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必要とされるダメなやつ

つくづく自分という人間が嫌になるが、それはもう芸風の一つなんじゃないかと思い始めている。つまり、「自己嫌悪芸」というものだ。そうしないと、なんだか気持ちが悪い。自分で自分を嫌なやつだと思っていると、安心している節がある。自己嫌悪というフィルターを通して、どうにか人生を歩んでいるようなものだ。なんつーめんどくさい仕様なんだ。

逆に自分にめっちゃ自信がある人を見ると、「うわぁ」と引いてしまう。もちろん、そんな引いてしまう自分こそがおかしいって気づいてる。できれば人間、自信があったほうがいいんじゃないだろうか? 無駄な自信があるほうが、人生は優位に歩める気がする。僕だって中学生くらいのころは、根拠のない自信が溢れていた気がする。それが20年余りを通して、少しずつ削られていった感じだ。

こんな僕だけど、自分をダメな奴だとは思っても、クズだとは思わない。僕の思うクズっていうのは、たとえば借金まみれになって家族に迷惑をかける(自分本位に)とか、DV夫や妻とか、毒親とか、まあそういうものをカテゴライズしている。ダメなやつはそこに入らない。というか、人類の半数くらいはダメでいいんじゃないかとすら思っている。

世の中に富裕層と貧困層があるように、この世の中はスゴイやつとダメなやつがいて廻っている気がする。弱肉強食、資本社会、民主主義。そんな世の中なんだから、格差があって当たり前だ。むしろダメなやつがいるからこそ、スゴイやつが輝く。ダメなやつに価値を見出すべきなんじゃないかな、なんてあまのじゃくな僕はよく考えてしまうのだ。

働きアリはどれだけの数になっても、必ず2割くらいはサボるアリが出てくるという。でも、そういうやつがいるから、他の働きアリが輝くのだ。みんなが一生懸命に働くようになったら、秩序とかバランスが崩壊するんじゃないか。世の中にはダメなやつだけじゃなくて、弱いやつも、辛いやつもいる。そんな人たちと一緒に、生きていく。みんながみんな、すごいやつを目指さずに生きていく。それが理想の社会なんじゃないだろうか。

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