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ただあるなりは人間の生なり

久々の更新です。
書くことがなかったわけでもなく、書く時間がなかったわけでもなく、
若干、書く気持ちが整ってませんでした。

寺報(お寺の広報紙)のコラムに書いた文章です。
いま、新型コロナウイルスという「見えないもの」に、私たちは日々忙殺されています。連日、「何処其処で感染者が出た」とか「誰々と誰々が濃厚接触」などと報道されていますが、本当にその情報が私たちの生活のためになっているのか、疑問に思います。
宗祖親鸞聖人が生きられた時代も、毎年のように戦乱、地震、水害、虫害、干ばつ、寒冷、飢饉、そしてこのたびのような疫病が流行したそうです。それまでの国家鎮護の仏教や加持祈祷、陰陽道や民間信仰が全く役にたたないことを目の当たりにし、真に人々に寄り添うものとしての仏教、わたしたちの仏教(鎌倉新仏教)が生まれた時代でもありました。
人間の寿命がいつ尽きるかは、老いも若きも関係なく、「ただあるなりは人間の生なり(今ここに生きている)」(『御文章』)という事実であり、だからこそしっかり「今日を生きる」ということが、浄土真宗のみ教えです。
流れる情報に惑わされず、「今をしっかりと見つめる」生活をしたいものですね。

限られた紙面ですので、書いては消し、で、短い文章になりましたが、今回のコロナウイルス危機で、「今日を生きる」ことができる有り難さを実感します。そして、世の中が大きく変わることを、日々目の当たりにしています。
働き方でいえば、感染を回避するためリモートワークが加速化し、経済の鈍化も後押しとなり、複業がスタンダードになるでしょう。生活面では、都市に住むメリットが少なくなり、多拠点での生活(現代版の疎開)も始まるかもしれません。またこれまでの集団で均一化した学習環境ではなく、ウェブを活用した、多様な学習機会(単に個別学習、ではなく、ウェブを介して、世界とつながって学ぶことができる、ということ)が、だれでもできる時代へと変わるでしょう。
これまでの生きかた暮らしかたを「変える」ということは、一朝一夕でできることではありませんが、これまでの歴史や文化の延長線上の「生きるちから」が問われる時代に突入した感じがします。
だからこそ、宗教や哲学や文学や芸術などの「リベラル・アーツ」と呼ばれる領域が、その生きるちからの「糧」として不可欠になるのではないでしょうか?
私の場合、読みたい本と映画が、結構溜まってきました。まずはこの積ん読を解消することに。。。
※休校で自宅や学童で過ごしている子どもたちが、ゲームしたりYouTubeみたり、ぼぉーっとしたり、宿題しなかったりしていても、私はいいと思います。大人ですら、連日の報道で疲れているわけですから、感受性の高い子どもは、それ以上のストレスだと思います。そういうストレス回避があってもいいじゃないですか?暇な時間も必要ですよね。今は、ココロとカラダとアタマを休めることが最優先です。

先週から、ムスメとほぼ一緒に過ごしています。自分のペースで宿題をしたり、買ってきたドリルをしたり、本を読んだり、絵を書いたり、工作をしたりしてます。ひとりで行動するのが苦ではないようです。そしてムスメなりに、今起こっていることを受け止めているようです。家事の手伝いもよくやってくれます。この数週間で、とてもたくましくなったように感じます。明日は晴れの予報ですので、外遊びも少しづつ再開できるといいですね。

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