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〈迎えに行く言葉〉と〈したたり落ちる言葉〉

一斉授業の教師の言葉はすべてが〈迎えに行く言葉〉でした。おいで、こっちにおいで、そういう言葉です。〈迎えに行く言葉〉ではなく、子どもに〈したたり落ちる言葉〉や〈あふれ出る言葉〉を求めると授業も生徒指導も変わります。そのときに教師に必要になるのは〈待つ言葉〉と〈戯れる言葉〉です。

授業においても学活においても、教師は無意識のうちに子どもたちをコントロールしようとします。言い換えれば、自分が子どもたちをコントロールできると思っています。それがうまくいかないと、腹を立てたり落ち込んだりすることも少なくありません。

しかし、そこには奢りがあります。自分は子どもたちよりも優れているとか、自分は自分の人生において価値ある経験をしてきたとか、自分は教職に就いたのだから子どもたちを指導する資格があるとか、感じ方は様々ですがどこか奢っているのです。

また、保護者に対してもそうした奢りに基づいた対応をしてしまい、クレームを招いてしまい、大問題に発展していくという事例も少なくありません。最終的には意固地になってしまい、周りの助言にさえ耳を傾けない、ときにそういう人さえ見ることがあります。

私は基本的に「自分は教師に向かないな…」と自己認識しています。私は自分よりも他人のことを考えて生きるということができませんし、モラルをもってしっかりと生きるということができていません。体調や病気に関する知識にも乏しく、子どもが怪我をしたり体調をおかしくしたりするときにはおろおろすることが少なくありません。周りの先生方にいつも助けられています。すべてを賭けて部活に打ち込んだという経験もありませんし、これといった趣味に打ち込んだという経験もありません。言ってみれば、ごくごく普通の人間に過ぎません。そんな自分が教職に就き、子どもたちが自分の話に毎日耳を傾けてくれることが不思議な気さえしています。保護者と呑み会で話をしたりしていると、自分の知らない世の中の話題が次々に出て来て、驚きの連続を体験します。

何を言いたいのかというと、私は教師などというものはその程度の人間がなっているのだと言いたいのです。

例えば、部活動を一生懸命に指導している先生がいます。学生時代にその競技ひと筋に取り組み、ある程度の成果も挙げています。教職に就いてからも毎日毎日部活動の指導に勤しんできました。おそらくそうした先生はその競技を通じて「人間とはかくあるものだ」とか「チームワークとはかくあるものだ」とか、自分の人生にかかわるような体験をしたきたのでしょう。もちろんそれは大変立派なことですが、その経験がすべての子どもたちに通じるような、すべての人々にとって絶対的な価値をもつような普遍性のある経験だなどと思ってはいけません。

例えば、人は一人では生きていけない、他人の気持ちを考えながら謙虚に生きなければならない、人間にとって最も大切なのは謙虚さである、そう主張する先生がおられます。教室には「みんなは一人のために、一人はみんなのために」という「三銃士」の名言が掲げられていたりします。それはそれで一つのやり方であり、否定されるべきものではありません。しかし、そうした先生が、子どもや保護者のエゴイスティックな振る舞いをすべて否定したり批判したりしながら教職にあり続けるとしたら、それは大問題です。世の中には「自分のやりたいことに打ち込みながら、道を切り開いていくのだ」という人生観に基づいて生きている人だってたくさんいるのです。

教師の奢りは、もっと言えば人間の奢りは、自分の経験を絶対視し、その経験から導き出される価値観にそぐわないモノ・コト・ヒトを批判的に見るところから形成されます。友人同士で語り合ったり居酒屋談義に花を咲かせたりする場面ならそれも悪くはありませんが、集団を導こうとする人間がそうした心性を軸にして教壇に立っているとしたら、私はそれを明確に否定します。

教師の人生観、世界観にとって必要なのは、「深さ」よりもむしろ「広さ」なのです。もちろん「深さ」が必要ないというわけではありません。確かに深ければ深いほど良いでしょう。しかし、優先順位は「広さ」の方が上です。「広さ」のない「深さ」は害悪になることさえ少なくありません。それが教職です。

自分を「正しい」などと過信しないことです。むしろ、「これには別の見方がないか」「もっと広い世界観はないか」と常に自らに問い続ける姿勢こそが必要なのです。

実は、世界観の「広さ」を追究し出したとき、子どもや保護者が指導の対象ではなく学びの対象となります。子どもの言うこと、保護者の言うことが「これはどういう意味なのか」「前提となっている思想は何なのか」「結局、自分にどうして欲しいと言いたいのか」「その言に妥当性はどのくらいあるか」などなど、いろいろなことを考えながら接することができるようになっていきます。

この境地に立つと教師の言葉は変わります。「こっちにおいで」と〈迎えに行く言葉〉ではなく、子どもや保護者から〈したたり落ちる言葉〉や〈あふれる言葉〉が発せられるのを待つことができるようになります。こちらに待つ姿勢ができると、子どもや保護者は自然に周りに張っていた膜を取り除くようになっていきます。その結果、これまでどうしてもうまくいかなかった対峙的な人間関係が溶解し、戯れることができるようになるのです。

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