唐十郎の詩

唐十郎がお亡くなりになった。とても悲しい。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。一つの時代が終わっていくことを痛感する。

僕が最初に唐十郎を意識したのは、1983年の「佐川君からの手紙」今も忘れない。僕はこの小説を同級生だった大井川知事の誕生日プレゼントに贈ったのだ。82年の芥川賞だった。知事はストレートで東京大学に合格した。

僕は浪人して、高田馬場の文学部に通い、新宿のゴールデン街でバイトをし、飲んだくれ、自堕落の日々を送った。赤テントはひっそりと花園神社で活動を続けていた。アングラに憧れた。状況劇場や天井座敷はもう大御所で、※1鴻上尚史や野田秀樹が一世を風靡していた。彼らが劇団から個人の活動に移っていく中で 唐組はクオリティを落とすことなく若手を育てつづけた。唐十郎にとって人材育成は大きなテーマだったんだろう。
演技が時代を作ると信じていたに違いない。

90年に水戸芸術館ができ、芝生の広場で赤テントの公演が始まった時、どれだけ嬉しかったか。早稲田小劇場の鈴木忠志が、演劇部門の芸術監督だった。※3(これは早稲田卒の佐川市長の人事だと思う)水戸が文化の可能性でキラキラしていた。僕は震災の神戸から水戸に帰ることにした。もう伝統芸能の域まで達した赤テント唐組だが、時に多くのことを学んだ。それは、傷ついた心を癒し、新しいアイデアをもたらし、フィジカルなノスタルジーに浸ることもできる、特別の場所だった。

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唐十郎は1940年生まれ、明治大学文学部演劇学科在学中から俳優として活動、土方巽の教え子である。1963年に「シチュエーションの会」を立ち上げ、翌年劇団「状況劇場」に改名、1967新宿の花園神社で「紅テント」を張り劇場をスタートした。(68年から80年まで中断したが、その後は現在に至るまで公演を続けた)1989年に劇団「唐組」を結成、劇作家、演出家、俳優として上演を続けてきた。 

過激な人でもあった。
1969年新宿西口公園にゲリラ的に紅テントを建て、『腰巻お仙・振袖火事の巻』公演を決行。200名の機動隊に紅テントが包囲されながらも最後まで上演を行い、唐十郎、李麗仙ら3名が「都市公園法」違反で現行犯逮捕された。また同年12月12日、天井桟敷と状況劇場の団員らが乱闘事件を起こし、寺山修司とともに暴力行為の現行犯で逮捕された。1970年、自身による作詞・歌のレコード『愛の床屋』を発売。歌詞に対して全日本床屋組合よりクレームがつき、発売禁止、放送禁止となった。

一方、多くの人に愛され、評価され、才能をを育てた。※21970年に「少女仮面」で岸田国士戯曲賞。小説家として1978年に「海星・河童」で泉鏡花文学賞1983年に「佐川君からの手紙」で芥川賞を受賞、2003年の「泥人魚」は長崎の諌早湾の干拓問題を扱い、多数の演劇賞を受賞した。2021年に文化功労者。

八方破れで、気骨の入ったアクティビストの面もあった。無許可のまま戒厳令のソウルにて、反権力
詩人金芝河作の『金冠のイエス』とともに『二都物語』を韓国語で上演した。
1973年にはバングラデシュのダッカ、チッタゴンで『ベンガルの虎』を、1974年にはレバノン、シリアの難民キャンプで『アラブ版・風の又三郎』現地語での公演した。

新しい演劇言語を作り上げ、それを海外に伝播させた功績は、ノーベル賞に値すると個人的には思う。

※1小劇場ブーム
野田秀樹の夢の遊眠社、
渡辺えり子の劇団3○○(3重丸)
鴻上尚史の第三舞台
三谷幸喜の東京サンシャインボーイズ

※2唐十郎の育てた俳優/アーティスト
麿赤児、不破万作、大久保鷹、四谷シモン、吉澤健ら、根津甚八、小林薫、佐野史郎、横尾忠則、金子國義、赤瀬川原平、篠原勝之

※3鈴木忠志は、早稲田大学在学中に1961年に「新劇団自由舞台」を創立。卒業後、1966年新たに「劇団早稲田小劇場」を結成、劇作家の別役実、俳優の小野碩らが在籍し、小劇場運動の旗手としての役割を果たした。

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