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〈エッセイ〉あたし

どうしても尋ねずにはいられなくなった。

「Yさんはご自分の事を『わたし』じゃなくって『あたし』って呼んでますけど、それって昔からなんですか?」

「え?」
 
ブラインドを開けた教室の大窓を背にしているから、眩しい日差しがYさんの肩を背後から照らしている。彼女はこちらを見つめ、応えに窮している様子だった。
 
Yさんは二年前から私の教室で英語を勉強しているS町在住の女性だ。長野オリンピックに女子アイスホッケーの日本代表選手として出た方で、インターネットで検索すると、国外で行われた試合でカナダの選手に突進し、跳ね飛ばした相手と共にリンク上に倒れ込む勇猛果敢な写真が出ている。

身長は160センチだが、当時は体重が60キロもあり、太腿は講師の私の二倍の太さがあったのだという。今はすっきりと痩せられ、体重は40キロ台後半だそうだ。手脚が長く均整の取れた身体つきをされているが、その手と指は若い頃の激しい運動のせいか、がっしりと逞しい。

目がとりわけ大きく澄んでいて、少しそばかすは有りながらも、とても美しい目鼻立ちをしておられる。しかし彼女は一切化粧をしない。物を極力所有せずシンプルに生活しておられるミニマリストでもある。授業に来られる時はいつもスッピンで、お決まりのTシャツやフリース、二、三本しか持っていないと思われるジーンズだけ、といったいで立ちである。

とある休日に英語検定の問題集を届けにS町のご自宅にお邪魔したことがあるのだが、「お茶でもどうぞ」と勧められ、ご主人へのご挨拶もかねて上がらせていただいた2LDKのアパートの部屋には、驚くほど物がない。Yさんご自身が手作りされたカウンターテーブルとダイニングチェア、そしてテレビ、CDプレーヤーだけがリビングに置いてあるだけでとてもガランとしている。ひとつだけキャンプ用の椅子が置いてあるのだが、それは数年前に世を去った愛犬「クーさん」専用の椅子で、Yさんもご主人もそこに座る事はないという。ものが無いからとても広く感じるそのお部屋には見事に大きな窓があり、そこからたっぷりと日光が差し込んでいた。

老健施設の調理長を務めておられるご主人との間には子供はおらず、現在44歳。毎朝3時に帯広に向かって出勤するご主人に合わせてご自身も起床し、夫を送り出した後は午前5時から隣町の運送会社で荷物の仕分け業務をこなしておられる。そんなことからいつも夕方7時には床に就く毎日だという。男勝りの彼女は会社の作業員の中でもかなり頼られる存在のようで、ついついご自分の担当以外の仕事もカバーしてしまうのだそうだ。

もし彼女がきちんと化粧し、身なりもそれなりに女性っぽく整えれば、恐らくかなり目を引く美しい女性になるのではと思うが、そんなことは私の方から話すこともない。登山や森林浴が大好きな人でもあり、特に動植物や昆虫の知識が物凄く豊富で、そんな話をすると実に楽しそうに、様々な事を教えてくれる。

毎回真面目に授業を受けられ、英検二級に合格した後は、平均で1年半か2年はかかる準一級の試験にも、猛勉強の末、驚くことになんと三か月で合格を果たした。それは私が教えて来た受講生の中では最短記録である。元々は理科系の大学生で獣医師を目指しておられた頭脳の明晰さも手伝っていたのだろうが、準一級の合格を知った時には二人で声を上げて喜び、握手をした。

そんな彼女との会話の積み重ねの中で、いつも不思議だった「あたし」の自称。思い切って尋ねたのには理由があった。その授業の日の朝、彼女から珍しくラインのメッセージが届き、『先生すみません、あたし今日のレッスン、15分くらい遅れます』と書いてあったのだ。要するに彼女は会話だけではなく、物を書くときにも「あたし」を使っていたのを知ったのである。

私の問いにYさんは少し困惑したような顔を見せたが、やがてポツポツと説明してくれた。

「あたし…、若い頃から自分のこと、あたしって呼んでるんです」

「どうして? 何かきっかけがあったんですか?」

こちらの問いに彼女は恥ずかしそうに応えた。

「『私』って、できる大人が使う言葉のような気がして。未熟者のあたしは昔から『あたし』のままなんです。『私』って『わたくし』とも呼べるし、カッコいいじゃないですか。でもそれって、なんだか社会的な立場がしっかりした人だけが使う言葉みたいに思うんですよね。昔から自分の事を『私』って呼べるようになりたいとは思っては来たんですけど…、中身が幼稚でおバカなままなので、未だに使えないでいるんです」

自称の使い方にそんな深層心理があったとは予想外だった。確かにこの自分も時と場合に応じて「私」と「僕」、そして「俺」を使い分けてはいる。公の場では「私」、普通は「僕」、そして妻や距離のごく近い友人には「俺」を使う。でもそれはあくまでもTPOに沿ったものであり、Yさんのような心理の裏付けなどは存在しない。

「Yさんは未熟でもおバカでもないじゃないですか」

そう言うと彼女は笑いながら「未熟でおバカですよ、あたしなんて」と返し、こう続けた。

「化粧もお洒落も全く興味がないし、昔から変人変人って呼ばれてきたんです。時々札幌の実家に帰ると未だに祖母や母親から『あんた、何なのそれ、なんとかしなさい』って言われて、甥っ子たちもあたしのこと馬鹿にするんですよ、男みたいだって」

「化粧とかお洒落とかしてみたくはないんですか?」

「嫌いなんです。化粧って本来自然のものではないじゃないですか。そしてあたし、これが一番楽だし…。一生化粧とかしないと思います。人や社会に合わせる事をするとすごく疲れちゃうし、本当にあたし、これでいいんです」

きっぱりとしたその言葉を聞き、感じたことがある。彼女がご自身の事を『しっかりと社会的な立場を持った成熟した大人じゃない』と言う、一見劣等感を伴った様な感情の発露は、翻せば、『これからも私は世間に迎合せずに自分の好きなように生きてゆく』という内心の宣言なのではないか。自らを「わたし」ではなく「あたし」と呼ぶのは、きっと私たち以上に自己を確立しておられるからなのだろう。そして自分たちを『普通』と思っている私たち一般人とYさんとの間に、Yさん自身が何らかの一線を引いておられる事の証なのかもしれない。

先日、所用で札幌へ行くために早朝に家を出てS町から高速に乗った。ちょうど朝陽が東から昇り始めた頃、国道沿いにある、Yさんが勤務する運送会社の前を通った。そして国道から見えるそのヤードに、白いヘルメット姿のYさんの姿を見た。トラックの荷台から降ろされた、荷物がぎっしりと詰まった大きなコンテナをしっかりと摑み、その長い両脚で踏ん張りながら身体を斜めにして押している姿だった。ほんの数秒間のYさんの姿だったが、早朝の光の中で、それがなんだかとても頼もしく、しなやかで、そして輝いて見えたのだった。

「あたし、頑張れ!」
 
車の中で思わず声が出た。

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