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水の中で、今、ここにいる

相変わらず、プールに通っている。週に3~4回は行っている。
水泳は去年の夏からはじめた。その前は、まったく泳げなかった。
速く、ではなく、ゆったり長く、を追い求め、平泳ぎはできるようになった。50歳で泳げる人になれた。

通っている区営のプールには「サカナさん」がいる。さかなクン、ではないし、本名でもない。私がある常連さんに勝手につけたニックネームだ。
サカナさんは、月に1回くらいしか会わない。こちらの頻度を考えると、たぶん月に2回くらいしか来ていないのではないだろうか。
サカナさんは30歳ぐらいで背は170センチほど。見事なスイマー体型。いつも黄色の競泳用のピッチリ水着を履いている。

私が彼をサカナさんと呼んでいるのは、まるで魚のように泳ぐからだ。
空いている時には中上級者用の「往復」コースをひとりで使い、あっちへ、こっちへ、25メートルの間を何度もターンする。
泳法は決まっていない。
ターンして、バタフライを一発入れる。もう真ん中を超えてしまう。
水中で反転して背泳ぎになって息継ぎを入れ、ふたかき。
また反転してクロールに戻り、ターン。
折り返したら水中をドルフィンキックでグイグイ進む。
浮上すると平泳ぎですいすい。
といった具合だ。

サカナさんはそのプールで最速のスイマーではない。たまに遭遇する「現役ガチ勢」の若者たちの方が、速い。ものすごく速い。毎度びっくりし、毎度あきれる。

でも、プールの中で一番自由に見えるのは、サカナさんだ。

私はサカナさんと一緒になると、ちょっと離れたコースの端でもぐって、水中から泳ぎを見る。
本当に、気持ちよさそうだ。まさに、水を得たサカナさん。
弾丸みたいな体勢で体をくねらせるサカナさんをみると、前世はイルカかマグロだったのでは、と思ってしまう。

かたや、私のクロールは、練習しているけれど、なかなか上達しない。平泳ぎは延々と泳げるが、クロールは50メートルで息が切れてしまう。
キックをツービートにして、ちょっとだけ「ゆったり長く」の道が見えてきたくらいレベルだ。
どうしようもなく、陸生哺乳類だ。
サカナさんのように泳げたら、幸せだろうな、と思う。
それは、優れたミュージシャンが演奏中に自由でいられるのと同じような在り様だろうか、と想像する。

ビリヤードでは何年かに1度、あるいは一晩に数分だけの刹那に、そんな感覚を持てることがある。
テーブルとボールとキューと自身が一体になって、「なんでもできる」と感じる時間が、ふいにくる。
その時、自分は世界の中心にいて、同時に自分が消える。
時間も消える。
「今、ここにいる」という感覚だけが研ぎ澄まされる。
私は、それを味わうためにビリヤードをやっている、と言ってもいい。

遅咲きスイマーが、水泳でそんな境地に達する日は来ないだろう。
それでも、先日、水の中で「今、ここにいる」と感じることがあった。
全7コースの真ん中を泳いでいて、ちょうどその真ん中にきたとき。
プール全体のど真ん中に自分が浮いているのに気づいた。
その瞬間、プールの水全体と、同じプールの中にいる人たち、そして自分自身が、「今、ここにいる」と一体で感じられた。
とてもリラックスできて、気持ち良かった。

プールの端までたどり着いて、周りを見回した。
往復コースで仲良く泳ぐ高齢の女性ふたり。
歩くコースでいつもクロールのフォームチェックをしているミスターシャーク(命名高井)
赤ちゃん水泳教室でパチャパチャする10組ほどの親子たち(一組はお父さんだ)
無言でクロール(のようなもの)で泳ぎ続けるノタクリさん(同)
いつもいる人も、そうでない人も、それぞれのやり方で過ごしている。

水の中を、もうひとつの自分の居場所にできたら、いいな。
まずはクロールの息継ぎをマスターしないと。

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