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「日本のヒルビリー」だった私

年が明け、いよいよ受験シーズンだ。
この季節になると、大学進学のきっかけになった中学時代の友人との会話を思い出す。私の人生のコースを大きく変えた、何気ない一言を。

「どこにいるの?」という人々

もう何年も前、某バリバリのエリートの方と雑談していて、ふいに「最近、車の免許の更新に行ったんですよ」という話題になった。
その方は笑顔で何気なくこう言った。

「あれ、普通に生きてたら接点のない、ビミョーな人たちと時間と空間を共有する貴重な機会ですよね。『僕たち、会ったことないよね? みんな、普段どこにいるの?』って感じで…」

彼の目は「ねぇ、高井さん」と同意を求めていた。私はあいまいな作り笑いでやり過ごした。
この人は紳士的なナイスガイで、気が合う話し相手だ。
それだけにこの発言には軽いショックを受けた。

なぜなら、私は、その「どこにいるの?」という社会階層で育ったからだ。
見た目がシュッとしてて(←マイブーム)、いつも機嫌良さそうなので、昔から「何の苦労も知らないお坊ちゃま育ち」と勘違いされることが多いのだが、実際は真逆。人は見かけによらないものです。

米国の底辺「ヒルビリー」

米国でミリオンセラーとなり、日本でも話題になった『ヒルビリー・エレジー』という本がある。

Amazonの内容紹介を抜粋する。

無名の31歳の弁護士が書いた回想録が、2016年6月以降、アメリカで売れ続けている。著者は、「ラストベルト」(錆ついた工業地帯)と呼ばれる、オハイオ州の出身。貧しい白人労働者の家に生まれ育った。
回想録は、かつて鉄鋼業などで栄えた地域の荒廃、自分の家族も含めた貧しい白人労働者階級の独特の文化、悲惨な日常を描いている。ただ、著者自身は(中略)今やほんのわずかな可能性しかない、アメリカンドリームの体現者だ。そんな彼の目から見た、白人労働者階級の現状と問題点とは? 勉学に励むこと、大学に進むこと自体を忌避する、独特の文化とは? アメリカの行く末、いや世界の行く末を握ることになってしまった、貧しい白人労働者階級を深く知るための一冊。(太字の強調は筆者=私)

ヒルビリーは、「レッドネック」「ホワイト・トラッシュ」とも呼ばれる。
身もふたもない直訳なら「クズ白人」といったところだろう。

本書をもし未読なら、ぜひ読んでみてほしい。内容はもちろんのこと、訳文もリリカルで素晴らしい読み物だ。
トランプ大統領を生んだ土壌を知る、という意味合いだけでなく、準主人公の著者の祖母が「ショットガンを持った『佐賀のがばいばあちゃん』」みたいな強烈かつ味のあるキャラで、一気読み必至のエンターテイメント性もある。

「シンナー泥棒を捕まえたら友達」の世界

私も、この著者のように、ヒルビリー的な世界で育った。

子供の頃、自営業(看板屋)だった親の会社の倒産で借金を抱え、我が家はそれなりに貧乏だった。
住んでいたのは、「お金持ちから貧乏人まで、幅広く取り揃えております」という、70~80年代の日本としてそう珍しくもないお土地柄だった。なので、幸か不幸か(おそらく幸、なのだろう)、友達にも似たり寄ったりの貧乏人がいて、「なぜウチだけ」みたいな劣等感はなかった。お金持ちはちょっとうらやましかったが。

貧乏は1つの構成要素ではあるが、それだけでヒルビリーになるわけではない。
重要なのは環境だ。具体的には、周囲にロールモデルがなく、コミュニティ内部に人生の広い選択肢を提示するメカニズムがないことが、ヒルビリーをヒルビリーたらしめている。

私の父は中卒で修行に出た職人で、母は商業高校卒だ。私が中学3年の時点で、兄2人は工業高校を出て就職していた。大学に進んだ「いとこ」はいたが、会うのは正月ぐらい。
普段、看板屋というガテン系の家業の手伝い(という名の強制児童労働)で接するオトナは、職人さんや土建屋のオヤジなどヒルビリー感満載だった。
あるとき、職人さんが子連れ(という名の強制児童労働)で現場に入っていて、昼食後、小学校3年生ぐらいのその職人ジュニアが慣れた手つきで煙草を取り出して食後の一服をつけたのには、さすがに驚いた。

自分の人生でヒルビリー感が最も高まったのは中学時代だった。
何だか「俺も昔はヤンチャだった自慢」みたいになってしまうのだが、雰囲気をつかんでもらうため、いくつかエピソードを紹介しよう。

・授業中、教室の対角線上でピンポン玉とほうきで野球をやる連中がいた
・閉まっている廊下の防火扉を開いたら「行為」の寸前の男女がいた
・その2人は同級生で、そろってシンナーでラリっていた
・しかも女の子の方は幼稚園以来の友人で、私の人生初デートの相手だった
・校内の受注型万引きビジネスが発覚し、ニュースで取り上げられた
・我が家(看板屋)に入ったシンナー泥棒を父が捕まえたら私の友人だった
・捕まえた時点で、のちにヤクザになるそいつはベロベロにラリっていた
・学校のトイレで理由もなくモップで不意打ちされた友人が病院送りに

キリがないので、この辺で。もう、とにかく、ひどい有様だった。
もちろん、こんな連中は少数で、裕福な家庭や普通のサラリーマン世帯の子供もたくさんいて、そちらが多数派だった。
だが、まことに、まことに残念なことに、私は上記のような「クズ」系と親交を深めてしまい、中学1年から中学2年の1学期の途中まで、どっぷりとではないが、片足を突っ込んでいる一員となってしまった。

体質的に受けつけないのと、続けていたバスケ部の活動に影響が出そうだったので、煙草もシンナーもやらなかった。ろくに勉強もしなかったが、成績もそんなに悪くはなかった。
だが、一時期、ろくでもない連中とつるんで、ここではコンプライアンス的にちょっと書けない、実にろくでもないことをやらかしていた。
盗んだバイクで走りだして夜の校舎の窓ガラスを壊して回るといった、尾崎豊風の牧歌的な範囲にとどまらず、犯罪レベルの真のクズの道に迷い込んでいた。
当時の私がどれほどアホだったかは、「大人になったら、地上げや詐欺でぼろ儲けしよう!」と真面目にインテリヤクザを目指していた一事をもって、説明し尽くしたことにしたい。
実際、周囲には、地元の暴走族(ブラックエンジェルス、とかそんな名前だった気がする)からヤクザにスカウトされるリクルートコースがあった。

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(この写真だけで、どれだけバカだったか分かる。左端が私)

中2の夏前、私は「ヤクザはリスクが高いし、そこまで根性ないから、やめておこう」と悟るようになった。その他いろいろ、詳細は書けないが心底嫌になる事件が重なって、私はクズ軍団から離脱した。

無論、ヤクザみたいなもんだから、足抜けの代償はあった。
忘れられないのは、ある日の授業中の出来事だ。
元仲間の数人が教室の後ろでギャーギャーと騒いでいた。授業が成り立たないので「おい、ちょっと静かにするか、もう出てけよ」と注意した。
その数十秒後。
教壇近くに座っていた私を、新米の社会科教師が真っ青な顔で、口に手を当てて見つめている。まわりの生徒も、すっと私の席から遠ざかった。
不穏な気配に振り返ると、さきほど注意した集団の一人のSが、椅子を振りかぶり、まさに私に向かって振り下ろそうとしているところだった。

気づかず後頭部に一撃を食らったら、病院送り必至だっただろう。
私は、無言で、「お前、それ、本気か?」と目で問い返した。
もう身をかわす余裕はない。ガードしても、腕の骨折ぐらいは覚悟しなければならない。
にらみ合ったのは十数秒くらいだったと思うが、ずいぶん長く感じた。
結局、彼は椅子を降ろして、「かっこつけてんじゃねーよ!」と叫んで、教室の後ろの不良仲間のたまり場に戻っていった。
助かった、とは思ったが、この事件はショックだった。
Sはその頃、誰彼構わず殴り掛かるようなどうしようもない不良だったが、私にとっては小学校からの一番の親友でもあったのだ。

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(我が母校の最近の写真。在校時より綺麗になっているなあ)

良い選択が「見えない」

ヒルビリーエレジーの紹介文を再引用してみる。

勉学に励むこと、大学に進むこと自体を忌避する、独特の文化

同書で著者は繰り返し「ヒルビリーの病」は自分の人生を切り開く選択、たとえば大学進学といった道が見えないことだと強調する。
選択できない、のではない。そんな選択自体が思いもよらない、「見えない」のだ。
紹介文で「忌避する」となっているが、これは正確ではない。「忌避=積極的に選ばない」のではなく、周囲にロールモデルがないから、何をどうしたらいいのか、分からないのだ。

私自身がそういう意味でまさにヒルビリーで、大学進学という選択肢は全く見えていなかった。

実際、中学3年の1学期の半ばごろにあった進路相談の個人面談直前まで「進学先は愛工でいいな」と決めていた。自転車で10分弱の地元の工業高校には、仲の良い友達が大勢行くのが分かっていた。

だが、その進路面談の直前、友人Gと交わした会話が、私の人生のコースを変えた。

サッカー部のエースだったGとはウマが合い、中3で同じクラスになってからはほぼ毎朝、コンビニで待ち合わせして一緒に登校するほど仲が良かった。
なのに、それまで一度も、進路のことを話したことはなかった。
このあたりもヒルビリー感が漂うところで、友人間で進学の話題を持ち出すのは「カッコ悪い」という謎の空気があった。

「大学行かないの?」

前の生徒が長引き、廊下で待たされている間に、Gが何気なく聞いてきた。

G「高井っちゃん(小学校以来のニックネーム)、高校どこにすんの?」
私「ん?愛工。電気科か、機械科か、どっちかかな」
G「は?」
私「え?」
G「いや、高井っちゃん、俺より成績いいのに、普通科にしないの?」
私「普通科って…普通科行ってどうすんだよ」
G「だって、大学行かないの? 俺はY高の普通科にするよ」
私「大学? 大学ってなんだよ。俺が大学行って、どうすんだよ」
G「高井っちゃん、頭いいし、ちょっとやれば西高とか行けるっしょ。そしたら普通に大学だって行けるっしょ」

会話は中途半端に終わり、私の面談の番が回ってきた。Gの言葉に戸惑ったまま、担任と向かいあった。

担任「で、お前、志望校は?」
私「愛工のつもりなんですけど」
担任「ふーん。ま、成績的には楽勝だし、いいんじゃないか」
私「でも、なんか、Gが、普通科行って大学行けばって言うんですけど」
担任「ああ、大学進学も考えてるのか。普通科行くなら、もうちょっと受験対策しないとな」
私「いや……あの……俺でも行けそうなモンなの、大学って?」
担任「お前、やれば勉強得意だろうから、大丈夫だろ」
私「……」
担任「ひとまず親と相談してみろ」

その日の夜、プチ家族会議が開かれた。
私「なんか、普通科行って、大学行くとかってのもアリらしい」
父「ふーん」
母「それはいいけど…大学って、いくらぐらいかかるの」
私「知らん」
母「先生に聞いてきて」

翌日、私は担任を捕まえた。
私「先生、大学って、金かかる?」
担任「私立の授業料は年間100万とかいるかもしれんが、国公立なら40万円ぐらいじゃないか?」

はい、消えた。大学、無理です。ウチの貧乏度から私はこう即断した。

再びの家族会議。
私「1年で40万とかかかるらしい。私立は100万だって」
父「ふーん。高いな」
母「私立は無理!」
私「というか、国立でも無理じゃない?」
母「お金はともかく、アンタは、どうしたいの」

どうしたい?
どうしたいも、こうしたいも、ない。
私はこの時点で大学が何をする場所なのか、大学進学にどういう意味があるのか、全く理解していなかった。

地元の名古屋大学は、名前は知っていたが、場所は知らなかった。
本を良く読む子供だったので、一般常識として東大、京大、早稲田、慶応やら六大学といった「単語」は知っていた。
でも、それは地続きの世界にはなく、作家や科学者なんかのプロフィールや、小説やマンガの舞台になる「自分とは無関係な場所」でしかなかった。

自分のなかで一番リアルな大学生像はドラマ『ふぞろいの林檎たち』の時任三郎や柳沢慎吾で、「恋愛やバイトに勤しむ訳の分からない日々を送る若者」というイメージしかなかった(実際なってみたらその通りだった)。

「俺、名大行くわ」

ここまで書いてきて、実はちょっと困っている。
ここから「普通科→大学進学」というコースを選ぶまでの成り行きを全く覚えていないのだ。
担任以外の何人かの教師や、普通科を目指していた親しい友人に話を聞いたような気はする。助言の中身は「大学に進んだ方が将来の選択肢が広がる」とか、そんな一般論だっただろう。コレという決め手があったわけではないが、「どうやら自分は大学に行った方がよさそうだ」ということはわかった。

普通科進学を決心した私は両親に「俺、普通科行って、んで、名大行くわ」と伝えた。なぜ名大(名古屋では「めいだい」といえば名古屋大)かといえば、この時点で自宅から通える公立の大学は名古屋大学しか知らなかったからだ。
授業料が年40万なら、自宅住みで、大学行きながら家業も手伝ってバイトもやれば、何とかなるだろう、と思った。
最終手段として、昔から私のことを可愛がってくれていた「ゴッツ」というニックネームの厳ついルックスの叔父(故人)に泣きつけば、授業料くらい貸してくれそうな気もした。

ここまで読んだ方は「カネがないなら、奨学金ってもんがあるだろうが」とツッコミを入れたくなっているかもしれない。
だが、大学についての知識がほぼゼロだったから、親も私も奨学金などという制度があることを、ほとんど知らなかった。
間抜けなことに、私は、小説やノンフィクションを読んで、フルブライトやローズといった海外の奨学金制度の存在や影響力については、ぼんやり知っていた。なのに、奨学金というシステムが自分と地続きで、似たようなものを自分が使えるなんて、考えたこともなかった。

こういう無知の積み重ねが、ヒルビリーの真骨頂なのだ。

なお、後日譚になるが、実際に名大に入学してみると経済的には極めて厳しく、偶然、大学1年の冬に追突のもらい事故にあい、4年分の授業料を賄えるほどのまとまった慰謝料が入る幸運(?)に助けられたのだが、その話はまた別の機会に。この時のむち打ちの後遺症はまだ残っている。

机のない受験生

こんな経緯で私は中3の夏、突然、ちゃんとした受験生になった。

その時点で、小・中学校を通じて私の自宅勉強時間は「実質、通算ゼロ」だった。毎日の勉強の習慣がないというレベルではなく、人生通算でほぼゼロだ。学校の授業以外で教科書を開くことは皆無だった。
漢字ノートなどのノルマ系宿題を自宅でやることはあった。夏休みの宿題はさすがに自宅でやったが、薄い冊子を初日に2時間ほどでやっつけたら、翌日からは、勉強ゼロ。

それでも小学校では成績が「上の中」、中学でも「中の上」か「上の下」ぐらいだったのは、勉強自体は得意で、授業はちゃんと受けていたからだと思う。分からないことがあるとイライラする性分なので、授業の内容が理解できないのを放置することはなかった。復習はゼロだから、テストの時点では忘れてしまっていることが多かったけど。
あと、乱読ではあったが、読書量は大半の優等生諸君より多かったと思う。

そんな私も、にわか受験生として、夏休みからは少しずつ各教科の問題集をやるようになった。ウチにそんな金がないのは分かっていたので、塾に行こうとは考えたこともなかった。

問題は自宅学習の環境だ。
当時、私には、自分の個室どころか、自分の机もなかった。なぜか三兄弟で上の兄だけが勉強机を持っていたのだが、借りたことはなかった。下の兄は勉強という営みを人生から排除して生きていた。
机がないので、私の勉強場所は、1階の居間のちゃぶ台というか、こたつテーブルだった。
インフラは別に何でも構わないのだが、昼間はガラス戸1枚の仕切りしかない仕事場から、電動ノコギリやらの作業音が鳴り響いてくる。
夜は、家族が居間でテレビを見るので、その間は使えない。2階で寝転がって教科書や参考書を読む。家族が寝てから入れ替わりで1階に行く。

こんな調子で、そんなに根を詰めるわけでもなく、ゆるーく受験勉強をやってみたら、成績はグングン伸びた。
当時、名古屋には学校群という制度があった。興味があったらリンクはこちら。当初、近所の「西高」を含む「4群」狙いだったが、最後には「6群」を受験することになった。記憶が曖昧だが、偏差値でいえば50そこそこから60ぐらいまで伸びたように思う。

最終盤を襲った「最悪の現場」

出遅れ気味のにわか受験生にとって「6群」は合否ギリギリラインの、そこそこの難関だった。勝負の分かれ目は冬休みの追い込みだ。
当時の私は「これ1冊、かっちりやろう」と決めて、総まくり的な問題集を用意していた。

ところが、である。
その冬、それどころではない大変な事態が我が家を襲った。
高井家で今も「四日市のあの伝説の現場」と語り継がれる、最悪・最恐の案件を受注してしまったのだ。

詳細は別の機会に書こうと思っているが、この四日市の某パチンコ店のネオン看板のリニューアル工事は、空前絶後の厳しい現場だった。
かなりの高所なのに足場がちゃんと組めず、ネオンの配線を頼んだ電気工事の職人さんが一目見て「用事を思い出した」と逃げ出すほど、危なっかしい作業環境だった。
長年の手伝いで命綱無しの高所作業に慣れていた私でも、「これ、今、手がすべったら、死ぬな」と冷や冷やしながらビス止めなどをやっていた。
しかも、もともと納期が超シビアなのに工事は遅れに遅れていた。
苛立ったパチンコ屋のオーナーから、我が家に怒りの電話をかかってきたこともあった。怒声が韓国語だったので内容は理解不能だったが、激怒しているのだけは分かった。

忘れられないのは、父が「すまん、助けてくれ」と息子たちに頭を下げたことだった。
父が弱音を吐くのを見るのも、親に頭を下げられるのも、私にとって初めてのことだった。
私は結局、元日以外の2週間、朝から晩までフルに現場に入って手伝う羽目になった。就職していた兄も参戦する総動員体制だった。
一点物のネオンをヘルプの職人さんが割ってしまうなどトラブルに見舞われながら、最後は父が半分徹夜の突貫作業をやり遂げ、この地獄の現場は滑り込みセーフで納期に間に合ったのだった。

家業のピンチは乗り切った。
だが、朝の7時か8時にはトラックに乗り込み、夜の8時か9時に疲れ切って帰宅、というサイクルでは、受験勉強に時間と体力を割くのは不可能だった。

そこは「安全地帯」だった

そんな大誤算にも関わらず、私はなぜか「6群」に見事合格した。
担任が「お前、ヤバそうだから、内申を盛っておいてやる」と粉飾してくれたのが効いたのかもしれない。

「6群」のうち、希望していたのは自宅&繁華街から近い名門・明和高校だった。だが、非人道的な強制振り分けで、遠くてド田舎の中村高校に回された。今は学校群制度廃止でずいぶんと偏差値的には凋落したようだが、当時は明和との抱き合わせ効果で、そこそこの進学校だった。

入学のガイダンスがあり、クラスの友達もできて、バスケ部にも入った。
新天地に慣れてきた私は、学校のムードが中学時代と全く違うことに驚いていた。
最大の違いは「この学校には、身の危険がない」という安心感だった。
最初にリストアップした「トイレで訳もなくモップで襲撃される」というのは一例で、中学校時代は、似たような暴力沙汰が頻発していた。
安全地帯は、ヤンチャな真似をすれば問答無用で不良を殴り倒す体育教師の目が届く場所だけだった。その体育教師も、卒業式後のお礼参りで不良に袋叩きにされ、病院送りとなった。

そう、私は、G君の一言をきっかけに、某金融マン氏の言葉を借りれば「普通に生きてたら接点のないビミョーな人たちと時間と空間を共有しない」ところへと居場所が変わっていたのだ。

そうはいっても、育ちはヒルビリー。自分は急に変わるはずもない。
初めのころこそクラスメートにならって予習してみたものの、そのうち、授業の進行の一歩先を走り続ける「授業内予習」というテクニックを身に着け、復習は苦手なので敬遠し、自宅学習時間はほぼゼロに逆戻りした。
テスト前には部活が休みになるので夕方まで友人宅でゲームをやりまくり、試験対策は夕食後に1~2時間やればマシな方。
そして、相変わらず、自宅には自分の勉強机はなかった。

バスケ漬けの高校生活はあっという間に過ぎ、高校3年の夏休みになってようやく本格的な受験対策を開始した。
何のことはない、中学時代と同じパターンである。
私立に行く余裕などあるはずもないので国公立一発勝負、というか、志望は名古屋大学一択と決めていた。
遅まきながら過去問を見て、自らの絶望的な出遅れ加減に驚き、遅れを取り戻すために夏休みは毎日10時間以上を、合否のカギを握る数学対策に費やした。

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(引退試合後の1枚。バスケ三昧で受験対策は高3の夏まで先送りに)

人生初の猛勉強の成果で、夏休み前まで「中の中」ぐらいだった成績は、冬には「上の中」まで上がった。

そして、私は、中3のときG君の一言をきっかけに思い付きで決めた通り、名古屋大学に現役で合格した。
最後まで、勉強机もなく、小中高と一度も塾にも行かず、系統だった勉強の仕方を知らないままのヒルビリー感の漂う独学だったが、何とか滑り込んだ。

ちなみに、大学でもサークルでバスケを続け、そこで高校のバスケ部の同級生だった女の子と再会して、後にその人と結婚し、娘が3人も生まれて現在に至る、という感じなので、G君は、何気ない一言で、大学進学だけじゃなく、私の人生のコースを丸ごと変えてしまったのだった。
何となく、カオス理論のバタフライ効果みたいな話である。

いつまでも消えない違和感

ヒルビリー・エレジーの著者、J.D.ヴァンスは、エリート層に抜け出した後も、自分の価値観の根っこにはヒルビリー的な要素が強く残っていると述べている。
そして、現状は仮の姿で、どこかで自分にウソをついているような、罪悪感とも違和感とも言えない妙な気持ちを持て余すことがあるという。
ヒルビリー・エレジーで私が最も共感したのは、「良い選択自体が見えない」という実態と、このヴァンスの指摘する「いつまでも消えない違和感」の2点だった。

私も時々、自分が大学を出て新聞記者になり、海外駐在までして、デビュー作の著書が何万部も売れている事実に、「ホンマかいな」と笑ってしまうような気分になることがある。

そんな時、私の心は、中学時代にロクでもない連中とたむろしていた、高層団地の屋上へと飛ぶ。
シンナーに酔って飛び降りようとした仲間を数人がかりで止めたこと。
備え付けの消火器を片っ端から噴射して回る奇癖をもった友人のこと(本当にすいません、私はやってません)。
誰かが家から持ち出したウイスキーを回し飲みして友人の一人がひっくり返ったこと。
その他もろもろ、とてもここでは書けないような様々な出来事を思い出す。
あそこでは、勉強ができることなど何の価値もなく、読んだ本のことを話す相手もおらず、腕っぷしとロクでもないことをやらかす度胸だけが群れの序列を決め、面白おかしく退屈しない日々を過ごす、先の見えない生き方があった。
そこには、刹那的ではあるけど、「人生、深く考えなくたって、何とか楽しくやっていける」という開き直りというか、ある種の清々しさもあった。

多分、私はこれからも、どこかにヒルビリーな精神をもったまま、生きていくことになるのだろう。
シュッとして(←くどい)、ニコニコしているので、出自を知らない人には「それ」は全く気取られず、「苦労知らずのお坊ちゃま育ちは、いいねえ」なんて勘違いされながら。

それはそれで、まあ、悪くないか、と自分では思っている。

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ご愛読ありがとうございます。

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