【小説】カニ食いさんのお悩み相談 第一話
〈本編3,838文字〉
とある地方都市を縦断する一級河川は日本の名水百選にも選ばれている清流ではあるが、利用者の多い国道やJR路線の橋が上を横切っていることもあり、市外の人々はおろか市民ですらその流れに美しいイメージを抱いてはいない。
そのため、五月下旬だとまだまだ水が冷たいということを彼女以外の者が知らないのも無理は無いだろう。
高速道路は強い初夏の陽射しをしっかりと受け止め、その巨躯からややズレた辺りにひんやりとした影を作り出している。影に浸った川はそれでも清さを失わず、水中の人影を隠すことなどしない。
泡が立ち、やがて彼女は浮上する。
首筋に張りついたブルーベリー色の髪に、水滴を弾く浅黒い肌。彫りの深いエキゾチックな顔立ちをしているが、その唇の隙間から滑り出た言葉は日本語だった。
「腹減った~!誰か恵んでくれ!」
コンクリート製のずんぐりむっくりな洞穴に、少し低めの声が響く。しかし純度100%の煩悩に応える者などおらず、彼女は首から上だけを水面から出して平泳ぎ擬きをしながら岸まで向かった。
「かーにっ、かーにっ、かーにっ、かーにっ!」
単純で怪しいおまじないを唱えながら足が着く所まで到着すると、彼女は歩いて川から上がる。一糸纏わぬ裸身は起伏に富み、艶やかな髪や長い手の指先から水が滴っていた。
彼女はキャラメル色の柔肌を惜しげも無く晒しながら橋の根元にある自分の寝床へ向かい、その途中でふと視線を落とす。
そこには一匹のカニがいた。彼女と同じく寝床へ向かっているのだろうか、石造りの険路を横歩きで懸命に進んでいる。
「あんたもあたしと同じ?」
彼女は身を屈めてカニをつまみ上げ、落書きのような両目と視線を合わせた。
そして、一息に。
「でもあたしとあんたの違いは食うか食われるかってとこ」
口に放り込み、よく噛んでから飲み下した。
「それでさ、美温ちゃんはいろんな会社の人に相談して人脈を広げて、協力を取りつけまくって起業したんだって!すごくない?」
遼花ちゃんが早口で捲し立てるのを聞き流しながら横目で見た六月初旬の空は、灰色の雲が押し潰されたように低く広がっていた。ほのかに雨のにおいもする。
「美温ちゃんと一緒にいると、いろんなことを知れるんだよね。すごくわかりやすく優しく面白く教えてくれるの」
ふーん、と気の無い返事をしながら、わたしはChromebookで駿台模試の受験前登録を進める。「国数英の三教科で実施されるのはこれが最後」と担任がしつこく繰り返していたが、だからどうしたというのだろうか。わたしにはわからない。
『だからどうした』といえば、さっきから遼花ちゃんが口にしている美温ちゃんのこともそうだ。
美温ちゃんは、はっきり言ってクラスの人気者だ。学年全体でもかなりの有名人だろう。美温ちゃんとは二年生になってから一緒のクラスになったのだが、わたしみたいな三軍女子でも前々から噂は頻繁に聞いていた。
どんなテストでも、もちろんそれが体力テストでも、成績は常に学年で上から五番以内。課外活動にも積極的に取り組んでいて、英語スピーチコンテストなんかで賞をもらってよく終業式で拍手されている。明るくて真面目だから先生達からの信頼も厚いし友だちも多い。小顔でかわいくて脚が長くて高身長で髪サラサラでおっぱいとお尻が大きくていい匂いがする。
美温ちゃんの噂には悪いものが一つも無かったし、成績がいい人にありがちな突拍子もないエピソードも無かった。いや、低身長スレンダー派からしたら後半は悪評かもしれないけど、とにかくみんなが美温ちゃんにいい印象をもっている。
でも、わたしはあの子のことが嫌いだ。
どこが嫌い、というのは具体的に言語化できない。だからただのやっかみだと思われても仕方がない。わかってる。でも、わたしは美温ちゃんが大嫌いだ。
嫌味が無いようにしようという努力が透けて見える。美温ちゃんの嫌なところを言い表すならこれだと思う。わたしの中のモヤモヤを充分に投影できた訳じゃないけど、これが一番近い。
できるだけ親しみやすいようなキャラを作ってるし、みんなのためになるようなことをしようと取り繕ってる。それが上手くいってるからこそ多くの人は彼女に夢中になるし、それで日々楽しく過ごせている人だっているだろう。
でも、やっぱり自己顕示欲を抑えきれてない部分はあるんじゃないか、と彼女を見ていて感じることはある。自分で言うのもカッコつけみたいで本当に癪なんだけど、わたしみたいに斜に構えてる人間は特にそういう偽善っぽい振る舞いに敏感だ。
しかも、美温ちゃんにはお山の大将みたいになってるところもある。みんながすごいすごいと褒めてくれて、実際に最近の起業も含めていろいろなことをやっているから、自分の行動は全て肯定と称賛に値するものだと勘違いしちゃってるのかもしれない。
事実、最近の美温ちゃんは主語が大きくて、自分の発言はみんなの代表意見ですとでも言わんばかりになっている。「こういうのは女子高生みんな好きだから」みたいな感じで。そんな訳あるかよ。
二年生が始まってすぐの頃こそ、噂の美温ちゃんはどんなに素晴らしい人物なんだろうと期待していた。
だが蓋を開けてみたら結構微妙な感じだったし、言ってしまえば一緒にいてストレスが溜まるタイプの人物だったから、わたしはできる限り美温ちゃんとは関わり合いにならないように努めていた。
でも、遼花ちゃんは美温ちゃんにどっぷりハマってしまった。遼花ちゃんは去年から同じクラスで、一緒にいてすごく楽しい子だったんだけど、二年生になってから美温ちゃんの話を頻繁にするようになった。とても困る。
わたしは美温ちゃんをヨイショする人達とも距離を取って生活してるんだけど、できれば遼花ちゃんとは仲良くしていたい。高校に入ってできた初めての友だちだし。
このままわたしが美温ちゃんの話に興味が無いアピールを続けていれば、それに気づいて話をやめてくれるかもしれない。でもそれは望み薄で、遼花ちゃんは日に日に美温ちゃんへ傾倒していっている。
「──だからさ、高校生だからって物怖じしないで、ガンガン行動していくべきだと思うんだよね。美温ちゃんみたいに」
遼花ちゃんの熱弁が締めに入った頃には受験前登録はもうほとんど済んでいて、わたしは十個もある私立の志望校欄をひと昔前に『ONE PIECE』のキャラと『うる星やつら』のOPを絡めた音MADで有名になった大学で埋めてやろうかと思っていた。
「高校生は高校生らしく、ってのも大事だと思うけどね。起業とかより前に青春しなきゃ」
わたしはChromebookを閉じて半ば独り言のようにぼやき、試す気分で遼花ちゃんを見る。だが遼花ちゃんの目線は他所に向けられていた。
わたしも遼花ちゃんが見つめる先に目をやると、手の指ぐらいの大きさのある何かがコツコツと窓にキスするように何度か接触していた。それはその後窓から離れてから大きく回って体の向きを変え、空いている方の窓から昼休みの教室に侵入してきた。
ブブブブブ、という恐怖感を煽る低い羽音を響かせ、それは女子しか残っていない教室を我が物顔で飛び回る。
「クマバチだ」
誰かが言ったが、誰もそれに対処しようとはしなかった。わたしのクラスの男子はゴキブリだろうがムカデだろうが平気で手掴みする強者ばかりなのだが、肝心なときにいない。みんな食堂にいるのだろう。
クマバチは重そうな体に反して教室内を自在に飛び回り、接近する度に女子達は小さな悲鳴を上げる。男子がいないのにわざとらしくかわいく怖がってみせるのが本当にウザい。
窓から逃げるのを待つしかないが、ここで駐輪場の屋根が音を立て始めた。雨が降ってきたのだ。クマバチは相変わらず出ていく気配が無く、雨粒が吹き込んでくるのを嫌がった窓際の席の子が窓を閉めてしまう。
強張った雰囲気が教室内を支配し、低い羽音だけがどんどん存在感を増していく。嫌な感じだ。美温ちゃんを筆頭とした一軍女子もいないから、誰も解決に向けて動こうとはしない。
何だか、こういうのがすごく腹立たしい。
「あ、津羽紗ちゃんこっち来るよ!」
遼花ちゃんが叫んで、わたしは首だけを横に向ける。クマバチはまっすぐこっちに突っ込んできたかと思えば、疲れてしまったのだろうか、わたしの机に着陸した。
クマバチは呑気に足で目元を掃除し始める。それを見ていたら無性に腹が立ってきて、わたしは素手でクマバチを思いきり叩き潰した。
バンッ!と乾いた音がして、変な汁が手のひらと机に広がった。
「……うーわ、汚いな。手洗ってこよ」
わたしはまずティッシュで手のひらと机に付いたクマバチの死体を取り除き、それから汁を拭きとって席を立つ。周りの女子からドン引きされてしまったかと思ったが、意外にも「良かった」とか「勇気ある」とかいった声が聞こえた。
ただ、遼花ちゃんだけはクマバチが死んだ部分とわたしの顔を交互に見て、
「クマバチって自分からは刺さないし毒も無いんだよ。できれば逃がしてあげた方が……」
「……遼花ちゃん、虫に興味あったっけ」
「いや、美温ちゃんから聞いたの」
「そっか。そうなんだ」
何だかそれ以上会話するのが面倒になって、わたしは教室を出た。
雨は思ったよりもずっと強くなっていて、じんわりと不快な汗が滲むような空気を作り上げていた。
〈つづく〉
「5,000文字ぐらいで終わるっしょw」とか思ってたら全然終わりませんでした。そのため、前後編に分ける羽目に……見通しが甘い。とか言ってたら複数話になりそうです。
無料コンテンツで5,000文字を超えてくるとどうしても流し読みになってしまうのはしょうがないことなので、物語を短く区切るということを練習していきたいです。たぶん創作大賞は今年もあるので、それに向けて。noteを戦場にするなら、それに合った戦い方をしなくちゃですからね。
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