた。相手チームはブル先生の見立てでは優勝候補の一角だった。
「気合い入れていくぞ!」というブル先生のかけ声をよそに、私たちの目は対戦相手のひとり、見事なお相撲さん体型の少年にクギ付けになっていた。
その少年の胸のど真ん中には、大きなケロイドがあったのだ。
胸の上部からみぞおちあたりまで、場所によっては幅2センチほどの濃い赤紫色の膨らみが走っていた。
誰かが「うわ、きもちわる」ともらした。
別の誰かが「あいつとはやりたくねー」と言った。
『サンクチュアリ』の静内の対戦相手のような戦略的な悪気はなかった。
でも、距離と音量を考えれば、相手の耳にも届いたはずだった。
私自身、口にこそ出さなかったが、巨大なケロイドを不気味に感じていた。

ブル先生が初戦とは順番を組み替え、私は中堅(3番手)にまわった。
そして相手の中堅となったのが、そのケロイドの少年だった。

先鋒、次鋒の勝敗は覚えていない。
自分の出番が回ってきたとき、私はちょっとしたパニック状態だった。
いつもの「頭をつけてハズ押し」のためには、彼のケロイドのど真ん中に頭を突っ込まなければいけない。
それは二重の意味で、私を戸惑わせた。
まず、正直にいって、気持ちが悪かった。そんなに赤く腫れ上がったケロイドには、触れたこともなかった。
どんな感触なのだろう。
つぶれて出血したりはしないのだろうか。
「部位」への接触が相手にどんな作用をもたらすか分からないのも戸惑った理由だった。
あんな腫れた状態の皮膚を触られて、痛みはないのだろうか。
痛みはなくても、「それ」を触れられるのが嫌ではないのか。

パニックのまま「はっけよい」の声がかかり、相撲が始まってしまった。
腰がひけた私は「頭をつけてハズ押し」ができなかった。組み合った後、胸と胸を合わせたときのケロイドの感触でさらに腰がひけてしまった。
それでも何とか土俵の中央でもみ合っていると、さっと行司の軍配が相手にあがった。
「え?」と思った直後に土俵の周囲からどっと笑い声がわいた。
いつの間にか、私の廻しがほどけて落ちていた。
いわゆる「もろ出し」あるいは「不浄負け」というヤツだった。
なお、体育用の半ズボンの上に廻しをしていたので、物理的な意味で「もろ出し」は避けられた。

エースの私の負けも響いてチームは敗退。短い相撲部時代は幕を閉じた。
ケロイドの少年の小学校が優勝したかは覚えていない。
彼とはその後、二度と会うことはなかった。

思い切り相撲をとれば良かった

私の左ももには幼いときの大ヤケドの痕がある。直径は10センチほど。今は色があせているが、中学生くらいまではクッキリ目立つ状態だった。ヤケドを負った「謎」についてはこのnoteに。

私自身はヤケドの痕を気にしたことはなかった。痛みはまったくないし、本人は完全に忘れていた。男子だから、ということもあるだろう。
大人になって、ある友人に「水泳の時間とかにヤケドの痕を見るとギョッとしたし、話題にしちゃいかんと思ってた」と言われ、こちらがビックリした。

対戦した少年は私のようなノーテンキな性格ではなかったかもしれない。
ケロイドは激しい接触で痛む性質のものだったかもしれない。

かもしれない、けれども、それでもあの少年は「相撲の試合に出る」という選択をしていたのだ。
「押さば押せ、引かば押せ」という勝負の場に出てきていたのだ。
気味悪がったり、遠慮したりせず、思い切って相撲をとればよかった。
もちろん、これは後知恵の話だ。
少年時代の私は、そんなに賢明でも、勇敢でもなかった。「ああすれば良かったのに」と振り返る、人生の中に山ほどある苦い思い出のひとつでしかない。

『サンクチュアリ』という稀有な作品との出会いでほろ苦い記憶が蘇った。
ほろ苦いだけではもったいないので、元相撲部最強力士として、ちょっとだけ「復活」しようかな、とも思っている。
実はこれまでも、思い出したように四股や「ハズ押し」をやることがあった。人目がない時に、隠れるようにして。
ブル先生が教えてくれた相撲の稽古(のまねごと)は、なぜだか腰が据わる感じがして気持ち良いのだが、なぜだかちょっと気恥ずかしいのだ。
あ、でも、今やると『サンクチュアリ』かぶれに見えそうで、ちょっとイヤだな。
ブームが落ち着いてから、ガレージで四股でも踏むか。

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