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手紙のある暮らし

7月1日。
2020年も半分終わりました。
いまごろ、オリンピック目前で、開催地の東京だけでなく、出場選手の練習地となっている全国各地で、賑わいがあったかもしれませんが・・・延期というか、ほぼ中止となったわけですが・・・私の周りだけでしょうか、オリンピックの「オ」の字も聞かない日々です。コロナ禍で、それどころではないというのが正直なところではありますが、それだけではなく、オリンピックそのものが、1984年のロス五輪以降、形骸化している、ということなのかもしれません。
さておき、コロナで始まって終わった2020年上半期。ムスメとのステイホーム&ステイテンプル、その他コロナに関わる諸々でした。欧米には「サバティカル」という「休み方」があります。1ヶ月〜1年、もしくはそれ以上、期間をあまり定めない休暇です。日本だと法的に効力の薄い「競業禁止規定」や退職時の「誓約書」を交わしますが、欧米の場合、それなりのポジションで働いていたひとには、高額な退職金を支払う代わりに、1年とか、それ以上の期間、他社で就業しない(仕事をしない)契約を結びます。それだけでなく、キャリアチェンジで、長期の休みをとって、その間大学で勉強したり、家族と旅をしたり、ボランテイアで何かをしたり、多様な「休みかた」というか、「生きかた」の選択肢があります。日本の大学の先生の、「在外研究」(所属大学を離れて、海外の大学に1年行ったりすること)も、このサバティカルですね。私にとっても、お寺を引き継ぐ期間ということで、法的な手続き、金融機関の引き継ぎ、本山や地域のお寺との事務手続き、境内の中と外の諸々のことを引き継ぐ準備の半年で、「ライスワーク」はほぼお休みの状態で、ゆっくりとした時間の中で、これからのことを考える時間をとることができました。サバティカルって、こんなことなのかと思いながらの半年が過ぎました。

こういう状況ですので、本来のお寺の役割である「集まる」場所としての機能は、半年止まってしまいました。サンスクリット語で「サンガ」。(僧侶や門信徒の)集まり、集団、集まる場所(寺院)のことです。我が家の犬の名前は、実家のお寺で飼いはじめたときに、この犬がきっかけで、いろんな方が集まっていただければという思いで、「サンガ」と名付けました。9年目にしてやっと「お寺の犬」になりました。
それはさておき、集まれないので、45軒のご門徒のお宅とは、「寺報」(社内報のお寺版)を発行して、近隣は手渡し、遠方は郵便でお送りしています。2月、3月、5月、7月とお届けしました。

お寺から、ご門徒や関係者の方々への「お手紙」でもあります。また遠方のご門徒や本山とのやり取りも、手紙や文書が大半です。この「あえて手紙」ということを、下半期は大事にしたいと思っています。下半期だけでなく、ずっとのことではありますが、私の公私ともの生活の中に、手紙がある生き方をしたいと考えています。

手紙を「書く」ことを、「したためる」といいますね。語源をしらべてみました。漢字で「認める」・・・①書き記す②食事をする③整理・処理をする・・・とあります。書き記す、ということは書き綴る。綴るとは連ねること。そして整理する、ということで、手紙を書くということは、手紙の受け取り手のことを想い、自分の頭の中のことを整理して、言葉を紡ぎ、そして書き連ねるということです。だからでしょうか?寺報は1日で原稿を書きますが、どっと疲れます。そして何度も書き直します。最初に妻に読んでもらい、また書き直して、PowerPointでなんちゃってDTP、PDFで入稿データにして、ご近所の印刷所で出力してもらいます。UD(ユニバーサルデザイン)フォントにして、なるべく読みやすいようにしています。いまはA4両面にしていますが、ベストはA3で、フォントサイズをもうちょっとUPしたいですね。ご門徒とお寺やまちでお会いしたり、電話でお話した際に、「ともしび(寺報)読みましたよ」とおっしゃって下さいます。下半期も、隔月、できれば毎月出すように(それが私の仕事ですもんね)します。

下半期をスタートするにあたり、手書きでひとこと添える。手書きの手紙を書くことをまた始めます。ムスメの宿題やステイホーム中の課題をやっているのを見てますと、「手書き」の大切さを再認識しました。手で書くという「思考」のプロセスが、人間大事ですね。なぜネット、特にソーシャルメディア(≠SNS)の言葉は「暴力的」なのか?手で書くというプロセス、推敲するするというプロセスがないから、受け手を傷つける表現を瞬発的にやってしまうのでしょう。他人事ではなくて、自分事で、妻とはLINEを使ってますが、どこか感情的なやり取りになってしまってるときがあります(ごめんなさい)。ネットを介したコミュニケーションは、便利である一方、「浅慮」(思慮が浅い)、相手に想いを寄せることが浅くなっています。

手紙を書く、手書きで書くには、書くための「時間」が必要です。その時間は、相手を想うこと。手紙を書くことを通じて、自分と相手の時間を豊かにすることができる(かも)しれませんね。私が素敵だと思う方々に共通しているのは、筆まめですね。(僧侶ですので、筆にも慣れないといけません。。。)手紙はメールと違って、かたちあるものとして大切に残しておけます。浪人時代に予備校の寮あてに頂いた恩師の手紙は、30年経ちましたが、折々で読み返すことがあります。頂いたそのときには感じなかったことが、歳を重ねて読み返すと、また違ったことに気付かされます。手紙を書く時間以上の深い時間が、一文字一文字と、その行間に詰まっているということでしょうか。

手紙を書くためには、紙とペン、はがきか封筒が必要です。それは文具が好きな私ですので、いろいろとストックがありますし、企画書を作るときは、まずは「手書き」なので、書きやすいペンや、20年近く使っている万年筆と、お気に入りのインクがあります。あとは、相手のことを思って、「読みやすい字を書く」ということ。「暗号化」は手書きの手紙には必要ないですもんね(笑)。書かないと、字が汚くなるというか、読める字がかけなくなりますね。半分言い訳ですが、相手のことを想って、読める字を書くということも、私にとって今大事なことです。

近所にお住まいの、妻のお友達から、完熟のトマトを頂きました。ニンニク、セロリと炒めて、ハンドミキサーで潰して、味付けは塩コショウ、少しだけチキンブイヨンで、冷製スープにして頂きました。
寺報を配りに行くと、ご門徒からたくさん季節の野菜を頂きました。今回は人参をたくさん頂いたので、人参も冷たいスープにして、蒸し暑い日々を涼しく過ごしたいと思います。

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