見出し画像

「素直さ」とはつまり、プロセスである、という結論に至りました。

素直な人、というのはもちろん、「従順な人」という意味ではない。

それはただの能無しというか、考える力がない人のことであって素直さとは何の関係もない。

間違った用例としては、

「○○ちゃんは素直でいい子だねー」

というような使い方。素直さの本質のカケラさえもつかんでいない。


私の考える「素直さ」というのは、“プロセス” のことである。


人は共感の中で生きたい生き物なので、自分の考えとちがう意見や行動を見ると不快を感じるようになっている。

だからたとえそれば正攻法であったり正論であったり、再現性の高いノウハウだったとしても、そこに共感がなければ拒否反応がおきる。

これをすなわち、「素直じゃない」という。


自分の共感センサーをいったん無視して、「ああ、そういうことなんですね」と受け止める力が「素直さ」の一歩目となる。

そして今度はそれを、解釈なしに実行できる力が求められる。

表面上で「ああ、そうなんですね。やってみます」と言う人間の末路というのは大体決まっていて、

「やってみたけど、できませんでした」

というように、最初からその方法はうまくいかないものだと決めつけからスタートし、それを正当化するためにわざと失敗する。

本人はこれを自覚しない。無意識によって生じているからだ。


本当の「素直さ」というのは、

共感を保留にして、「ああ、そうなんですね」と受け止める力であり、そこに対して一切の解釈を含めずたんたんと実行できる『プロセス』をいう。


その上で、最初は共感できなかったもの、イメージできなかったものに対して「共有」が生まれ、「理解」に到達し、腑におとす。

それがスキルとなり、能力としてその人へ体得されていく。


この「素直さ」というプロセスを遂げられる人間は、思っている以上に少ない。

まるでYESマンのような従順なだけの反応をする人もいれば、表面上にだけ素直さを発揮しているような自覚症状のない人間が大半である。


そう考えたとき、人に対してそもそも「素直さ」を求めるのは、ある意味でムリを言っていることに等しいのではないかと思っている。

人は「最高のパフォーマンス」を常時発動できるものでないのと同じように、人は「素直さ」を常時発動できるものでもない。

どちらかというと、ほんの数%の発揮ができれば良いほう。

まぐれのレベルぐらいで捉えるぐらいの方が、妙な期待もなくストレスがなくて心地いい。


そして一方で、その「素直さ」を存分に発揮していくレアな人間もいる。

つまり。


「素直さ」とは一種の “才能” と捉えることが正解。

もしあなたが「素直さ」を持ち合わせていないのであれば、そういう資質や強みがないものとして生きる。

その方がよっぽど自分の人生に対して正直になれるというもの。

これが私の「素直さ」に関する見解になります。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?