会話の海でおぼれたい
今朝、パステルフィキサが発送されたらしい。僕はいつもターレンスのものを使っている。他のフィキサと厳密に比べたわけじゃないけど、Amazonで買いやすいし、使用頻度がもっとも高い。もっとよいフィキサがあるなら、それを教えてほしいけれど、そこまで交友関係が広いわけじゃないから、いつも情報収集はネットでしている。
よく、本物の知識はネットに転がっていないと言われる。読書偏重主義の人たちの主張だ。でも、そのたびに僕は「本物って何だ?」と思う。もちろん、紙の本は精度が高い。それは間違いない。だって紙の本は何人もの人間が関わって、社名や個人名など、あくまで責任を持って発行している。それに比べれば、ネットの情報は玉石混淆そのもので、デマやいい加減なものもたくさん混じっていると思う。それはたぶん、事実だ。
けど、別にそれでいいんじゃないかと思ってる。そもそも、ネットの情報と、本の情報を一緒くたにしてはいけない。僕はネットっていうのは、会話の海じゃないかと考えている。他人と会話するときだってそうだ。玉石混淆そのものじゃないか。会話っていうのは、けっこういい加減で、曖昧な記憶にもとづいて、「たしかテレビで言ってたんだけど~」とか「あたしの経験だと~」とか、精度なんて関係なしに話している。
そう考えると、ネットは会話の海だけど、その中でもnoteはよりそれを見やすくしたものなんじゃないだろうか。記事って思うと、何だか心に重いものがのしかかってくるけど、単なる会話だと思えば、ちょっとはラクになる。僕はそういう意識でnoteを使っている。みんなの会話を聞いて、たまにその中に、少し心がラクになる話があったり、役に立つ話があったり、くだらない話があったりする。
会話ってそういうものでしょう? 会話に求められる機能性は「コミュニケーション」だと思う。つまり、意思疎通や、交流ってことだ。そこに「勉強」とか「知識の獲得」はない。セミナーなら話は別だけれど、それならセミナーに行けば済むことだ。会話の最中にセミナー的な要素を求めたり、読書的な要素を求めたりしないでほしい。僕はくだらないことを話したい。
いっそ人類みなバカになってしまえばいいんじゃないかな。ここ最近の能力至上主義というか、生産性が高くないと人間としてダメみたいな風潮は、どうにも生きづらいものだと感じている。そもそもみんな、そんなに生産性の高い人間になりたいんだろうか? 本音はただダラダラと過ごしたいだけなんじゃないかなと思って、疑ってかかっている。
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