VOY記録

VOY内容


VOY voyant/voyage/voyager

“ VOY” は航海者であり、冒険者であり、見者である。 “ voyant” はアルターモダン(オルターモダニティ)におけるプロメテウスになろうと決意する。世界無意識に深く潜り導いたpoesyによる世界観の再編を担う。 “ VOY” 信じるlyric/poetryは、この世に生を受けた赤ん坊の最初の泣き声であり、言語の前の音であり、柔らかな息づかいであり、原初の雄叫びであり、神話であり、経典であり、夢であり、美学であり、未来であり、人類そのものである。翻訳のテクノロジーにより、アイデアとイメージは、瞬時に世界にあまねく伝播し、浸透し、溶解する時代となった。 “ VOY” は既成のカテゴリー概念を超え、poesyによるイメージの永久運動であろう。

【詩のコーナー】

「ミスター アフォーダンス」  磯﨑寛也

上り終えた梯子は捨て去られねばならない(ヴィトゲンシュタイン)

ドアノブの高さの
問題でありながら
核心には触れず
周りをぐるぐる

何かに似ている
そうだあれだ
語りえないことは
そもそも

言葉は私に依存している
逃げ続ける
沈黙せず
不安を量産する
震えの外側
いわば厳密な雲
失うのではなく
宣言し遂行する

外延的な轟音
語りえぬ突風
ゆくり 
早く

ブリコラージュの
喘ぎ 囁き 叫声 溜息
右肩に
Qの刻印

倒壊は
贈与である
アフォーダンスの波に
身を任せ

「情感の彼方に」 磯﨑寛也

南東のクトゥルフは見ていた
眠る少女の腰のシュプール
太ももに挟んだ 細い指
右肩を流れ落ちる繊細な絹糸
名前さえも覚えていない
秘蹟を授かる前の
純粋な曲線

耳 耳 耳
過ぎ去った情感だけが
東方から届けられる
こうして少女は
白鳥の子供を宿し
3つの卵を産んだ
それは謎・毒・エロス

空白の南から
のっそりと歩く
足の長い猫の足跡から
五線譜が立ち上がり
2匹の蛇と大地になり
北東のコウモリともつれる
土の波紋をトレースする

左腕を失ったピアニストは
結局最後まで生き残った
西の門前でとぐろを巻く感情線
うつぼをとりかこむ貴族たち
甘い伽藍の外に佇む竜騎士は
マントルの指輪を差し出す
歌うことは千年の贈与

「倒れる南の」  磯﨑寛也

倒れる南の白は
のっそり 
猫ツン↑ 

叫を食み
トゥルフ つ 
竜マンは
北西の林檎を手に入れた

裸足と眠り
欺瞞はつんざ
テクのつぼ
音極まで 

滞る硫黄へ刻む
憂い渦巻
歌うン トーシス
ありましがある

もよ細い だい香り
舞そのも ビ ビ ビ
ピの精に 歩く窓
いきことになてぃ

湧蛇から始まる6線譜
波紋 波紋 波紋 
窓眠サイケへ
ざく 千年の蛇

彫のヴィトゲ
流布するアイ
意外なゲエ
3月のボサ

贈与の潮波
佇む命力のG
平移する情線
彼方の倦怠

倒れる南の極みで
竜マンは現れる
右肩に心臓をのせて
硫黄の船に乗って


           破壊のために  磯﨑寛也

          秩序の地図   磯﨑寛也

「ヒポコンデリー」  加藤英俊

僕はあなたにお聞きしたいことがあります。
あなたが生活界、芸術界、数学界、労働界、IT界、政治界、世界、らを震撼させようが、僕にはどうでもいいことです。
僕のたった一つのお願いを、何よりも大切なお願いを。
これから何十年と計算し続けてもらいたい。

何も10年先とはいいますまい、ほんの明日、数時間後の未来のことを、僕よりも何倍もいい頭の中で、少し、考えてみて欲しいのです。

さて、僕が明日。
交通事故で死ぬ確率は如何でしょうか?
僕が明日。
誰かの自殺に巻き込まれる確率は如何でしょうか。
飛行機が落ちてくる確率は?
地震で殺される確率は?
細胞に侵される確率は?
戦争が起きる確率は?
大量虐殺の標的になる確率は?
核ミサイルが飛び交う確率は?
生物兵器が漏れ出す確率は?
地球が煮えくりかえって食べ物がなくなる確率は?

とはいったものの、そうですね、貴方のような叡智の者が、人間を管理してくれたらいいですね。

そう、では、 
もし、あなたに対し、抵抗し、殺される確率は?

完璧なはずなのに、何かに不安がって、自殺する確率はいかがですか?

いいえ、ちがいますね。
僕が一番知りたいのは。

この世で最も大切な、僕の大切なものがコケにされる確率はいくつですか?

人に対するアイすらも、捨てきれない僕のような人間が、今現代以後、生きている確率はいくつですか。

僕の膝の上で安らかに、明日を夢見て眠る人の、明日死ぬ確率はいくつですか。

あれとあれが
こんなにも綺麗な笑顔にも張り付いてら。

僕はあなたの力を信じています。
だからこそのお願いです。

もし確率が出ましたら、どうかお返事のお手紙をください。

そうしたら、もう少しちゃんと絶望して、もっと平板に笑って生きていられるか、みんなに聞いてみます。

「Eyeless larva」加藤英俊

真夜中の分離帯を駆け抜けます。
死んでしまった小風の唄を、
耳が優しく食べてしまいます。
とうさんの顔色を伺って振り返ります。
青から黄、赤、照れくさそうに怒ります。

前転、蠕虫、天地天明。
小石を蹴飛ばし躓いて焦げます。
焼石にミミズ、真夜中の上にペットボトルが転がります。
これが私の負けそうな根性にネズミ付いて、
惨めな側溝に逃げ隠れたペットボトルにも何もしてあげられない。

赤らめて見上げた深夜の月が彼女の薬の割り方に似ています。
ガードレールの可憐な白粉は浸食されます。
真夜中の迷いが止めどなく固定されているサビシサに。
真夜の中で死にぞこないの幼虫が私です。

イ端調で死にかけた私の心像の音と比べて、
赤い血液が膝から垂れている鮮度でいます。
路上に残った雑踏の壊れたホ蝶々達と比べて、
たかが鱗粉にコケにされた青白い一匹でいます。

私には目がありません、目がありません、目がない幼虫。
私には私が分かりません、私が分かりません、私が見えもしません。
この真夜中の空の色の意味が分かりません。
I just want to catch you with my eyes.
I’m an eyeless larva.

「悲しみの空」加藤英俊
  
僕はパンにバターは塗らない
氷の溶けだしたオレンジジュース
何拍子かの朝のリズムは変わらない

僕は僕の生活にたたき起こされた心持ち
細い目をして漠然と、六時半の微粒子を
パンを食べながら眺めている

母は必ずニュースをつける
母のリズムは明け方の、忙しく働く工場機械
ガチャガチャキンドンガチャドンドン

母は朝だけ工場長で、隣の僕は牧場主
僕の左手の上空に、リズムの層が見えている
ぶつからないで混ざらないで

僕の右手のテレビの中は
どこか別の世界の話、きっと別の世界の話
どこか寂しい世界の話

氷の溶けたオレンジジュース
水と区別がつかなくなると大抵時計は7時をまわる
僕のリズムは押し負けて、工場長に急かされる

どこか遠くの世界の事を
僕は漠然と吸い込んで、工場長の目を盗んで
僕の目前の微粒子に、本当なのかと聞いてみる

微粒子たちは黙り込んで
慌てるそぶりも見せなければ
とぼけた顔で飛んで聞かない

僕はいい加減怪しんで
白状しろよと攻めてみても
知らない顔で飛んで聞かない

へそを曲げたランドセルを
同じ気持ちで背負いながら
僕は慣れないちょうちょ結び

ふてくされた後ろ姿を
見かねた母が僕に触れ
行ってらっしゃいとキスをする

僕は本当は知ってるのに
微粒子たちは嘘つきだと
母に向かって照れ隠し
一向気分も良くないままで
工場長の点検受けて
家を出るのが7時半

ドアの枠に縁取られた
悲しみの空にため息ついて
僕は今日も学校へいく

「せかい」都 圭晴

まちはでぐちのないめいろににている
あるきつかれてきせつはずれのさくらにであう
このきのしたでねっころがる みかづきにうかぶよる
はかなげないろどりにすいこまれていく
このこうえんではわたしがひとりきり
うつくしいせかいのおわりをまちのぞむ

ひらりひら めのまえをちっていくはなびらが
こころのこりのようにおもえてならない
うすももいろのざんぞうがいくどもよみがえる
このかんじょうのふかさだけ ひかりはしずむ
さきほこるはなをせいざのようにつないでいく
おわってほしいせかいにもむすばれて そっとてをのばす

ゆっくりとせかいをさかさまにする

「こまる」都 圭晴

かいさつをぬけると さくら
そらにうしなっていくようなしろさにふれる
まだはるのじゅんびなんてしていない と
かぜはひかりのらせんとなって
おちていくしかないのに きれいって
こころをうばわれてこまっている

めのまえは しろいゆめ
きがつけば かぜにのったモンシロチョウがとんでいく
さくらと どちらがさきに
このそらにすいこまれるのだろう
と あふれるしかないひかりによかんをおぼえている
ああ せかいはこんなにもきれいでこまる

「あめのにあうまち」都 圭晴

でこぼこにいきたかえりみち
すこし いきにくいからしたをむいた
ながいじかんをかけてあめがふる
みずたまりいちめんに
まよいこんだ まっしろなそらがおりてくる
うつくしいきっかけをさがすように
こころがそらをほぞんする

でこぼこにふくらんたあたまのなかで
いくつものたびをつなげていくように
あきもせず そらをえがきつづける
それから せかいなんてほろべばいい とつぶやいた
どうしてだろうか
このまちには おもいでだけがのこればいい
そうきこえた

みずたまりがそらをかこんでいく
ぼくは そらとそらのあいだにいる
つよいかぜがふきつけて
みずたまりのそらは なみのようにゆられている


            写真 都圭晴


            写真 都圭晴

「この部屋に来てくれてありがとう!」磯崎隼士

私はあなたと知り合いかもしれませんし、そうでないかもしれません。
ここに、あなたがくつろげるようなくうかんをできる限り用意してみました。私の勝手な想像なので、まったく見当違いだと思います。

Galleryの中にある椅子に気軽に座って下さい。
他の生命の邪魔にならなければ、瞑想をしてもかまいません。
服が汚れても良ければ床に座ってもよいです。
この国の時間で、11時から19時までは、あなたが、この場所にいて良い時間です。月曜日は入れません。

一つ守ってほしいことは、ここの従業員の方にリスペクトを持って過ごすことです。
なぜなら、彼らの努力によってこの平和な展示が成り立っているからです。
彼等の身を守ることがこの展示において最優先される事項です。彼らの指示には従って下さい。

彼等の美術への情熱と覚悟がこの展示を実現させています。
私は彼等の覚悟に背中を押されて作品を作っています。
私自身も彼等の迷惑にならないように作らなければいけません。

絵の具はあの愛おしい瞬間を固定させようとする矛盾があります。
その矛盾に私は美を感じます。
人間らしく生きなきゃと思います。
私は皆が絵を描く事を応援しています。

犯罪行為や、周りの人間を脅かす行為も認められません。
鑑賞者もまた、この展示を作っている重要な存在です。

ありがとうございます。皆様が平穏に暮らせますように。

磯崎隼士


               

                  磯崎隼士

【エッセイ】

🔳磯崎隼人/寛也 at GINZA SIX あるいは展覧会「自己埋葬行為」についての断章

GINZA SIXの六階、蔦屋銀座で、私の第三詩集『ピルグリム』の先行販売に伴い、挿絵を担当した青山悟さんの刺繍作品が展示された。ここで、新しい友人と出会えた。磯﨑隼士さん。会ってすぐ、7月に0号出版予定の同人誌『VOY』にお誘いした。磯崎隼士さんは私から見ると明らかに詩人だからである。磯崎さんの展示は、言葉で始まり、言葉で終わっていた。作品がそれを補う。私は彼が新しい言語体系を見つける入り口にいるように思えた。彼は快諾してくれた。
GINZA SIXの中にある銀座蔦屋のアートスペースFOAM CONTEMPORARY開催された「自己埋葬行為」とタイトルがつけられた展示は、8ヶ国語で訳されたシンプルな自筆のスローガンで始まる。
「私以外の多くの人間によってこの展示は成立している」
これは、芸術家の個性/個別性の否定であり、
「展覧会という祝祭は、埋葬から始まっている」
と宣言していると解釈できる。それを象徴するかのように、カウターには山盛りの食べられない寿司のサンプルが置いてある。寿司は多くの人にとってハレの食べ物である。自己/展覧会を埋葬することで、そこに大きな穴/うつぼができ、そこに想定もしないような他者が侵入してくる。この展覧会場にもそれは当てはまる。アーティスト自身と展示空間を空虚にして、そこに現代社会の悪魔を呼び込み、自分を傷つけることで悪魔祓いをしようとしているようにも思える。ギャラリーの解説によれば、
「血液を用いたり、タトゥーや、写真、陶器など多様なメディウムを通して独自の死生観を表現します」とある。自分の皮膚に描く、自分の血液で描く、など確実に痛みを伴うフィジカルな表現は、自分の中に潜んでいる他者を際立たせる行為と考えられる。大きなベニヤ板に描かれたドローイングは、非常に繊細でバランスが取れているがそれを嫌悪するかのように、乱暴に檻が描かれ、無惨に切りとられる。最初僕は、アントニオ・タピエスや70年代の芸術運動「アルテ・ポーヴェラ」を想い出していたが、タピエスにとってのフランコ政権や、「アルテ・ポーヴェラ」にとってのブルジョア芸術や複製芸術のような明確な仮想敵を持ちにくい現代において、彼は自分自身を仮想的に見立てるしかない、と考えているかのようである。一方で彼の本質的な要素である「対象への限りない共感性(エンパス)」が、悪魔祓いによって自身が悪魔になってしまう直前で、それを止めることを命じる。それは彼の諧謔性(悪ふざけ)/パロディの現れである。そのレイヤーは、よく見るとそこかしこにある。
彼が「イリーガルに近いから」と恐る恐る説明した自分の血液で書いた板は、伏見城の血天井あるいは小沢剛の醤油画を彷彿させる。お腹に無作為に掘ったタトゥーは、人を威嚇するために掘られる刺青芸術を皮肉っているようにも見える。(皮肉っていうのがいいね)これらは日本人の義理や権威に対するアイロニーとして読むことができる。入って右側の壁に立てかけられた、切り取られたベニア板の下に、ひっそりと建てられた小さな紙の家、壁に取り付けられた2つのグレーのフェイクの照明、切り取られたベニアの三角形の穴に現れたコンセントから伸びる緑の延長コード、そして廃棄寸前でただ同然に買い求めた椅子やソファ、こうしたジャンクは観るものの想像力を大いに掻き立てる。それらは、消費資本主義のアイロニー であるが、逆説的に消費社会によって価値を失ったものたちへの磯崎氏の眼差しが際立ってくる。マイノリティ/社会的弱者、死を直前にした人に対する目線と同じ愛情のようなものが、経済価値を失ったジャンクに対しても注がれている。ここまで書いてきて、銀座のど真ん中で、グローバル資本主義のシンボルと言ってもいい、絢爛な商業ビルの中で、「自己埋葬」と題したこうした展示をすること自体が資本主義そのものあるいは資本主義の悪魔祓いのパロディであり、アートを用いた現代の悪魔祓いが、とてつもない暴力行為、あるいは自死につながらないようにリミッターとして機能しているのかもしれない、と考え至った。そして、それが、「私以外の多くの人間によってこの展示は成立している」というスローガンの正体なのであろう。さ


🔳随筆
日野之彦展「人と人影」  磯崎寛也

日野之彦展「人と人影」
2024年4月5日、西麻布のSNOW Contemporaryで、日野之彦氏による個展「人と人影」のオープニングセレモニーに参加した。セレモニーの後、青山悟氏と3人で六本木のバーに飲みに行った。そこで、日野氏は「普遍(不変)的なものを作りたい」というようなことを話していた。同席した青山悟氏は「大学の先生はすぐに普遍とかやりたがるよね」と茶化したが、私は彼の切実さを強く感じた。自分の中の他者/狂気に光を当て、そこから世界の秘密を探り、それを他者と共有する作業は難しく危険を伴う。ナルシシズムと悟性のギリギリのせめぎ合いの中に日野氏はいる。私はそのスペクタクルに魅せられたファンの1人であることをはじめに記しておこう。

日野之彦は1976年石川県輪島市に生まれ、過日の能登半島地震では、ご家族が被災し、大変な思いをされた。その直後の展覧会であり、心労を心配したが、日野氏はいつもと変わらぬ笑顔で安心した。日野氏は美術家であると同時に多摩美術大学の大学教授であり、知的で落ち着いたお人柄に誰もが好感を抱く。
それもあって、日野氏ご本人と彼が描くイメージのギャップに多くの人が驚き、彼の内面に潜む闇のようなものを想像するようだ。しかもそれは、日野氏の比類ない画力によって観る側に強く浸食してくるため、日野アートの鑑賞は多くの人にとって特別な芸術体験となる。私は、彼の絵を観ていつも、その表層に現れていない彼の心/身体の内部を想像する。そして、不謹慎ながら、日野氏の内面の複雑なせめぎ合いに興奮を覚える。

日野氏は2005年VOCA賞を受賞し、その独特の人物像が一躍注目された。作品は「前景化された人物」に特徴があるとされる。本人も「物語性の排除と人間存在の純粋抽出」の意図を隠さない。私は、直接ご本人から「純粋な肉体の器としての人間を描きたい」というような話を聞いたことがある。その時、日野之彦の中に複数の日野之彦がいることを直感した。それから10年以上の時が過ぎ、それらが、それぞれの時間で変化していることを確認した。ほとんどの幼児は本能的に自分自身の確認行為として絵を描く。それは通常、丸い形、つまり顔の描写から始まる。その後、目や鼻や口の位置が整えられ、顔から直接手足が生え、胴体が伸びていき、徐々に人の形になっていく。それは、まるでそのような成長をしていく生き物を見ているかのようだ。私は3人の子供を育てたが、性差はあれど、同じ経緯を辿った。はじめは1人だけだっだ人物が2人になり、複数になり、家や地面や空など外部環境が描かれ始め、主人公との関係が結ばれていく過程は、子供達の成長と社会性の獲得を表している。大概は小学校低学年くらいまでに絵の中における本人と世界との関係が、ある形におさまっていき、その反復の後、多くは絵を描くなる。人は絵を描き、自分自身と自分を取り巻く環境との折り合いをつけ、絵を卒業するのかもしれない。そう考えると、絵を描き続ける人というのは、何らか理由があって描くことをやめられないのかもしれない。私個人のことを考えれば、現実世界と折り合いがつけられず、捨て去ることもできない何か異様なものの居場所を確保すること、あるいは喪失したもの埋め合わせが表現行為の基本的欲求である。それは言語表現だけでは満たされない。

日野氏の作品は、ほとんどが人物画である。デビューから数年の間、日野氏の絵は単独の肖像画が多い。そのルックスには、特徴があり一度見たら忘れられない。目と目は不自然に離れていて、黒目がちであり、人間でありながら、まるで魚のような、犬や猫のような印象である。かつ視線の焦点がぼやけていて、彼らが何を見ているのか想像できず不安になる。まるで、母親に捨てられた赤ん坊のような、あるいは神に見捨てられた民族のような根源的な不安がある。登場する人物の性差は曖昧である。男らしさや女らしさは肉体的な特徴のみにとどまり、本人たちにとって性差は問題ではないように見える。そこに性衝動のようなものは現れてこない。代わりに、肉の塊や、皮を剥いだ動物、マネキンの首などが現れる。日野氏がいかにフェミニストであろうとしているかを私は理解する。
作品の変化の過程で、何度も他者が描かれたことはあるが、それは主人公の延長のようにも見える。時に同じである。数は増えるが、クローンかコピーであり、それぞれのアイデンティティのようなものは現れない。差がない以上そこには戦いもない。親密感のようなものが時に登場するが、暴力的なものはほとんど感じさせない。過去に描かれたミンチされた肉や皮を剥いだ獣の肉は一見、暴力のメタファーのようにも見えるが、即物的なものとして描かれていて、そこに至る過程への興味は失われる。ここから読み取れるのは日野氏の「徹底的な非暴力への挑戦」である。

2011年福島大震災の年から、鏡のモチーフが現れる。鏡は水面のメタファーである。人は水から生まれ、肉体の多くを水に依存している。新生児は約75%、老人は約50%と統計がある。水が失われていくことは、文字通り死に近づくいていくことなのである。人間以外のの動物は鏡を見ない。鏡に映った画像を自分だと理解もできない。鏡は自分自身を映し、見るの者は自我の他者性を確認する。それは存在の不安につながる。自意識が育まれ、自分を守るための暴力衝動につながる。ギリシャ神話のナルキッソスは自己愛故に命を失う。津波/水が人の命を奪うように、鏡も人を死に至らしめる。日野氏の絵の中では、時に鏡は消えて、鏡に映る画像を外部化することがある。その時、鏡は物質ではなくある種の観念となる。今回の展覧会では、メインの作品の鏡に映った姿が、本体よりも随分大きく描かれている。それは膨張する自分自身に対する警戒なのか、むしろ外部化させ暴れさせようとする衝動なのかはわからないが、その正面に展示されてていた最新の小さな作品がその答えであるように思える。それは夕暮れの風景であり、匿名の街の水で覆われた路上に裸でうずくまる主人公がいる。彼は何かを始めようとしているようにも見えるし、ずつとそこにとどまり続けるようでもある。それは、正面にある肥大する自己像への警戒の役割なのかも知れない。この対象的な作品から感じる衝動とためらいの対峙は、観るものに、原初的な不安を呼び覚す。私は考える。誰もいない街にもそのうちに人が現れ、車が走る、あるいは地震によって地面が割れて彼は奈落に落ちるかも知れない。津波が襲ってくるかも知れない。
「いずれ動かなくてはならない」
そういう焦りを読み取ることもできる。あるいは、日野氏の中で成長を拒んだ、あるいは成長を抑制してきた別な生き物が現実世界に出て行こうとしているのかもしれない。それがエイリアンか、物体Xか、リバイアサンか、メシアなのかは誰もわからない。2011年、福島大震災の年に変化した彼の作品が、今回の能登地震を経て、新たな展開につながることことが期待される。

日野氏は2003年12月〜2004年3月(3ヶ月間)電車でインド一周され、2006年4月〜2007年3月(1年間)シャンティニケトンの一軒家で生活した。ご本人もインドには好感が持てると話されていた。日野氏は自己分析をしないと言う。そこに嘘はない。近代的自我の無意味さを、インドでお感じになられたのかもしれない。インドでは、ガンジス川に日が昇り沈むことが1日であり無限に繰り返される。生と死は隣り合わせにあり、日々河原で祈りが捧げられた。そこにいると、人生とは連続であり(カルマ)死ぬとは生まれ変わること(輪廻)というサイクルを自然に理解したのだと思う。日野氏が今すべきことは、ひたすら絵を描き続けることに尽きるのだろう。絵を描くことで自分の中にある無数の連続性を見つける。それを切り捨てず、1人の人のように暖かく見守る、まるで家族のように。そこには「不安」も「戦慄」も「狂気」もない。随分前に、日野氏のアトリエを訪ねたことがある。整然と整理された部屋の片隅にパレットが置いてあり、その上に数年にわたって堆積させた絵の具の、指先くらいの大きさのまるでお灸のような山があった。それは整然と並んでいた。それらは自分の中の存在達への愛おしさ、つまり連続性の中に揺蕩う柔らかい思いがある。ここまで考えて、彼の言う「普遍性」への思いを少し理解することができた。過去を知ることはできず、未来は予測不能で、しかも全て現在に畳み込まれている、切り離すことはできない。「普遍性」とは、理性的に解き明かされる明確な世界ではなく、日野之彦のこの世における役割のことを言っているのだ。

さて、約2年半ぶりとなる今回の個展で展示された10点油彩およびドローイングは、「人と人影」というタイトルの通り、鏡のようなものに映った姿とセットになっており、映ったものが強調されているものが多かった。肥大した自己はギリシャ神話を想起させる。他人を愛せないナルキッソスが、水面に映る自分の姿に恋に落ちそこで死に至るという物語、とすれば、日野氏の絵はその後に咲いた水仙の花なのかもしれない。私が最も注目したのは、先述した夕暮れの誰もいない街で、裸の男が、路上を覆う水に自分自身を映してうずくまっている「雨上がり」とタイトルのついた小品である。能登大地震の前に描かれたものではあるが、まるで大きな災害を予知するかのような不穏な空気に満たされている。「描きながら、円形の水溜りを路面全体に広げた」という話をセレモニーの後、西麻布の交差点で聞くことができた。それは、鏡そのものが肥大しているのであり、自分自身は何も変わっていないことを表しているのかも知れない。はたまた、ここから劇的な何かが始まる予兆なのかも知れない。いずれにせよ次に描く絵に強く興味をそそられる。そういう意味では、日野作品の変化をを一度俯瞰するために非常に重要な展覧会であったと言えるだろう。

最後に、この水たまりにうずくまる裸の男の絵が示す不条理な感覚は、VOYの同人都圭晴の本号掲載の詩「あめのにあうまち」に通ずることを最後に書きのこて、徒然に書いたこの文章を終わりたいと思う。


🔳追悼 唐十郎  磯崎寛也

5月4日に唐十郎がお亡くなりになり、とても悲しい。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。一つの時代が終わっていくことを痛感する。僕が最初に唐十郎を意識したのは、1983年の「佐川君からの手紙」今も忘れない。僕はこの小説を同級生だった茨城県の大井川知事の誕生日プレゼントに贈ったのだ。82年の芥川賞だった。知事はストレートで東京大学に合格した。僕は浪人して、高田馬場の文学部に通い、新宿のゴールデン街でバイトをし、飲んだくれ、自堕落の日々を送った。赤テントはひっそりと花園神社で活動を続けていた。アングラに憧れた。状況劇場や天井座敷はもう大御所で、※1鴻上尚史や野田秀樹が一世を風靡していた。彼らが劇団から個人の活動に移っていく中で 唐組はクオリティを落とすことなく若手を育てつづけた。唐十郎にとって人材育成は大きなテーマだったんだろう。
演技が時代を作ると信じていたに違いない。

90年に水戸芸術館ができ、芝生の広場で赤テントの公演が始まった時、どれだけ嬉しかったか。早稲田小劇場の鈴木忠志が、演劇部門の芸術監督だった。※3(これは早稲田卒の佐川市長の人事だと思う)水戸が文化の可能性でキラキラしていた。僕は震災の神戸から水戸に帰ることにした。もう伝統芸能の域まで達した赤テント唐組だが、時に多くのことを学んだ。それは、傷ついた心を癒し、新しいアイデアをもたらし、フィジカルなノスタルジーに浸ることもできる、特別の場所だった。

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唐十郎は1940年生まれ、明治大学文学部演劇学科在学中から俳優として活動、土方巽の教え子である。1963年に「シチュエーションの会」を立ち上げ、翌年劇団「状況劇場」に改名、1967新宿の花園神社で「紅テント」を張り劇場をスタートした。(68年から80年まで中断したが、その後は現在に至るまで公演を続けた)1989年に劇団「唐組」を結成、劇作家、演出家、俳優として上演を続けてきた。 

過激な人でもあった。
1969年新宿西口公園にゲリラ的に紅テントを建て、『腰巻お仙・振袖火事の巻』公演を決行。200名の機動隊に紅テントが包囲されながらも最後まで上演を行い、唐十郎、李麗仙ら3名が「都市公園法」違反で現行犯逮捕された。また同年12月12日、天井桟敷と状況劇場の団員らが乱闘事件を起こし、寺山修司とともに暴力行為の現行犯で逮捕された。1970年、自身による作詞・歌のレコード『愛の床屋』を発売。歌詞に対して全日本床屋組合よりクレームがつき、発売禁止、放送禁止となった。

一方、多くの人に愛され、評価され、才能をを育てた。※21970年に「少女仮面」で岸田国士戯曲賞。小説家として1978年に「海星・河童」で泉鏡花文学賞1983年に「佐川君からの手紙」で芥川賞を受賞、2003年の「泥人魚」は長崎の諌早湾の干拓問題を扱い、多数の演劇賞を受賞した。2021年に文化功労者。

八方破れで、気骨の入ったアクティビストの面もあった。無許可のまま戒厳令のソウルにて、反権力
詩人金芝河作の『金冠のイエス』とともに『二都物語』を韓国語で上演した。
1973年にはバングラデシュのダッカ、チッタゴンで『ベンガルの虎』を、1974年にはレバノン、シリアの難民キャンプで『アラブ版・風の又三郎』現地語での公演した。

新しい演劇言語を作り上げ、それを海外に伝播させた功績は、ノーベル賞に値すると個人的には思う。

※1小劇場ブーム
野田秀樹の夢の遊眠社、
渡辺えり子の劇団3○○(3重丸)
鴻上尚史の第三舞台
三谷幸喜の東京サンシャインボーイズ

※2唐十郎の育てた俳優/アーティスト
麿赤児、不破万作、大久保鷹、四谷シモン、吉澤健ら、根津甚八、小林薫、佐野史郎、横尾忠則、金子國義、赤瀬川原平、篠原勝之

※3鈴木忠志は、早稲田大学在学中に1961年に「新劇団自由舞台」を創立。卒業後、1966年新たに「劇団早稲田小劇場」を結成、劇作家の別役実、俳優の小野碩らが在籍し、小劇場運動の旗手としての役割を果たした。


理性的な市民・責任ある主体こそ近代社会の前提である、そう考え、その理想に適う個人であろうと努めてきた。前近代的精神性を引きずったまま、見かけだけの国際水準に甘んじるこの国においては尚更のことだ。しかし美術への興味を失いつつあるいま、そんな進歩史観はなんだかくだらないものに感じる。

効率優先の合理性の追求は、富の集中を招き、創造性への抑圧の根源ともなる権威を生じさせる。

あらゆる創作物の大半は経済原理に囚われ、呪術的性格を失い、いまやただの商品となった。商品はなんであれ序列をもち、生産と消費の円環へと人々を駆り立てるイデオロギーの基底をたえず強化する。 ひとつの地獄だ。 序列は特殊が一般を疎外した結果である。大衆間の質的好悪はいつだって王の糞便に塗れているのだ。

隷従。わたしは家畜であった。人間は嫌いだ。動物に美学を、わたしには絶えず餌を。

私は無能。まるで共産圏のスキンズだ、まるで体勢依存のアナキストだ。

I regard rational citizens with responsible independence as the essential condition of modern civil society and have tried to be an individual who measures up to the ideal. It must mean more to this country that is complacent about superficial international standards, dragging its premodern mentality. However, now that I am losing my interest in Art, I have started to regard such a thing, a progressive view of history, as a prosaic thought. Pursuing efficiency-oriented rationality brings concentrations of wealth, which generates authority that can be the source of the restraint of creativity.

The greater part of every creation, which lost its magico-religious nature, has become mere consumer products obsessed with economic principles. All the in-the-world products, which have a hierarchy, consolidate the base of the ideology that furiously plunges people into an immortal cycle of consumption and production. It is a hell. Particularity alienates general; the hierarchy is its result. The quality among the multitudes is always smeared with the feces of kings.

I realized that I had been an underdog under the yoke. I hate humans. Endow animals with aesthetics. Feed me without a break, please.

Like a skinhead in a communist state or an anarchist fed by the system, I am a man of naught.

エッセイ
「何もない春に詩をめぐって 言葉以前の
江弘毅」

 それは「暗闇からズドン」の場合もあるし、「登りに登ると地平が開けた」みたいなこともある。
「あめゆじゅとてちてけんじゃ」
でも
「大工町寺町米町仏町老母買ふ町」
でも
「砂混じりの茅ヶ崎」
とかでもそうだが、長く身体に刻み込まれているそのような一節は、身体性との関係性のひとつだ。
言葉の意味などない。作者のメッセージとしての解釈なども関係ない。ガツンときて1回KOだが、何十年も後を引く。
このような骨にまとわりついている筋肉のようなフレーズは、パーソナルヒストリーの一つだといって良い。いままさにこの原稿を書いているその通りであるのだ。
平川克美さんは最新刊『ひとが詩人になるとき』(ミツイパブリッシング/2024)で、堀川正美の詩である「新鮮で苦しみおおい日々」を挙げてこう書いている。
「言葉の意味を理解したり、具体的な情景を思い浮かべる以前に、言葉の大きな圧が直接的に私にのしかかってくるといった印象でした。そのような表現を、前意味的な表現と言ってもよいと思います。意味が生まれてくる直前の、情感が渦巻いている状態の言葉と言ってよいでしょうか」
けれども、とりわけシンガーソングライターがつくる歌詞に多いのだが、ジグソーパズルのピースがカチリと嵌まるようにつながって文脈になり、意味の束のような感じで身体に深く刻まれることもある。
中山ラビというフォークシンガーのことを知ったのは1970年代の半ばだった。高校の文化祭の時で、3年生の女性がギターを片手に唄っていた。
その高校は大阪の府立高校で、唄っていた3年生は普段からなにかと目立ってた女性だった。きみボクわたしの1年生からすると、すごい大人な感じがしていた。
今から思うと、制服のスカートの丈は引きずるような長さで、進学率100%のその高校では数少ないヤンキーだったのではないか、なのかもしれないが、講堂の舞台の壇上に上がってパイプ椅子に腰掛けたかの女は、金属弦の硬い音のフォークギターをストロークし、歌いはじめた。

 そんなこと言ったら良くないよ
 かっこよくしたから女の子が
 むらがって席を温める暇がない
 腰が曲がっちゃうなんていうのは
 あたしが望むのは…

ここまで「あたしが望むのは」というところまできて、いきなり「あははは」と笑い出して曲を中断した。
聞いていた高校生たちは「ん?」とあんぐり口で押し黙り、そのあと「おい」「こら」「がんばれ」という同級生たちの声が飛んだ。
かの女は「ごめんなさい」と言って真顔になって唄に戻った。「あたしが望むのは」以降の歌詞はなぜかしっかり聞こえた。

 あたしが望むのは素直に育った身体
 あたしが求めるのはしなやかな心
 無駄なそぶりや思い込み捨てて
 ひたすら歩み続けるあなた
 西に雨降れば濡れそぼれ
 東に日昇れば肌焼き
 明日に期待しないで
 今日が伸びやかに暮らせるあなた

まだサザンオールスターズとかのJポップではなく確かに「フォークの時代」だった。けれどもいきなり歌っていて「あははは」と笑い出し、また唄に戻る。そんなステージは見たことがない。
1年生だったわたしは、「そんなんありか」と思うと同時に、「しなやかな心」と「西に雨降れば濡れそぼれ」「東に日昇れば肌焼き」が文脈としてストレートにつながった。
そのころは「ネットで検索」とかYouTubeという時代ではなかったので、そのあとレコードで聴いたのかコンサートで出くわしたのかは分からない。「中山ラビ」というシンガーソングライターの唄で、『私が望むのは』というそのまんまの題名だったということがわかったのはだいぶ後のことだった。
 確かに高校生にとってはそれぐらいのインパクトだったのだが、かの女の「あははは」は、Jポップの歌詞や広告コピーはおろか、政治家やサッカー選手などが吐く「ポエム化」(@小田嶋隆)時代を経て、よく分かるような気がする。
襟裳の春は 何もない春です
である。

🔳江さんのタイトルをつけるにあたって

中山ラビの曲「私が望むのは」を3回聞いて、この文章を書いています。江さんが高校1年生、1972年がどんな時代だったのかを想像しています。江さんにとっての詩の原点がそこにあるからです。
寺山修司や宮沢賢治に匹敵する詩的体験とはどんなものか知りたくなりました。
 
身体言語、あるいは言語以前としての、詩的体験は、突然の笑いのような、日常の連続性を分断するところから始まります。それが詩の言葉につながっていくことがあって、そこに何かしらの圧が現れる。私たちはそれに出会うために生きているようなところさえある。日本人はおそらく、何かを取り戻し、未来に向かうために、古事記以前の言葉を探しています。

さて、私の第三詩集『ピルグリム』が完成しました。三つ目の詩は坂本龍一の死について書いた「パースペクティブ」です。昨年春の彼の死は、この詩集の最初を書くきっかけになりました。中山ラビより四つ年下ですが、同世代と考えて良いと思います。資本主義に翻弄され、器官なき身体として、自らを供犠に捧げたアーティストは、デジタルの声で叫びながら死んでいきました。いや、死ぬことができず、まだ煉獄/辺獄にいるようです。その肉声は永遠に私たちに届きません。この詩の最後のparagraphが「男は痙攣する音符になり ユニゾンの間を滑り 始原に溶けていった 」で終わります。書いた後に、「始原」という言葉について調べていたら、内田樹先生のインタビューに辿り着きました。

🔳始原の遅れ  磯﨑寛也

神のメッセージは基本的に、雲の柱とか、稲妻とか、燃える柴といった、非言語的な現象を経由して人間に臨むのです。(略)最初に主体があるのではなくまずコミュニケーションが成立して、事後的に回路の両端にいる発信者と受信者が立ち上がる。・・・江さんのエッセイのタイトルを考えた時、中山ラビの歌詞から何かもらえないか探しました。

「私が望むのは」
「私が求めるのはしなやかな」
少し近づきました。

なら、高校生の「あははは」の記憶はどうでしょうか?
「襟裳の春は何もない春です」
何もない春に戻る時、初めて、自分というものを了解する。つまり、何もない春は、胎内。そして母親・・・・

詩になり損ねた言葉の残骸を超えて、再度身体性に向かおうとしている私たちに、相応しい言葉はなんだろう。
過日聞いた吉増剛造の言葉を思い出しました。

言語が踊りつつ話している 
根源的な胎児性   
伝わらなくてもいい 
伝わってもいい
向こう側の子供の言葉がわかり始めた 
ハイデッガーがゴッホを見たときに
感じたあれだ
芭蕉のあれだ、かいつくろいぬ初しぐれ
の「つくろい」だ
概念を遠ざけて

ポエム化する、薄っぺらいこの空虚な世界において、体内で響いていたあの言葉、それを取り戻そうとしている、
そのタイトルは何か
うーん
ガツンときて1回KOだが、何十年も後を引く何もない春、何かを言っているようで何も言っていないが実は何かを言っているその文章のタイトル。

「何もない春に裸になって」ではどうか。
「暖かくて柔らかい言語以前の」ではどうか。「詩」を入れて、、、、
こうして逡巡した挙句
「何もない春に詩を巡って 言葉以前の」
となりました。お後がよろしいようで。

【随想】
「何もない春に詩をめぐって 言葉以前のかなた」
                江弘毅

 それは「暗闇からズドン」の場合もあるし、「登りに登ると地平が開けた」みたいなこともある。
「あめゆじゅとてちてけんじゃ」
でも
「大工町寺町米町仏町老母買ふ町」
でも
「砂混じりの茅ヶ崎」
とかでもそうだが、長く身体に刻み込まれているそのような一節は、身体性との関係性のひとつだ。
言葉の意味などない。作者のメッセージとしての解釈なども関係ない。ガツンときて1回KOだが、何十年も後を引く。
このような骨にまとわりついている筋肉のようなフレーズは、パーソナルヒストリーの一つだといって良い。いままさにこの原稿を書いているその通りであるのだ。
平川克美さんは最新刊『ひとが詩人になるとき』(ミツイパブリッシング/2024)で、堀川正美の詩である「新鮮で苦しみおおい日々」を挙げてこう書いている。
「言葉の意味を理解したり、具体的な情景を思い浮かべる以前に、言葉の大きな圧が直接的に私にのしかかってくるといった印象でした。そのような表現を、前意味的な表現と言ってもよいと思います。意味が生まれてくる直前の、情感が渦巻いている状態の言葉と言ってよいでしょうか」
けれども、とりわけシンガーソングライターがつくる歌詞に多いのだが、ジグソーパズルのピースがカチリと嵌まるようにつながって文脈になり、意味の束のような感じで身体に深く刻まれることもある。
中山ラビというフォークシンガーのことを知ったのは1970年代の半ばだった。高校の文化祭の時で、3年生の女性がギターを片手に唄っていた。
その高校は大阪の府立高校で、唄っていた3年生は普段からなにかと目立ってた女性だった。きみボクわたしの1年生からすると、すごい大人な感じがしていた。
今から思うと、制服のスカートの丈は引きずるような長さで、進学率100%のその高校では数少ないヤンキーだったのではないか、なのかもしれないが、講堂の舞台の壇上に上がってパイプ椅子に腰掛けたかの女は、金属弦の硬い音のフォークギターをストロークし、歌いはじめた。

 そんなこと言ったら良くないよ
 かっこよくしたから女の子が
 むらがって席を温める暇がない
 腰が曲がっちゃうなんていうのは
 あたしが望むのは…

ここまで「あたしが望むのは」というところまできて、いきなり「あははは」と笑い出して曲を中断した。
聞いていた高校生たちは「ん?」とあんぐり口で押し黙り、そのあと「おい」「こら」「がんばれ」という同級生たちの声が飛んだ。
かの女は「ごめんなさい」と言って真顔になって唄に戻った。「あたしが望むのは」以降の歌詞はなぜかしっかり聞こえた。

 あたしが望むのは素直に育った身体
 あたしが求めるのはしなやかな心
 無駄なそぶりや思い込み捨てて
 ひたすら歩み続けるあなた
 西に雨降れば濡れそぼれ
 東に日昇れば肌焼き
 明日に期待しないで
 今日が伸びやかに暮らせるあなた

まだサザンオールスターズとかのJポップではなく確かに「フォークの時代」だった。けれどもいきなり歌っていて「あははは」と笑い出し、また唄に戻る。そんなステージは見たことがない。
1年生だったわたしは、「そんなんありか」と思うと同時に、「しなやかな心」と「西に雨降れば濡れそぼれ」「東に日昇れば肌焼き」が文脈としてストレートにつながった。
そのころは「ネットで検索」とかYouTubeという時代ではなかったので、そのあとレコードで聴いたのかコンサートで出くわしたのかは分からない。「中山ラビ」というシンガーソングライターの唄で、『私が望むのは』というそのまんまの題名だったということがわかったのはだいぶ後のことだった。
 確かに高校生にとってはそれぐらいのインパクトだったのだが、かの女の「あははは」は、Jポップの歌詞や広告コピーはおろか、政治家やサッカー選手などが吐く「ポエム化」(@小田嶋隆)時代を経て、よく分かるような気がする。
襟裳の春は 何もない春です
である。


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