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頑張れば頑張っただけ成果が出る?

僕のすべての実践理論はさぼるために生まれた。

もう少し正確に言うなら、自分の時間を確保するために効率的に仕事をしようと、あれこれ工夫しているうちに生まれたと言ったほうがいいかもしれない。

とにかく自分の時間が欲しい。本を読んだり思索したりする時間が欲しい。家で犬と戯れたり惰眠をむさぼったりする時間が欲しい。友人たちと馬鹿げた会話をしながら酒を酌み交わしたり、すすきののバーでお気に入りの女の子をからかったりする時間が欲しい。ときには家族と団欒の時間も欲しい。残業なんてしている暇はない。時間が惜しい。そんな想いが強いが故に僕は仕事を効率化せざるを得なかった。仕事を効率化するには、ルーティンワークの原理・原則をもつことが効果的だった。仕事を効率化するためには、二度手間にならないように時の文教政策を熟知することが効果的だった。仕事を効率化するには、だれも考えつかないような大胆なアイディアを実践することが効果的だった。仕事を効率化するには、一人で仕事を抱えずに職員室のみんなと協働することが効果的だった。こんなふうに僕のすべての提案は生まれてきた。

僕は基本的に、定時に退勤することを信条としている。朝、必要以上に早く出勤することもしない。若いときに夢中になっていた部活動の指導もやめてしまった。通勤時間を短縮するために近くの学校に転勤させてもらった。現在、通勤時間は片道六分である。これだけ徹底して自分の時間を確保しようとしてみると、僕の平日に、夕方17時から就寝する24時まで、なんと7時間もの時間が生まれてしまった。

生まれながらのさぼり魔である僕は、昼間に予約録画しておいた2時間ドラマの再放送を見たり、好きな音楽を流しながらネットサーフィンをしたり、小さな呑み会で馬鹿話の連続に大笑いをしたりといった時間がたくさんある。しかし、もともと僕が時間をつくる目的としていた読書の時間や思索の時間、原稿執筆の時間や人と会って情報交換する時間も、周りの人たちよりもずっと多く、しっかり確保することができている。僕はこの生活がとても気に入っている。学校では効率的にコン詰めて仕事をし、退勤後はすべてが読書と思索では読書も思索もいずれ形骸化してしまうに違いない。うまく言えないけれど、僕の生活の在り方は僕という人間とバランスがとれている。

でも、僕の周りには、残業することこそが生き甲斐ででもあるかのように生きている教師があふれている。なかにはその残業が仕事にも人生にも生きているという人もいるけれど、それはごくごく少数だ。何の根拠もないけれど、十人に一人いるかいないかだ。十人中九人は自分はそれなりの教師だと自分自身で思いたいが為の残業、或いは早く帰るのは気が引けると同僚の目を気にしての残業である場合が多い。つまり、自己満足の残業と自意識過剰の残業だ。僕にはそう見える。

ところが、そんなにも頑張って残業しているというのに、彼らは仕事のうえで、僕ほどの成果を上げていない。あんなにも時間と労力をかけているというのに、あんなにも時給とゆとりと自らの精神をすり減らしているというのに、それに見合った成果を上げていない。さぼり魔の僕は時給が高いばかりか、外の仕事でも幾ばくかの収入も得ているというのに。時間的にも体力的にも精神的にもゆとりを謳歌しているというのに。

ある同僚の女の子が僕に言ったことがある。

「世の中は不公平だ。こんなに頑張っている私は仕事がうまくいかないのに、堀先生は仕事をぱっぱと終わらせて5時に帰る。なのに、ミスがない。私も堀先生のように能力のある人に生まれたかった。世の中は不公平だ。ああ、『できる女』になりたい。」

僕は「僕くらいの年になればそうなれるよ」と応えたけれど、おそらく彼女は僕のようにはなれないだろう。それは能力が低いからではなく、考えて仕事をしていないからだ。僕は新卒以来、さぼるために、効率的に仕事をして自分の時間を生み出すために常に考え続けてきた。小さなことにもこだわりながら、考えて仕事をしてきた。いまの僕の仕事のスタイルだって一朝一夕で出来上がったものではないのだ。

もちろんこんなことを彼女には言わない。「それじゃあ、きみが『できる女』になるために何が必要かじっくり考えるために、今度、ふたりですすきのに食事に行くのはどうだろう。」などと言って彼女をひと笑いさせて、「じゃあお先に…」と退勤するのである。

人間関係において「きみは無能だ」などと面と向かって言うのは、仕事をするうえで効率的ではないということを僕がいやというほど知っているからだ。

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