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教師力とは何か

「教師力」という語が巷に溢れて、既に20年が経過しようとしています。定義らしい定義はありません。流行語ですから当然かも知れません。

しかし、そのままでは話が進みません。まずは私なりに「教師力」を規定するところから始めたいと思います。

1.スキル

「教師力」とは何か。これを考えるにあたっては、その反対の概念を考えることが有効です。

例えば、「教師力」の下位項目として「学級経営力」があることはだれもが納得するところでしょう。しかし、「学級経営力」とは何かと考え始めると、これまた「教師力」同様、途端に難しくなってしまいます。そこで、「学級経営力」とは反対の概念を想定してみるわけです。

「学級崩壊」という言葉があります。教育界では忌み嫌われる言葉ですが、思考の糧として使うにはなかなか良い言葉です。

例えば、「学級経営力」の対立概念として、「学級崩壊力」というような言葉をつくってみます。4月の始業式からヨーイドン!で学級を運営し始め、一番早く学級を崩壊させたものが勝ち!のような力ですね(笑)。
ちょっと考えてみてください。どうすれば、いち早く学級を崩壊させることができるでしょうか。

例えば、差別をするとか、贔屓(ひいき)をするとか、子どもによって態度を変えるとか、ついさっき言ったことと違うことを正しいと言い張るとか、連絡していないことを連絡したと言い張るとか、常に上から目線で嫌みったらしく語るとか、すぐに忘れ物を取りに職員室に行くとか、まあ、考え出したらキリがないほど出るはずです。ためしに仲の良い同僚とやってみると良いでしょう。ゲラゲラ笑いながら、ほんとうに楽しい時間を過ごせるはずです。4,5人での呑み会で話題にしたら、時間を忘れて盛り上がれることを保障します。

しかし、この「学級崩壊力」の要素を本気で出し合ったとしたら、やはり力量の高い教師ほど、的確な「学級崩壊力」を指摘するはずです。力量が高いということは、それだけやってはいけないことに自覚的であり、それに陥らない手立てをスキルとして身につけている状態をいうからです。力量の高さとは「これをやるといい」と「これをやってはダメ」とがどれだけ明確に意識されているかを指すのだと言ってほぼ間違いありません。

いかがでしょうか。

「学級崩壊力」は決して冗談などではなく、一度、本気で考えてみるべき価値ある概念だということがわかっていただけたでしょうか。きっと「これをやってはダメ」というマイナス要素を考えることによって、自らのスキルに自覚的になれるはずです。

是非皆さんも試してみてください。

2.キャラクター

ただし、同じスキルをもっていれば指導したときに同じ効果が期待できるのかというと、決してそうではないところがこの世界の面白いところです。
スキルというものはその教師の人格と切り離せないもので、その教師が用いるからこそ機能する、しかしある教師が用いるとまったく機能しない、そんなことが厳然とあるのです。極端に言えば、想定した「学級崩壊力」をすべて実践しても学級崩壊しない教師もいれば、それなりのスキルを身につけているのに学級を崩壊させてしまう教師もいる、それが現実です。

この違いを、教師それぞれの「人格」と言ってしまっては「人間性」とか「徳」とか「威厳」とか、教育界で古くから言われている何か崇高なもののように感じてしまいます。それでは私の言っているのとは少しニュアンスが異なるので、私はもう少しイメージを軽くして、教師それぞれの「キャラクター」の違いという言い方をしています。

スキルとか、ネタとか、新しい指導法とか、そういうものに教師は飛びつきがちです。しかも、ちょっとためしてうまくいかないと、それらを簡単に捨ててしまうという悪弊もよく見られます。しかし、スキルもネタも指導法も、自らのキャラクターに相応しいのか、自らのキャラクターがそれらを機能させやすいのかさせにくいのか、こうしたことをしっかりと検討したうえで導入しなければならないのです。

多くの教師がこのことに無自覚過ぎます。自分がどのようなキャラクターとして子どもたちや保護者、同僚の目に映っているのか……。それをほとんど考えない傾向にあります。それでいて、このスキルはうまくいかない、このネタには子どもたちが乗らなかった、この指導法は万能じゃない、そんな自分本位の評価を下しているというのが多くの教師の現実なのではないでしょうか。

3.チーム力

キャラクターに合ったスキルを身につけ、たとえそれらを十全に機能させたとしても、一人の教師ができることなどたかが知れています。学年団のなかで、或いは学校のなかで、その教師自身がどのような位置づけで機能するか、存在感を示すか、個人プレーばかりを志向せずにどのように周りと調和するのか、それを考えなければなりません。

私は「教師力」を〈キャラクター〉と〈スキル〉と〈チーム力〉との関数だと考えています。

つまり、

教師力=キャラクター×スキル×チーム力

という関係ですね。

〈キャラクター〉が10、〈スキル〉が10と個人的な力量は申し分がないのに〈チーム力〉は-1、これでは3つを掛け合わせればマイナスになってしまいます。力量的に突出した教師がいることがかえって学校に迷惑をかけるという事例をしばしば目にしますが、それは比喩的にいえばこういう構造なのだと考えています。

逆に、〈キャラクター〉が8、〈スキル〉が5と面白い先生だけれど力量的にはまだまだ……という若手の教師でも、〈チーム力〉が10であれば、子どもたちに対してかなり大きな指導力を発揮することができるのです。学年にいわゆる「恐い先生」が一人いて子どもたちににらみを効かせていることによって、その影響力に守られながら若い教師や優しい女性教師がその指導の力を発揮するという構図は、多くの学校で見られます。

しかし、こうした場合でさえ、「逆もまた真なのだ」ということを意識しなければなりません。若い教師が子どもたちと日常的に遊んだり、優しい女性教師がハートの弱い子どもたちを日常的にフォローしているからこそ、実はその「恐い先生」も取りこぼしを最小限にできているのだということです。若い教師に遊んでもらっている子どもたちは、もしかしたら日常的な不満を若い教師に遊んでもらうことで昇華できているのかもしれません。また、ハートの弱い子どもたちは、「恐い先生」だけだったとしたら学校生活に怯え、最悪の場合には不登校に陥っていたかもしれないのです。

学年団や学校のなかで「機能する」とか「存在感を示す」とか「周りと調和する」とかいうのは、こういうことなのです。

教師は担任をもって授業をします。学級担任も授業も基本的には一人でするものと考えられています。一人でするものだと考えると、何かミスがあったり、ちょっとした失敗をしたりすると、一人で責任を負うことになります。ああ、失敗しちゃったなと落ち込みます。

しかし、一人でできると思うから失敗するのです。自分で何とかしようと思うから辛いのです。

教師それぞれが〈キャラクター〉に応じた〈スキル〉を身につけると同時に、〈チーム〉で仕事にあたる、そういう時代がやってきたのです。

いま、子どもたちは多様です。かつてのように一人の教師が一つの価値観で子どもたちを導ける時代とは異なります。子どもたちが多様なら、教師も多様であるべきなのです。多様なキャラクターによってチームをつくり、それぞれのスキルを効果的に機能させることこそが、現在、教師に求められている在り方なのです。

「教師力」とは、〈キャラクター〉と〈スキル〉と〈チーム力〉の関数である。このことはいくら確認しても確認し過ぎるということがないくらいに、私にとっては大切な原理になっています。詳細は拙著『教師力ピラミッド~毎日の仕事を劇的に変える40の鉄則』(明治図書)を御参照いただければ幸いです。


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